いったい何度この女のことで肝を潰せば良いのか。
これじゃ命が幾つあっても足りないと、身の細る思いを持て余しながら物音一つしない静まり返った空間に嫌気が差す。

羊から衝撃的な知らせを受け、花礫は読んでいた本すら等閑に気ぜわしく名前の部屋へ駆けつけて、現在は女が眠る寝台に腰掛けていた。
羊は「過労と貧血」と言っていたから、「あの時」ほど惨い状況では無いにしろ倒れるなんて相当のこと。この所名前が目まぐるしいほどの仕事量に齷齪と働いていたのは自分も知っていた筈なのに、何故嫉妬なんてせず譲歩して休めと促してやれなかったのか。
言わずもがな自分の心が狭いからだと花礫は歯噛みして、布団から出ている名前の手をぎゅっと握った。

すると突如、ノックもそこそこに扉が開かれる。
現れたのは喰と水の入ったコップを持った羊で、青年は花礫の姿を目にするなり「ああ、来てたんだ」と空惚ける素振りを見せた。
呼んだのはテメェだろうが、と名前を掴んでいる手を後ろに隠しながら睨みつける。
恐らく視力の優れた彼には見えたのだろう、ますます喰の微笑は深まったが目の奥は笑っていない。相変わらずいけ好かないヤツ、と花礫は心中吐き捨てた。

「それにしてもホント名前って運が無いよね。自分にとって特別な日に倒れるなんて」
「……特別って、」
「今日、名前の誕生日なんだよ」
「っは……?」

なんてことはなく、サラリと投下された爆弾に、花礫は二の句が告げなくなるほど鈍器で容赦なく殴打されたようだった。反射的に紡ぐ言葉を失い、安らかに寝息を立てて眠る名前を見下ろす。
(そんなこと、一言も)
何で、どうして。ぐるぐると花礫の脳内が多くの疑問で埋め尽くされる。
でも少し頭を冷やして考えれば分かることだった。
答えは極めて単純明快、自分が話す隙を全く与えなかったから。即座に合点がいき自分の過失に気付いて絶句した花礫に、しかし喰は追い討ちを掛けるかのごとく二人が仲違いするきっかけとなった日の種明かしをした。

「そうそう、僕がこの前名前にキスしたことあったでしょ? 覚えてる?」
「……忘れるワケねーだろ」
「うん。それね、蓋を開けた真相はハロウィンで名前がお菓子持ってなくて僕が悪戯としてやっただけだから」
「なっ」
「つまり合意の上じゃないってこと。ついでに言えばキスしたのは口じゃなくてほっぺね」

君が居た所は所謂死角だったから僕が名前の口にしたように映ったのかもしれないけど。してないから。だから聞く耳持たず頭ごなしに名前を責めるのはお門違いってワケ。分かる?
そう言うわりには自身も悪びれなく淡々と語る喰に、花礫は思いもよらず呆気に取られた。わざわざ言われなくてもお門違いなのは重々承知していること。
名前がうつつを抜かして他の男の元に行くなんて毛ほども思っていない、けれど幼稚な心は本人にこっぴどく当たるしか苛立ちを紛らわせる方法を知らなくて。
改まって言葉にされるとその皮肉はいっそう少年に重くのし掛かってきた。
舌を打って「分かってる」と花礫がけんもほろろにすげなく告げれば、これ以上どうしようもないと呆れ顔を浮かべた喰は(後は名前が話すだろ)と無責任にも匙を投げ、「夜分も遅いしまた明日来るよ」とだけ言い残して羊を連れ早々に退散していった。

──なんだか今日は不運続きだ。
たどたどしい所作で遠慮がちに名前の髪を撫でる花礫は晴れない気持ちが胸中に蟠ったままため息を零した。
誤解は解消された。だが謝りたい、謝らなければならない人物は夢路を辿っている最中。髪から這って涙袋の下を黒く覆う隈をなぞり、前に顔を合わせた時より幾分か血色の悪い頬に手のひらをあてがう。

この柔らかい頬に、あの喰が。
いっさい思い出したくもない光景を思い出し苦虫を噛み潰したような顰めっ面をした花礫は、喰の感覚を掻き消すよう乱暴に手の甲でゴシゴシと拭った。
加減のない摩擦に名前が眉根を寄せて花礫の手から逃れるように顔を逸らす。やがて鼻にかかる息を漏らして、緩慢と怠い目蓋を開いた。

「……名前?」
「……が……く……、?」
「……ああ、」
「……がれきくんだぁ……」

まだ夢見半分、といった蕩けた顔でふにゃりと名前が笑うから、意表を突かれた少年は口を閉ざして速まった鼓動を抑え今は名前の勝手にされるがままになっていた。彼女は花礫に掴まっていない方の腕を上げると、相手の顔に指を滑らせ存在を確かめるかのようにじっくり頬骨と顎の合間を行ったり来たりする。
「くすぐってぇ、」と花礫が目尻を窄めれば名前は笑みを浮かべたが、次の瞬間には苦笑するような神妙な面構えになった。

「ごめん、ね、花礫くん……ごめん……なにか欲しいわけじゃなかったから、丸一日休暇もらう為にお仕事に専念して、お休みもらって、ただ、花礫くんと誕生日二人だけで過ごせればいいな、って、それだけだったの……好きでほったらかしに、してたわけじゃなく、て……」
「分かってる。……ちゃんと分かってっから、謝んの止めろ」

謝んなきゃなんねーのは、俺の方だ。
頬に触れる名前の手を掴み、両の手を固く握った。
緊張が緩んだかのように和らぐ名前の表情に花礫もふと微笑を零し、再び糸が切れたように眠りに入った名前の手のひらに口づける。
「……悪い。」ガキは、俺だった。
ぽつり、落とした言葉は露に消えていった。名前が仕事に対して誰に負けることも劣ることもなく真剣なのは分かっていた。誰より現実的に考えていることも。

「こういう仕事をしてると、どんな時に任務で命を落とすか分からないからね。だから私は自分がいつどうなっても後いの残らないように、自分に嘘を吐かず素直なまま生きたいの」

いつの日かそう言って微笑っていた彼女の姿は、儚く見えた。凛と前を見据えて堅実に地を踏みしめて歩く背中が、どうしようもなく眩しかった、遠かった。この短い腕を精一杯伸ばしても、届かなかった。あの果てしなく高い高い空のように。
こんなに近い距離なのに、見えない境界線が自分達を阻む。
まるで親を見失った迷子の子供のよう。堰を外した想いの行く末は、底を知らなくて。

「……早く、起きろ」
一人にすんな、つまんねーだろ。
漠然とした不安を押し潰すよう、縋るみたいに花礫は名前の温かい手に頬をすり寄せた。
ALICE+