殴ったわけでも殴られたわけでもないのに、やたら目の前が真っ赤になって、そこらじゅう全部熱くて軋んで痛かった。
泣かすなんて言った僕のほうが泣きそうだった。耳の中がわんわん鳴って焼けついた胸が悲鳴をあげて、ばくばくうるさく脈を打って、わけもわからないのに声にならない声をわめき散らして必死に喉を枯らした。
どのくらいそうしていたのかもわからない。
むなしかった。
ばかみたいだった。
死んでしまえばいいと思った。
僕も、あの子も。


────カーテンを開けると眩しすぎる日輪に目を細めた。闇に慣れていた視界にこの強過ぎる紫外線は酷だ。
レースカーテンを引いて遮り、程よくなった光の差込みに満足して踵を返す。

少し膨らんだ布団。
いつも僕が使っている愛用のベッドの中央にはマットレスの柔らかい感触を一人悠々と堪能する幼馴染がいて、そっと顔を覗き込めば彼女はまだ夢の中だった。
涙の跡が残っている頬をなぞり、時計を一瞥してそろそろ起こすべきかと肩を揺らす。
が、眠気を引きずっているのか煩わしそうに眉を顰めただけで一向に起きる気配を見せない。
……ぐずる仕草は可愛らしいんだけど、あんまり駄々を捏ねられるとこっちも困るんだよね。手っ取り早く布団を剥がし床に落とせば、丸まっていた細い身体は寒さを感じてますます小さく縮こまった。ようやく気だるげに目蓋が開かれてジロリと恨みがましく睨まれる。

「……もうちょっと優しい起こし方を希望したいんだけど……」
「あっそう、起こさなくても良かったんだ」
「ごめんってば、直ぐそうやって拗ねないで。もの凄く助かりましたアリガトウ」
「……なんか有り難みが籠もってないなあ。おでこ床に擦り付けながら頭下げられるくらいの感謝を伝えられても僕おかしくないよね? むしろそれくらいの事をしてあげたんだから名前も当然そうするべきだよね?」
「相変わらずえげつないわねあんた」

だからいつまでも結婚どころか彼女すら出来ないのよ、と痛いところを突いてきた名前の頬を抓って「何か言った?」とギリギリと絞る。
痛いと涙ながらに訴えられてもお構いなし、恩を仇で返すような聞き捨てならない言葉を言ってくる方が悪いんだと、僕は赤くなった頬をさする名前に全責任を転嫁した。まあ僕がさっき言ったのはほんの軽口で、実際に頭下げられたらあり得ないくらいテンパるんだろうけど。

時計を見て心なしか胸を撫で下ろした様子の名前は、次に画面が真っ暗な携帯を手に取って電源ボタンを長押しした。
しかしどれほど待っても画面に照明が灯ることは無い。どうやらお釈迦になったようだ。
安心して早々、落胆せざるを得ない出来事に遭ってがくりと項垂れた幼馴染の姿に、僕も溜め息を吐く。

「……昨日水にでも落とした?」
「うん……もみ合った拍子に、脇の排水溝に。一昨日雨降ってたから、結構水嵩も高くて……」
「防水機能付いてないんでしょ、それ。今日平門さんと合流したらショップ行ったら?」
「ん。何から何まで、本当にありがとう喰。髪まで揃えてもらっちゃって……」
「まあ僕もプロじゃないからあくまで一時凌ぎのモンだし、髪は後でちゃんとした美容室行って調えてもらいなよ。そんな殊勝な態度なんてらしくないからさ、名前はいつもみたいにヘラヘラ笑ってドンと構えてれば?」

……へへ、ありがとう。
そう首に手を当てて照れ臭そうに笑う名前の長かった髪は、今や肩に付くかつかないかくらいの短さになっていた。それでも昨夜僕の家にやって来た時よりは長さも均等に揃えられて小ざっぱりとしていたが。

──昨日の夜遅く、突然名前が事前のアポも無しに僕の所へ訪れた。
幸い今日は仕事が休みだったからまだ起きていた時間帯で、だけど布団には潜っとこうかなと就寝の支度を始めていた頃。インターホンが鳴って、非常識だなと訝しみつつも開けたドアの先には見るも無残な姿になった名前が俯きながら立っていたのは。
どうも彼女は通り魔に襲われたようだった。
犯人はナイフを所持していたが、運が良いと言ってしまったらアレだけど髪や衣服をちょこっと切られただけで怪我は無いらしい。でも名前の繊細な心を傷付けるには十分過ぎる卑劣な行いで、酷く青褪めた表情で名前は僕にすがり付いて来た。

何でこんな夜遅い時間に出掛けたんだと、犯人にも不用心な名前にも苛立ちを募らせながら言及すれば、彼女は震えた声で「明日の献立に必要な食材を切らしていたから……」と涙を流した。明日、つまり今日の午後名前の恋人である平門さんが一ヶ月半もの遠征から帰ってくる。豪勢な食事を作って待っててあげたかったのだと、名前は自分の肩を抱いて身を竦めた。
警察にも相談してみよう。
そう提言した僕の言葉に名前は暫く考えたあと頷いて、けれど平門さんには知られないようにしたいと尻窄みに発した。
ここ最近治安も悪いんだし、万が一また同じような事があったらどうするんだと、予防の為にも平門さんにも一応話しておいた方が安全だと何度も言い聞かせたけど、名前は意地としてかぶりを振り続けて。
結局僕が根負けして、ボサボサに乱れた髪を丁寧に切り揃えたのだった。

「けど犯人は許せないな……名前の髪、奇麗で似合ってたから僕も気に入ってたのに」
「過ぎたことをとやかく言っても仕方ないよ。髪なんてどうせ放っておいたってまた伸びるんだから……そんなことより犯人が野放しになっている今、私以外にも被害者が増えてるんじゃないかって方が気がかりで……」
「……こんな時まで他人の心配? 今はまだ外も明るいし、流石に白昼堂々通り魔犯す馬鹿は居ないでしょ。平門さんが帰ってくるのは夕方なんだし、今から警察署出向いて事情明かせば巡回も強化してくれるだろうし」

今はとにかく自分の身を案じろと、浮かない顔を見せる名前を強く諭した。相手はバイクでヘルメットを被っていたから、残念ながら顔は見ていないらしい。
背格好は僕くらい?って言ってたけど、僕の身長はこの年代の男なら平均くらいだし、ちょっと辺りを探せばゴロゴロ出て来るだろうから虱潰しに当たって行くとしたらかなりの労力と人員を必要とする。
今回は殺人、とまでは行かなかったから傷害事件として警戒を強めるだけで、そこまで大々的な捜査は行わないだろうし、僕も名前もハナから過度な期待なんてしてない。所詮そんなモンなんだよ、警察なんて。

「あれ、もう行くの? 朝食は?」
「食欲無いから良いや……それに早く出掛けて面倒なこと済ませておかないと平門との待ち合わせ時間に間に合わなくなっちゃいそうだし。ごめんね、世話かけて」
「いや……僕も行こうか?」
「タクシー使うから大丈夫だよ。携帯復活したらまた喰にも連絡するね」
「ん、了解。んじゃこれタクシー代に使って。そうしないと僕の気が済まないからさ」

財布から札を何枚か取って渡せば、名前は瞠目した後「そんなことまで良いよ!」と遠慮して首を振る。けど気が済まないって言っただろと強引にお金を握らせれば名前は申し訳なさそうな表情をしてごめんね……と渋々受け取った。
いったい昨日から何回謝罪を耳にすれば良いんだか。ヤレヤレと肩を竦めつつ、一旦部屋を出て名前が僕の貸した服に着替えるのを待つ。

程なくして部屋から出て来た彼女は、もう帰る準備も万端といった様相だった。
着替えは次来た時返すから、という名前の言葉に頷き、玄関まで送る。タクシーを捕まえるまで一緒に居ようかとも問い掛けたけど、今の時間帯なら人通りも多いからとやっぱり名前は素直に聞き入れなかった。
相変わらず頑固だな、と苦笑しながらブーツを履いた名前と向き合う。

「それじゃ、道中も気を付けて」
「うん、ありがとう。この借りはいずれきちんと返します」
「高いもの奢らせるからヨロシク」
「うわ、ちゃっかり者」

お手柔らかにお願いします、と笑いながらドアを開いた名前を見送って、彼女がエレベーターに乗った姿を見て僕も家の中に戻った。
鍵を掛けて散らかったテーブルを整理し、再び寝室に向かう。部屋の中は太陽が雲に隠れてしまっているのか薄暗く、視界も心許ないものだった。
されど住み慣れた部屋に、そんな瑣末な不安は僕にとって意味を成さない。

「…………ふ、くく、あははっ!」

静かになった部屋には、僕の笑い声だけがただ広く響き渡った。
────嗚呼、愉快だなあ。滑稽だなあ。
馬鹿な子ほど可愛いって言うけど、ホント的を射てるよね。的確だ。まさかこんな手筈通りに事が上手く行くなんて。参ったなぁ、込み上がる笑いを噛み殺せないじゃないか。

「……ほんっとう、奇麗だなあ……」

恍惚とした声色で呟きながら、僕は瓶から取り出して手の中に出した黒い髪を慈しむように撫でた。うっとりと夢心地で眺め、素肌で上質な質感を味わいながらキスを一つ。あの子には直接口付けなんて出来ないんだからさ、これくらいは許されたって良いだろ?

──全部、ぜーんぶ嘘だった。
さっき長々と語ったことも。名前にあげた優しさも。って言ったらなんか語弊を招くか。とどのつまり、全部僕のお芝居だった。
名前を襲ってからバイクをかっ飛ばして慌ただしく帰宅して証拠を隠して、あたかも就寝前というフリを装った。名前が平門さん不在の今、僕を頼ってここを訪ねてくるってことは想定の範囲内だったからだ。襲われたことを平門さんには頑として話さないと言うのも予想通り。

そして僕は善人を気取って彼女の味方の皮を被り、懸命に恐怖に打ち震える彼女を慰める。
つらかったね、よくここまで来たね、もう大丈夫。僕が居るから、僕が守ってあげるから。そう言えば名前は嬉しそうに、心底安堵したように頬を綻ばせた。
────手酷く切られた髪は僕の箪笥の一番奥に仕舞い込まれていることを露とも知らずに、邪気の無い笑顔を見せた。一方で、僕は心の中でほくそ笑んでたけど。

……何でこんなこと仕出かしたんだって? そんなの理由は単純明快。極めて簡単。どうしようもないくらい妬ましかったからだ。
だってさ、平門さんばかり狡いじゃないか。
僕はずっとずっと名前の側に居て名前を鬱陶しい目障りな害虫から庇って守ってきて名前が好きで大切で愛していたのに、いきなりポッと出て名前の前に現れてあっという間に彼女の心どころか存在までも掻っ攫っていってさ。しかも同棲まで始めちゃってナニソレ独占状態? ああ、胸焼けがする胃がムカつく。
死ねば良いのに。

──でもいいや。こうして彼女のカケラを拾い集めることで僕は満たされるから。
恐怖に染まった名前の顔はとてつもなく魅力的だった。全身が総毛立つくらいに背筋がゾクゾクして、これ以上ないほどの充足感に胸が弾んだ。
手のひらの髪に鼻を近付けると未だに髪からは名前の匂いがする。するとほら、ささくれ立っていた僕の心は嘘のように晴れるんだ。
罪悪感なんて微塵もない。悪気も悪意もこれっぽっちもありゃしない。
あ、でも意趣返しではあるかな。
僕が平門さんと付き合うことになったって名前から報告された時葛藤したように、名前も篤と苦しめばいい。得体の知れない闇に怯えて、僕以外の誰にも相談出来ずひとりぼっちで悩んで悩んで悩み抜いて。
僕が歯軋りしてもどうしようも出来なかった想いを、名前も経験すれば良い。ああだけど僕のところへ来れば励ましてあげなくも無いよ?もしくは大人しく僕のモノになればそんな目にも遭わなくなるかもね。

次はなにを貰おうかな?
爪かな、指かな、或いは脚とか?どれも欲しくてたまらない。
「……ま、時間はたっぷりあるし、ね」
順を追って、君のカケラを頂くとしようか。
(最後は、君の命ごと)
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