寛ぎを感じ、穏やかで愛情に満ち足りた日々だった。
波風もなく円満な家庭。ありきたりに溢れるような、はしゃぐ子供を真ん中にそっと微笑みを交わす夫婦。
他人からすれば何の取り留めもない、他愛ない日常の光景。そんなつつがなく平穏に暮らしていた家族の形は、旦那の性格が突如一変したことから破綻への一途を辿っていった。
暴力なんて言葉とはとても無縁だと言って良いほど、物腰も柔らかで温厚かつ優しい人だった。それが兆候もなく、あたかも別人になってしまったかのように気性が荒くなり、毎晩夜になれば家を出掛け、子供が怯えて泣けば目の色を変えて拳を振るう。
迷いも躊躇もなく翳される一方的な力に、子供を庇う私の身体には常々痣が増えていく。

何故、どうして。彼の身にいったい何が。
不信感と疑問ばかりが胸に募っていく中、願わくばあの輝かしい日々を取り戻したいと天に懇願するばかりだった。けれど願いは虚しく、悲劇は起こってしまった。
その日は珍しく旦那の機嫌も良好で、嬉しそうにじゃれつく子供とも一緒に遊んでくれていた。もちろん私も嬉しくて、ホッと胸を撫で下ろして。買い物に行ってくるからと息子を任せて、旦那に留守番を頼んだのです。

そして帰ってきて、──時間が止まったようだった。
鼻腔が狂うんじゃないかと思うほどの、咽せ返る錆びた鉄の臭い。白い壁には所々に赤い飛沫が散っていて、部屋の中央で立ち尽くす夫の足下には、大切でいとしい、私達の──。

身体から芯が抜けたようだった。膝から崩れ落ちて、見るも無惨な遺体を見て吐き気を催す。
出掛ける前、あんなに無邪気にあどけなく笑っていた息子の姿は今や影も形もなく、空虚な眼孔だけが此方を向いていた。ぞっとする歪な笑顔を浮かべた旦那が私に歩み寄る。とてつもなく恐くて、一刻も早く彼の側から逃げ出したくて。だけど力が入らない身体ではまともな抵抗も儘ならない。何よりもう息が無いとはいえ、息子を置いて自分だけ、なんて母親として卑劣な愚行は犯したくなかった。
ああ、私の人生もここで朽ちるのか、呆気ない幕切れだったな、と。
全てに失望して、腹を括って瞳を閉じた。しかし覚悟していた痛みはいつまで経っても訪れず、代わりに部屋に木霊したのは私では無く旦那の断末魔。それと、

「葬送」

ピンと張り詰めた空気を裂くような、凛とした低い声。知らない間に前に立ちはだかっていた大きな背中に、私は危うく呼吸をするのも忘れるほど強烈に意識を攫われたんだ。



「……どうかしたか? 心ここに在らず、といった様子だが」
「……いえ。 少し、物思いに耽っていました」

仕事も疎かに、すみません。
そう謝罪を述べた名前に、傍らでひたすらデスクワークに勤しんでいた平門は推し量るように瞳を窄めた。彼の探るような視線から逃れるように背中を向け、引き続き必要とする文献を本棚から渉猟する。

あれから数年。
惨劇を乗り越え、過去のトラウマを払拭し、これからの未来一人でも生きていく事を誓った名前は現在この貳號艇の戦闘員となっていた。
それは今は亡き夫が豹変した理由の手掛かりを得るため、安易かもしれないがあの時の事件にも関与してきた輪に入り、情報を集めた方が一番手っ取り早いと行き着いた結果だ。
されど輪に入るまでの過程で様々な知識を学び、その原因を知った。

──夫は、能力者だった。
最初から、という訳では無く仕事仲間からとある薬を飲まされていた、と後に判明した。夜に家を抜け出していたのも、人間を喰らっていたから。そしてあの日もとうとう自我を失くした末に、息子を喰った。
挙げ句、名前までも喰らおうと。なのに何故名前だけ無事生き残ったのか。
それは現在彼女の上司でもあるこの平門が彼女を救ったからだった。

まさかこんな所で邂逅を果たすなんて。
彼の元で働けることに戸惑いはしたが、それよりも遥かに上回ったのは喜びだった。これで彼に多大なる恩を返せるかもしれない。命の恩人である彼の、役に。
でも現実はそうとんとん拍子に進まず、平門の顔を見る度に息子の空っぽな眼窩が脳裏に過ぎる。
私があの子も買い物に連れて行っていれば。いいや、そもそも旦那の異変にもっと早く気付けていれば。
後悔しても過ぎ去った日々は既に雲散霧消と色褪せた記憶と共に葬られた。
苦々しい想いを堪えぎりっと奥歯を噛み締めた名前に、平門は暫し沈黙を保ったあと、ため息を零してデータを保存した。コンピュータの電源を落としてから重い腰を上げ、物寂しげな背中に近付き、名前の腕に抱かれた数々の文献を取り上げる。

「今日はもう休め」
「、ですが……」
「気もそぞろな調子で集中出来るとでも? おちおち至る所にミスをして書き直す羽目になるだけだ。良いから黙って大人しく従いなさい、分かった?」
「……はい……」

自分の方が年上なのに、まるで幼子を諭すような平門の口振りに名前は途端にやるせない思いに駆られた。公私の時も弁えず、仕事中に考えることじゃなかったと深く反省する。
平門に奪われた文献を受け取り、元合った定位置に一つ一つ丁寧に戻していく。
その間もどことなくぼんやりと覇気が無い様相の名前に彼は眉を潜めながらも見守り、片付けが終わるなり彼女の手を引いて己のデスクへと踵を返した。
怪訝げに小首を傾げながらも、何も問わずただ平門の成すが儘にされている名前。彼女を先ほど自分が腰掛けていた椅子に座らせ、平門自身は床に膝を着いてゆっくり相手の白い頬に手を這わせた。

「昔のことか?」
「……あなたの目は、隠せませんね」
「名前がそういった顔をしているのは大抵旦那と子供の事を想っている時だからな」
「……」

図星を突かれ口を閉ざした名前に、平門は「俺が憎いか」と率直に尋ねた。
旦那を殺した自分を、本当は恨んでいるんじゃないかと。名前は即座にかぶりを振る。
能力者となってしまった人間を救う手立ては他に無い、ああするしか致し方ないことだったのだ。平門を恨むなんてお門違い。真に憎むべきなのは、諸悪の根源である火不火の存在と、

「一番憎いのは、無力な私自身です。夫も息子も失ってしまったのに、私だけがのうのうと今もこうして生きている。……この死に損ないが、と」
「それでも俺は、あの時すんで間に合って良かったと安心している。……お前が生きていてくれて、本当に」
「止めてください。お願い……お願いだから、私を赦そうとはしないで」
「お前がそうやって頑なに殻に籠もって自分を赦そうとはしないから、せめて俺がその苦しみを受け止めてやりたい、共に担ってやりたい。そう思って言ってるだけだよ、名前」

捌け口にしろ、と彼は言外に含ませているのだ。独りで抱え込む事は無い、罪を背負うなら俺も同じ。
促すように頭を撫でる手のひらの温もりに、名前の胸は揺らぐが意地がそれを譲らず。ぎゅっと両手を握って首を振った。
やめて、よして。
これ以上私の心に入ってこないで。
頑強として拒む名前の思考を今まで占めていたのは幸せだった頃の家族の風景。だけれど今、為す術もなく崩されようとしている。
誰でもない、自分を助けたこの男に。

あの時はまだ青年だった彼は再会を遂げた時とうに垢も抜けて立派な男性となっていた。声も当時より低く、手だって骨張っていっそう男らしいものに。
少し低体温で冷えた指先は、いつだって名前の本心を引きずり出そうと蠢いて。

「あなたは、狡賢いわ」
「今更、だな。俺はいつも名前、お前が弱っている所につけ込もうと企んでる。今だって虎視眈々と狙っているが?」
「だけど平門、あなたは強引に私が嫌がることをしようとはしない。詰めが甘いのか……、もしくはそれも算段の内か。私には分かりませんけれど、ね」
「ふ、どちらだと思う?」
「…………恐ろしい人」

腹の底が伺い知れない。これほど胡散臭い人物はあなた以外に知りませんと名前が肩を竦めれば、平門は可笑しそうにくつくつと笑った。

「なんてことは無い。単純に、俺がお前に嫌われたくないだけだ」だからそう身構えるな。
名前が自分を受け入れてくれる日を長い目で心待ちにしていると告げて、平門は彼女の髪をくしゃくしゃに乱した。その後自分から離れ、紅茶を淹れるよう廊下に居た羊に伝える彼の後ろ姿を見て、名前は憂いげに睫毛を伏せる。

「いっそ、強引にでも奪ってくれたなら……」

私もあなたも楽になるかもしれないのにね。
小声でぽつり、本音を漏らした。
背後から聞こえた声に、平門はほくそ笑む。

(お前がそう、望むなら。)
此方とて遠慮はしないと、踵を返して再びデスクへ近付いた。
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