「朔さんキスしてください!」
「おー、良いぜ。こっち来いよ。……ほら早く、顔こっちな」
「……」
キスを強請っても、

「っつ、朔さんなんか大嫌いなんですから!」
「ハイハイ、そんな真っ赤なカオして言われても全然説得力なんて無いぞ?」
素っ気ないフリをしても、

「つきたち、さ」
「……ばっかだなぁ、泣くくらいなら最初からやんなきゃいーのに」
避けてみても、結局はわたしが先に限界が訪れて。

いつもいつも翻弄されるのはわたしばっかりで、彼は涼しい顔をして釣り合う女になろうと背伸びするわたしを抱きしめるの。
どうしようもなく歯痒くて、余裕の違いがわたしと彼の経験の差なのだと思うと悔しくて。わたしだってやれば出来るんだと、一泡吹かせてやろうと思い立ったのが発端だった。
だけどどんなに頑張って躍起になっても朔さんは変わらず、大して動じることもなくわたしの企みをことごとく看破していって。最後にはいつも優しくその大きな腕で受け止めてくれた。

とてつもなく大好きで堪らない、大切な大切な愛しいひと。でも、だからこそ。
わたしばかりが一人焦ってたんじゃ面白くない。もちろん、余裕綽々とした表情も好きだけど、わたしだってもっと朔さんの色んな表情を見てみたい。そんなわたしのちっぽけで些細な野望は決して潰えることがなく、むしろ日に日に勢いを増していくばかり。半ばヤケになっていることも否めなくはない、が。
どうしても、絶対に諦めきれないんだもん。

「──と、いうことなのキイチちゃん! 次はどんな作戦を練ればいいかな!?」
「お帰りはそちらですぅ」
「取り付く島もない!? お願いっキイチちゃんだけが頼りなの見捨てないで!」

あからさまに鬱陶しい、面倒くさいという顔をされてもしぶとくめげない屈しない。いくら邪険に扱われようが門前払いされようが、万策尽きた名前にとって力添えを求められる人物などこの壱號艇には限られたごく僅かな一部の者しか居ない。
災難にも仕事がオフということで偶然選ばれてしまったキイチは涙目で救いの手を乞うてきた彼女に憂鬱な嘆息を落とし、渋々と自らの部屋に招き入れる。
こんな所で長々と立ち話もなんだ、致し方ないと腹を括って近くにいた兎にお茶の準備をするよう伝えた。

「……で、朔ちゃんが何なんです?」
無駄な前置きはいらないと、あくまでもキイチは率直に本題を尋ねた。
あの人が飄々とした振る舞いなのはなにも今に始まったことじゃない、それを承知の上で付き合ったのでしょう?とキイチが首を捻れば、沈んだ面持ちで名前が小さく頷いた。

朔は例えるならば、掴みどころの無い、捉えようのない雲みたいな人だ。
楽観主義で仕事を遠足だなんて言うほどいい加減な性格ではあるが、壱號艇リーダーとしての実力は確固たるもので人の微細な変化にも鋭い。度量も大きいし、部下想いでもある。
そんな彼ゆえに、リーダーという立場が隔てるのだろうか。部下に不安や緊張などマイナスの感情を抱かせまいとするかのように、朔自身が焦りや憂慮といった類の感情を表に露呈することは一切なく。
せめて恋人である自分にはそれくらい見せてくれても良いのに、と名前は焦れったさに苛まれたが「恋人だからこそみっともないとこ見せられないんじゃない?」と喰に諭され、納得はいかずともその場は大人しく引き下がった。けれども、

「やっぱりどうも腑に落ちない! 絶対に困ったカオ拝んでやるんだから……!」
「……名前さん、今話したのって所詮は建前で、真相はつまり朔ちゃんに仕返ししたいだけですよねぇ」
「っな、ナンノコトー?」

まさに仰る通りだった。
冷や汗を流しながら顔を明後日の方角に背けた名前を見て、キイチが胡乱げに瞳を細める。御託云々語ったもののとどのつまり、名前の狙いは朔の余裕綽々な表情を崩したい、ということだった。

もはや企んでいる謀など明け透けなのに、今さら誤魔化そうとそっぽを向く彼女の姿にほとほと付き合ってられないと呆れ果てる。
それならそうと初めから言えば良いのに、回りくどく言外に滲ませる必要性はどこにあるのか。
「そうですねぇ……」
顎に手を添え暫しの間、熟考する。名前が固唾を呑む音がやけに大きく聞こえた。そして、
「なら、こんなのはどうですぅ?」ニヤリ。青い小悪魔が尻尾を揺らしてほくそ笑んだ。


──と、キイチに後押しされて朔の部屋の前までやってきたは良いものの。
本当に提案されたような安易なことで朔が動揺を露わにするのだろうか、なんて一抹の不安が胸を過ぎる。しかしここまで来たならば後にはもう引き返せない。
(……ええい駄目で元々、当たって砕けろだ!)
意を決して名前が恐る恐る目の前の扉をノックした。すると中からはあまり間を置かずして入室を促す声が聞こえてきて、一瞬躊躇いはしたが「失礼します」と背筋を伸ばして室内に足を踏み入れた。

部屋の中は兎の手によって細かく整理整頓されているものの、やはり仕事を熟す為のデスクの上は山と積み重なった書類が混雑している。
あれで正しく処理出来るのかと名前が呆れたこともあったが、長年の慣れというやつか、屁でもないというような手捌きで書類を片付けていたのを見て嘆じたのは覚えてる。
何はともあれ、朔が書類整理に夢中ならばそれに越したことは無い。
意表を突くなら今しかないと、名前は突然の自分の来訪に疑問符を浮かべている朔の後ろに回った。

「おい名前……、っ!?」
「朔さん……好きです、大好きです」

怪訝げに振り向こうとする身体を留めて背後から腕を回し、ギュッと抱きついて唇は朔の耳殻に押し当てる。そうして吐息混じりに精一杯の愛の言葉を囁いて、抱きしめた腕により力を込めればたちまち強張る逞しい体躯。
もしかしなくともこれは効果アリかな?
そう喜んだのもつかの間、回された腕に構わず朔が振り向いたことでバランスを崩した名前は必然的に彼の胸元にダイブする事となり、膝の上に乗せられるなり強く抱き締められた。

「く、苦しいです朔さん……」
「……っおま、えなぁ、誰からこんな技教わった?」
「キイチちゃんから、こうすればきっと朔さんもイチコロでしょうからって」
「やっぱりキイチかよ……。あいつやってくれたな……ったく、」

ああ、そりゃとんでもなく吃驚したさ。危うく骨抜きになりそうなくらいにな。
先ほど自分がしたように耳殻に唇をくっつけられながらとびっきり甘く囁かれて、名前の背筋には瞬く間にゾクゾクと悪寒のようなものが這い上がった。腕は逃がさないとばかりに頑として離されることは無く、ジタバタと足掻いてもビクともしない。どころか尚更強く抱き寄せられて、朔の胸元に顔を埋めることになり。
そして、ようやく気付いた。いつもより心音が、少しだけ早く脈打っていることに。
「朔さん……?」
瞳を見開いたまま頭一つ分高い位置にある朔の顔を見上げれば、その赤い髪と遜色ない色が彼の頬を彩っている。信じられないと呆気に取られれば、名前の視線に気付いたのか「あー……」ときまり悪そうに外される目線。

「心臓に悪ィわ、ほんと」
「つ、朔さん?」
「……頼むから、こんなこと俺以外の男になんかしてくれるなよ。名前のそんな可愛い姿、独占するのは俺一人で充分なんだからな」

彼女が何とかして自分の余裕を崩そうと奮闘している姿を見て楽しんでいたが、果たしてそれが悪かったのか。思いもよらないしっぺ返しが己に飛んでくるとは予想だにしていなかった。
ああ、でもこんな可愛らしい不意打ちになら一本取られるというのも悪くない。
ただ真っ赤に染まった顔を見られたことは気恥ずかしくて、朔はあたかもその記憶を上塗りさせるかのように名前の視界を深いキスで埋め尽くした。
(キイチに感謝、か)
こりゃあ確かにたまげたわ。
執拗に施される口付けにはくはくと息を乱しながら、なお懸命に応えようとする愛くるしい恋人の様相を見て、朔は微かに目尻を緩めて微笑んだ。
だけどやっぱり、主導権は自分のままで。

(翻弄されてるのは俺も同じ。
けど、敢えて余裕があるフリ見せんのは男のプライドってもんがあるんだよ)
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