「……あ゛ー……つっかれた……」
「……ずいぶん窶れたな。今にも死にそうだぞ」
「冗談抜きで死ぬ一歩手前だったよ……」

裏で店の在庫確認をしていた名前が来客のベルを聞きつけてレジへやって来たところ、そこには奇しくも勝手にカウンター内に入って机に突っ伏していた男の姿があった。
喰? と訝しげに声をかければ陰影感半端ない背中がピクリと身じろぎ、如何にも気だるそうな動作で起き上がる。そして彼は名前の顔を見るなりウンザリとした声音でいきなり冒頭のあの言葉を愚痴って、彼女の指摘もあながち過言では無いと嘆息した。

他に客も居ないしこの際のんびり話を訊いてやるか、と思い立った名前はひとまず話が長引くことを想定して二人分のラベンダーティーを淹れた。ラベンダーには鎮静効果があって、緊張だけでなく不安やイライラといった感情も解消してくれる作用があるから今の喰には打ってつけのハーブだろう。
もっとも彼はそういった類いでは無く、ただただ精根尽き果てたという表現が相応しい様相だが。いつもなら店に来た途端、水を得た魚のように喜々として草に触れているというのに、稀なこともあるもんだと感得した。

「珍しいな、アンタがそこまで露骨に疲れを見せるなんて。任務でも手こずったのか?」
「任務の方が数倍、いや、数百倍もマシ。天国と地獄の差。兎も朔さんも居ない今の艇なんて無法地帯でしか無い! まさに惨状、阿鼻叫喚。主に僕が」
「兎……あぁ、艇の防衛システム……だったか」
「そう。それが今メンテナンス中でね、緊急時以外起動しないんだ。で、闘員達は皆その間、各自用があれば自分でやんなきゃなんないんだけど風邪引いちゃった子がいてさ……」
「成る程、その子の世話を焼いてた、と。案外好いとこあるんだな」
「ご明察……だけど案外は余計だから。僕も不本意だったけど、兎が不在の中ほっとくワケにもいかないし看病してたんだ。でもフカフカの布団持ってこいだの、水が無いだの、僕が大人しく従ってるのを良いことにアレコレ注文してきてさ……っ!! 挙げ句、持ってってあげれば変な臭いするとかやっぱりジュースが良いとかいちゃもんつけて来て……〜〜っあぁあ今思い出しても腹立つぅ……っ!!」

沈んだ声から一変、こき使われた出来事を指折り打ち明けていく毎に喰の声色は上ずったものとなり、身体もプルプルと小刻みに震え出しては、腹に据えかねた憤りを露わにする。
相手は風邪っぴき。だから意外と根は優しい(?)この青年はまさか病人相手に目くじらを立てることも無く、ジッと堪えてやり過ごしていたのだろう。もちろん鬱憤は相応に蓄積していたみたいだが。
喰もわりと気ままな性格だけれど、そんな彼がこんなにも振り回されるということは相手は女の子か、或いはズボラだという上司に違いない。しかしその上司も今は留守にしていると言っていたから正解があるなら恐らく前者。しかも歳下だろうと察しも付いて、名前はふむ、と首を捻った。

「────で、此処に居るということはようやく落ち着いたのか?」

ラベンダーの薫りを楽しみながら名前が問いかければ、喰は淡々と「任せて来た」と投げやりに応える。
任せた? 普段雑用をこなしている兎達はメンテナンス中で動かないというのに誰に? 名前の疑問を表情から読み取った喰は溜め息を吐いて、タイミングの良いことに貳組から助っ人が来たんだと話す。
つまり嫌気が差して丸投げしたと、言外に彼はそう語っているのだ。無責任だな……名前の冷え冷えとした視線が喰に刺さる。

「言っとくけど、名前も体感してみれば良く分かるよこの気持ち。ただでさえ今日は限定で稀少品目の種が入荷するっていうから心待ちにしてたのに、面倒見ろとか言われて時間潰されて僕の心はささくれ……ってそうだ、種は?」
「ちゃんと取ってあるから安心しろ」
「助かるよ! もう植物触んないとやってらんないホント。草草苗苗〜」
「リアル草食男子が。雑草でも食ってろ」
「なんかいつもに増して辛辣じゃない?」

事前に確保しておいた種をレジ下から出して渡せば、喰は目を輝かせて待望の品物に頬擦りした。情けない格好に名前が顔を顰めながら毒を吐くとすかさず喰から突っ込みが入る。彼女は例え好む異性の前でもコロコロと態度を変えることは無い。
要するに通常通りの扱いだった。
けれど接し方は変わっていなくても「そんなことない」と否定的な言葉と表情は一致していなかった。名前の面持ちは心なしかむすっとしている。聞き役に回りながらこまめに相槌を打っていた先程とは違って、いつの間にか機嫌を損ねてしまったか。
冷静にティーを嚥下しつつ、喰が思い当たる節が無いか記憶を手繰り寄せていれば、程なくして(……もしかして?)と一つピンと閃いた。

「妬いたの?」
ニヤつきそうになるのを抑えながら率直に図星を突こうとすれば、されど喰の期待とは反して「はぁ?」と思ったより冷ややかな反応が返ってくる。

「あれ、違うの」おかしいなぁとぼやく男に名前は見当違いも甚だしいと肩を竦めてかぶりを振った。
確かに名前も喰が手厚く看病した相手が自分と同性の者だと勘付いたが、実際にその光景を目にしたワケでは無いし面識も無い人間に嫉妬するほど子供ではない。
なにより、

「あんたが女癖悪いってのは知ってたし」
「誤解招く言い方止めてくれないかな。僕は女癖が悪いワケじゃなくて女の子が大好きなだけだから」
「なおタチ悪いわドアホ」

触るな変態、と曝け出されている名前のうなじを撫でていたら、憮然とした顔のままペシンと手を弾かれた。
今日は一段と素っ気なさに磨きが掛かっている。
だが反省した様子も見せずそんな綺麗なうなじ見せつけられたら触れたくもなるでしょ、と男の性とやらを堂々のたまう喰に、彼女は呆れ顔を浮かべて頬杖をつき脚を組み替えた。
名前はポニーテールで、髪だけでなく全体的に涼しそうな身なりをしていて、奇遇にも日頃喰と会っている時の格好より肌の露出が多かった。とはいえ足や腕がほんの少し出ている程度で胸元が大きく開いている、なんてことは無いのだが。

まあ他の野郎には見せたく無いし、と内心こんな彼女が見れたことに今日の自分はやっぱりツイているとほくそ笑みながら喰は名前の太腿に指を這わす。
内股から弾力を確かめるように膝へとなぞっていけば、また上に戻って今度はくすぐるように爪先で肌の感触を辿る。名前はうんともすんとも言わず暫く喰の好きにさせていたが、やがて微動だにしない彼女の姿に飽きたのか、彼は次に名前の太腿に円を描くように指でくるくると遊び出し唇を尖らせた。

「……君って不感症?」
「去勢してやろうか」
「だってここまでしつこく触れば何かしら反応はするでしょ。くすぐったくないの?」
「露呈したら思う壺だって分かってるからな、そうそう主導権は譲らないさ」
「……ちぇ、相変わらずつれないな」

で、なんで不機嫌になったの? 脈絡も関係なく強引に軌道を直した男に、名前は僅かに瞠目したあと、言うか言うまいか逡巡する。
悠然とした佇まいで横に腰掛ける喰はきっと自分が否、と言えば深く首を突っ込んだりはしないだろう。気になったとしても本人の意思ならば必要以上干渉はしない。
付かず離れず、その微妙に保たれた距離感は名前にとっても心地よかった。

金の瞳は探るような案じるような、なんとも形容しがたい色を含めて二の足を踏む名前を射抜く。干渉はしない、でもここで正直に白状しなければ根に持って後々嫌味がましい口調になるか、喰の都合の好いように解釈されて散々ネタにされるだけだろう。
それはそれで癪だと観念が着いた名前は一度口を結び、ゆっくりと紐ほどいて。

「……妬いた、とは少し違うが面白くない」
「……どういうこと?」
「あんたが私以外の女性に使われて、従順に言うことを聞いていたという事実がな。最初は何とも思わなかったが、ジワジワと来た」
「……はは、それ嫉妬っていうんじゃないの?」
「さあ」

柔らかく微笑みながら、喰は思いの外さらりと心情を暴露した名前の横髪を耳にかけた。
口を割るまで焦らすだけ焦らしておいて、開き直ったらもう元通り。
むくれ顏は何処にも無かった。

慈しむような手つきに名前が目尻を窄め、手のひらに頬をすり寄せる。
これまた貴重な姿だと喰は眼鏡を退けてから彼女の唇に己のそれを合わせて、もの惜しげにリップノイズを立ててそっと離れた。すると名前も頬に当てられた喰の手に自分の手を重ねて裏側にキスをするから、止め処ない愛おしさが込み上げた。

「……じゃあ妬かせられた詫びとして、これから喰にたっぷり尽くしてもらおうかな」
「……いいよ、君なら特別。どうされたい?」
「手始めに肩揉みから」
「一瞬でムード台無しにしたなオイ」
「私はマッサージには煩いぞ。ビシバシ仕込んでやるから上手くなれよ」
「〜〜結局こういうオチかよチキショウッ!」
「不憫キャラも板についてきたな?」
「嬉しくないから。これってなんなの宿命? やっぱ僕誰かに呪われてんじゃないか!?」

ほれ丸眼鏡、喚いてないではよ揉め。ムードならぬフラグクラッシャーに急かされ、嘆く時間すら与えられなかった男は泣く泣く彼女の背後に回って肩を揉み始めた。
男に二言は無し、特別といった限り名前が満足するまでは簡単に許しなんか出ないだろう。いったいいつになったら普通にいちゃつくことが出来るのか。
しかし相手の顔が見えない彼はまさか知る由もないだろう。俯き気味になっている名前の頬が、微かに紅潮していたなんて。

(〜〜っ……一本、とられた……)
悔しげに歯噛みする彼女に気付いて問い詰めていたなら二人の関係になにか進展はあったかもしれない。
そんなことも露知らず、ぶつくさ文句垂れる喰は結局彼女の変化を見落として夕方まで肩揉みに付き合わされ、名前の指示通りマッサージのスキルだけが上がっていった。
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