「……ねぇちょっと。誰かあの見苦しい睨めっこ止めてきなさいよ」
「そんな簡単に……」
「與儀、アンタ男でしょ! 偶にはそのミジンコ程小さいなけなしの度胸見せなさい!」
「ええっムリ、絶対ムリだよ〜っ!」

辟易、呆れ、倦怠。
色とりどりの様々な感情にいつもの面々が同じような面持ちを連ねる中、呆れかえるメンバーを歯牙にもかけず険悪な雰囲気を醸し出す男二人が対峙していた。

黒曜石の瞳に剣呑とした光を灯し、真っ向から相手を睨み付ける細身の少年。片や一見愛想の良い笑顔を浮かべているものの、眼鏡の奥の瞳は全く、微塵も笑っていないどこか裏のある青年。
二人ともまだ一言も喋ってはいないが先程からずっとこう視線のみで火花を散らし、纏う空気だけで互いを牽制、威嚇しあっている。
そこに広がるのはさながら弱肉強食の世界、喰うか喰われるかの手汗握る熾烈な抗争。與儀が仲裁に入ったところで膠もなく二人に打ちのめされ心をボロボロに傷付けられて終わるだろう、そんな結末の見える未来に当然腰が引けた與儀は「イヤだイヤだ」とかぶりを振った。

黒い狼と黒い鷹。例えるならばこれが一番相応しいだろうか。丹念に磨き上げられた鋭い牙に鋭い爪。いったいどちらが勝つのやら。
固唾を飲んで闘員が二人を遠巻きから見守る中、いよいよ燻ぶったままだった戦いの火蓋が切って落とされた。

「────ホントいい加減にしてくれないかなぁ。毎日人目も憚らずこれ見よがしにいちゃいちゃと……僕が名前のことを好きなの知ってるよね? そろそろその稚拙で幼稚な嫌がらせも程ほどにしてくれないと、僕にだって考えがある」
「考えだぁ? ハッ、どうせまたロクなことじゃねーだろ。ちょっとは堪えて大人しくなるかと思いきや、懲りずに何度もあいつに近付きやがって……いい加減にするのはテメェの方だ。さっさと折れろ諦めろ、んで他の女でも見つけるんだな」
「他の女? ……ハァ? 花礫君こそ冗談は休み休みに言いなよ。僕はね、甘い蜜とリップサービスに絆されてホイホイと蟻のように群がる女に生憎興味は無いんだ。堪えるってなにが? むしろ煽ってくれてアリガトウ。俄然君から奪ってやろうとやる気になったよ」
「……」
「……」

両者一歩も引かず譲らず。
状況は依然膠着したままだ。いっそう底冷えとした空気が蜷局を巻き、身の毛の弥立つ悪寒に遠く避けていたイヴァ達は思わず身を震わせた。
誰か、誰かこの息苦しい空間を収拾付けてくれ。とすると、あの二人を諫めることが出来るのは渦中に出てくる人物しか居ない訳で。困窮に切迫したツクモは携帯を取り出しカチカチとメールを打ち始めた。
はやく、早くしないと。
今にもお互いの胸倉に掴みかかりそうな男二人の様子を見て、持て余す焦燥を振り払うように一心にボタンを連打する。

ハラハラ、ドキドキ。
嫌な意味で心臓が煩く高鳴っている。
その間にも喰と花礫の口論はより酷いものへとエスカレートしていき、今や聞くに耐えない馬鹿馬鹿しい言い争いへと発展していた。

「僕は小さい頃、名前と一緒にお風呂にも入ったんだ。もちろん今のスリーサイズだって把握済みだよ。最近甘いものを食べ過ぎて太ったってこともね」
「だからなんだよ、風呂なんざ所詮、昔は昔だろ。そもそもあいつは太った訳じゃなくて胸がデカくなったから太ったように見えるだけだっつの」
「……寝る時は丸くなって寝る」
「……好物はアップルパイ」
「半身浴は週に二回!」
「キスの息継ぎがヘタクソ!」
「…………」
「…………」

……バカじゃないのあいつら。
遠目に見ていてもかろうじて聞こえてくる名前の知ってるところ自慢にイヴァがゲンナリとしつつ呟いた。だいたい喰は何故半身浴の回数なんか把握してるんだ、はてはストーカーなのか気持ち悪いと皆がドン引き。

その時、ようやく待ちかねた姿を目にしてツクモが「あ、」と声を漏らした。
しかし細い体は沸々と込み上げる得体の知れない何かを堪えるように細々と震えている。俯いているから顔色は窺えず、けれど羞恥に憤っていることは伝わってきた。そして、

「〜〜いい加減に……っしなさい!!」

我慢の限界点を達した女の怒声が、不穏な空気が漂う食堂中にたちまち高く響き渡った。
「名前……!」と渦巻く空気に当てられてもはや涙目になっていた與儀が心から望んだ救世主の登場にほっと胸を撫で下ろす。奇遇にも彼女はツクモのメールが届いた時には既に食堂に向かっていたようで、知らせを見た次第わざわざ走って急行してきたというわけだ。

「ツクモが助けてってメール送ってくるから何事かと思えば、取るに足らない事で言い争いなんかしてるの」
「取るに足らない? これは大事なことなんだよ少なくとも僕らにとっては。だから名前といえども邪魔しないでくれる? まだ勝負は終わっちゃいないんだからさ」
「上等だコラ……!」
「花礫くんも安い挑発に乗っちゃだめっ。喰の思う壷だよ!」

喰に噛みつかんばかりの花礫を抑える。やっぱり名前を呼んでよかった、本っ当によかった……! これで事態も無事収束へと向かうだろう。ああ、めでたしめでたしじゃないか。誰もがそう信じて疑わなかった。
──喰の口から、再び大きい爆弾が落とされなければ。

「名前」
「ああもうなに!」
「好きだよ、本当に」

なんの前触れなく突如として直球どころか豪速球で放たれた衝撃の発言に、状況を黙って見守っていたイヴァ達は瞳を見開いた。そしてその後、神妙な面持ちに変わった名前が言った言葉に、さらに驚かされることとなる。

「……知ってたよ」

苦笑気味に告げられた言葉。
そりゃあ、あれだけハッキリと好意が伝わるようなアピールをされていれば誰だって気付くだろう。名前はそこまで鈍感でも無い、むしろ人の感情の機微にはひどく敏感だった。それが今までともにいた、幼馴染みである喰ならば尚更に。
傷付けると分かっていて見ないフリをしていた。ずっとこのままの関係で居たくて、付き合うことは出来ないけれど離れてほしくも無くて。とんだ強欲だ、我が儘だと後ろ指を差されても仕方がないと思う。
喰も当然そんな名前の葛藤を知っていたし、見抜いていた。だから自分も甘んじて幼馴染みという関係を存分に、遺憾なく利用させてもらった。
狡いのはどちらもお互い様だ。痛み分け。

流石に花礫も今ばかりは二人の間に割って入るなんて野暮なことはしなかった。ケリを付けるなら今かもしれない。それは名前にとっても、喰にとっても。
そう思ったから、例え距離が近い二人を見ても何も口にはしなかった。
暫くして、張り詰めた空気を和らげるように喰がふと頬を弛める。観念したような苦い、とてつもなく苦い笑みだった。

「ありがとう、喰。今までずっと傍に居てくれて、泣いてる私を見守ってくれて、支えてくれて。でも、ごめんなさい。気持ちに応えることは、出来ないよ」
「……これだけ聞かせて。もし名前が花礫君と出逢ってなかったら、花礫君に最後まで見向きもされていなかったなら。君は僕を見て、選んでくれてたのかな?」
「……解らないよ。でもどんな道を辿っていたにしろ、私にとって喰が大事な人であることに変わりは無い。だから」
「もう良い。……もう良いよ、それだけ聞ければ充分」

ありがとうはコッチの台詞だ。
ポンポンとすれ違いざま頭に触れていった温もりに、名前の涙腺は緩んだが眼窩から滴が溢れることは無く。
ただ瞳を閉じて、遠ざかっていく足音だけを聞いていた。次第にイヴァ達も静かに席を立ち退室する気配を感じる。気を使ってくれたのだろう、心配げに此方を窺うツクモに口パクで「ありがとね」と告げれば、安心したように微笑んでイヴァの後を追っていった。

残されたのは花礫と名前。
ようやっと重い空気から解放されたと息をつけば、間を置かずして後ろから抱き寄せられた。まるで親に縋る子供みたい、どこにも行くなと引き留めるような抱擁に微笑を零し、回された腕に手を添える。

「……花礫くん?」
首を捻って後ろを振り向けば、見るなと言わんばかりに無骨な手のひらが視界を覆った。
眼は塞がれたまま、おもむろに肩に埋められた顔。息遣いを傍で感じ花礫の吐息が鎖骨を掠めて擽ったいが、甘えられているのだと気付けば無理に引き剥がすことも出来なかった。
痛みのない黒髪を撫で、指でゆっくりと梳いていく。

「……焦らせんな、バカ女」
「ごめんね。でも私、花礫くん一筋だから」
「知ってる。……じゃなきゃ、許さねー」

喰、ごめんね、ごめん。
でも、──ありがとう。
あなたが居たから大好きな人に冷たくされても、めげずに頑張ってこれたの。
今こうして幸せに浸かっていられるの。

だから次は、君が幸せになる番。次は、私が君の幸せを見守る番。
役不足かもしれないけど、今まで君から与えられた想いには遠く及ばないかもしれないけれど、せめてもの恩を返したい。
私は花礫くんを幸せにするから。花礫くんに幸せにしてもらうから。

(だから、どうか。)
名前は花礫の腕の中、この上なく温かいものに包まれて、やがて降ってきた唇を受け入れるため瞳を閉じた。
──大好きな君に、多くの幸あれ。
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