手を伸ばしても届くことはないと思っていたから、想いを伝えることに迷いはなかった。
けれど届いてしまって初めて、戸惑いを覚えた。

前はこんな酷くなかったのに、恋人という結び付きをもってからは手が触れるのさえ強張って、言葉を交わすことすら難しくて。私ばっかりやけに意識しちゃって、動転して狼狽えて。
そんな私とは正反対に花礫はちっとも、一ミクロンたりとも気にしてないようで、付き合う以前の態度と何一つ変わることなく、澄まし顔で、平然としていて、おくびにも出さず。私だけ特別扱い、なんてことは無かった。

別にそれは構わない。
不満はあっても不安は無かったから。
でも、でもね。
月日を共に過ごしていくうちに私、とんだ我が儘になっちゃったみたい。

ツクモちゃんや无ちゃんみたいに、あんな風に物柔らかに接してほしいなあ。なんて、まるで夢のようで、大変烏滸がましいこと考えるようになっちゃったんだ。
あなたが女の子や小さい子に優しいことは知ってるよ。だけど私だって女なのに、ツクモちゃんのように気遣われたことは一度だって無くて、いつだって愛想も素っ気もない対応で。目もくれなくて、一線引かれてるかのようでつかず離れず微妙な間合いに傷ついて。
どうでもいいのかな?なんて密かに落胆することも少なくはなかった。

「オイ、廊下のド真ん中でいつまでもぼさっと突っ立ってんなよ。ジャマ」

私にも限界っていうものがあって、ささくれ立っている心に溜まった鬱憤は晴れることなく沸々と募っていくばかり。そんなタイミングの悪い時にばったり出会して、開口一番こんな言葉を浴びせられたら。
ほんの些細なことだと、小さなことでと笑われるかもしれない。しかし、

「……ごめんなさいね、ふてぶてしく通行の妨害しちゃって。ああ、もしくは存在自体邪魔だった? それならそうと言ってくれれば良かったのに」
「ハァ? ……なに勝手にイラついてんだよ、ワケ分かんねー」
「っ、誰のせいよ! もういいっ、花礫なんか知らない!」

端からすれば取るに足らない、くだらないと一蹴されるかもしれないけど、彼のいつも通りの口振りが今日はなんだか妙に癇に障って。頭に血が上っていたこの状況下では冷静な思考が巡る筈もなく。
結果、私は喧嘩腰で冷たく吐き捨てたあと逃げるように、否、実際花礫の前から逃げた。


────頬に当たる机の肌触がヒヤリとしていて気持ちいい。
異様な気だるさを堪え、うつらうつら微睡みながら暫しそうやって机に突っ伏していると、ふいに肩を揺らされる感覚がした。

せっかく何も考えず眠れそうだったのにと、不機嫌を隠そうともせず睡眠を妨げた人物を一瞥する。
するとちょっかいをかけてきた相手、與儀は大袈裟にびくぅっ!と身体を跳ねさせたあと、「ほ、ホントに寝ちゃってた……?」と虫の居所が悪い私の顔色を窺いながら及び腰で訊ねてきて。まだ寝てはないけど眠りそうだった、とむくれれば、慌ててごめんねと謝られた。

「でも、こんな所で寝ちゃったら風邪引いちゃうよ」
「部屋、戻りたくない」
「え、なんで?」
「……花礫たちの部屋の前、通んなきゃいけないし。鉢合わせしたら多分また文句言われるし」

私の部屋は花礫や无ちゃんに振り分けられた部屋と限りなく近い。しかも生憎なことに行く道は一つしかなく、回り道などする術はないから必然的に彼らの部屋の前を通過しなければ自室には戻れないわけで。
歩いている最中に再び遭遇でもしたら、それこそ最悪な事態を招きかねない。今度こそ啀み合いは免れないだろうし、もしかしたら仲違いどころか更に摩擦は広がって、喧嘩別れのちの自然消滅なんてことも。

……いや、どのみちこのまま膠着状態が続けば別れの一途を辿るだけだ。そんなの──。
色々な想像を膨らませて臆病風に吹かれる私を見て、與儀が怪訝そうに「花礫くんと何かあったの?」と小首を傾げた。その問いに、躍起になって考えないようにしていた一連の出来事を思い出して、胸が鈍く痛みだす。
けれどこれ以上心配性な與儀の気を揉ませる訳にもいかないから、あくまでも気丈を装って曲げていた姿勢を凛と伸ばした。
身体を起こすとあれ、なんか重いな。と感じたけれど、きっと単なる勘違いだ。
何となくふわふわと浮いた奇妙な心地を味わいながら、私は事の成り行きを與儀に明かした。

話していくうちに顔を曇らせていく與儀を見て、彼に話したのはやっぱり失敗だったかなと徐々に後ろめたくなった。普段花礫と仲の良い──っていっても一方通行ぽいけど──與儀だからこそ、こんな面白みの欠片もない話を聞かされればそりゃ内心複雑よね。
ごめん、と一言罪悪感を晴らすために詫びを入れれば、彼はかぶりを振った。

「花礫が恋愛に対して消極的というか、淡泊なのも知ってる。……過去のことがあるから、恋とか愛とか、そんなものに良い印象を抱いてないってことも。でも、それでも花礫は私の告白を受け入れてくれて、近くにいることを許してくれて。恋人って関係になれただけでも凄く奇跡に等しいことなんだって分かってる。……分かってるけど、どんどん物足りなくて貪欲になっちゃって、もっと花礫に優しくしてほしいなとか、触れてほしいな、とか求めるようになっちゃって……バカみたいに、浅ましい欲ばっか」

もう満足、充分じゃないか。
何度もそう言い聞かせてきた。
念願叶って望む場所に立てただけでも幸せなことだよ。
だってそうでしょう?この世にはたくさんの人が居て、願いが叶わない人なんてもっと大勢いるんだよ。
そんな中でも私は最も良い環境に恵まれて、あまつさえ好きな人の隣に立っていられる。
これ以上のことは無いでしょう?

なのに、ねえ。どうして。
人は乞うことを止めないのだろう。
充足感なんてたかが一時のもの。暫くすれば飽きて飢えて新しいものに手を伸ばす。
あれだけ無性に欲しがっていた大切な物も、最後は忘却の彼方に置いて忘れてしまうの。
手に入れたときの喜びという感情すら。

「君と一緒に居られるだけで良い」、なんて真っ赤な嘘でした。
もっともっと。愛を頂戴。
形のないものをどうやって表すんだと問われれば、言葉には出来ない。私も正直よく分からないから。

でも私は、拙いけれど不器用なりに、言葉や態度で示してきたつもりだった。
そんな行動も裏目に出て、花礫にとっては鬱陶しいだけのものに過ぎなかったのかもしれないけど。

「……花礫くんも、ほんっと素直じゃないなぁ……ヘタレ意気地なしって、人のことばっかり言えないじゃんかもう」
「…………え?」
「んーん、なんでもないよ! ねえ名前ちゃん。今の気持ち、包み隠さず花礫くんに全部話してみよう?」
「……やだ、会いたくない……会うのが恐いもの」

もし打ち明けてまた、あんな心底面倒臭そうな顔をされたら。「あっそ、」なんて一言でいとも容易く片付けられたら。
次こそ私は耐えきれなくて、花礫の前でも関係なく癇癪を起こして、挙げ句の果てに泣いてしまうかもしれない。それこそ花礫に迷惑がられる。一巻の終わりだ。ショックが強すぎて死ぬかもしれない。
机に伏せてイヤイヤと駄々を捏ねる私を、與儀が困ったように見つめているのが気配で分かる。
でも私はここから動く気は無い。何が何でも机にしがみついてやると執念にも似た意地を張っていると、與儀が席を立つ音がした。

ふわり、お腹に手を回されてお尻が浮き上がる。
へ、と呆気に取られるのも束の間、與儀を見上げれば意味ありげに微笑まれて。「はい起立ー!」だなんて否が応にも立たされた。
……うわ、今なんかグラッと来たんだけど。

「だーいじょうぶ。万が一花礫くんが酷いこと言ったらお兄さんが叱ってあげるから」
「それ花礫が聞いたらガキ扱いすんなってむしろ與儀が説教されそうだけど……」
「うっ。と、とにかく。大船に乗ったつもりでドーンと任せて! 絶対悪いことにはならないよ、俺とニャンペローナが保証する」
「なおさら不安」
「即答!? ……って、あれ、名前ちゃん顔真っ赤じゃない……? 目も若干……」
「え……」

なんのこと?と首を捻って屈んで顔を覗き込んできた與儀を見やった。……ら、急に視界がぐにゃりと歪んで、みるみるうちに脚から力が抜けていった。
「っ名前ちゃん!」
──與儀の声を最後に、世界が、真っ暗になった。
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