「……花礫、眠いのなら我慢しなくても……」
「ん……きょうは、おきてるっていったろ」

本当は眠くて眠くて仕方ないクセに、今にも綴じてしまいそうな目蓋を小さな手で懸命に擦って起きてようと踏ん張る子供の意固地な姿勢に溜息を吐く。
世間話で盛り上がるテレビのバラエティー番組は既に飽きたのか、ビーズクッションを抱き締めたまま船を漕ぐようになって、首がガクンッと落ちそうになり我に返る姿を目の当たりにするのも何度目か。
そろそろ限界だと頃合いを見計らい、ソファーの上でうつらうつら睡魔と戦う花礫に諦めて布団で寝るよう促しても頑として頷いてくれないから、私は見守っていることしか出来なくて、早く時計の短針がゼロを差してくれれば良いのにと無為に時が過ぎるのを待つだけだった。

只今の日付時刻、5月20日午後23時。
いつもなら22時頃にはもう床に就いている花礫がこんな夜遅くまで起きていることはごく稀で、なのに何故今日に限ってこれほど布団を突っぱねているのか、それは明日の日付けに意味があった。
5月21日。
花礫がこの世に生誕した一年の中でも特別な日。
この日は盛大にお祝いしようってことで前から約束していて、主賓はもちろんこの子の義理兄妹でもあるツバメちゃんやヨタカくんも私の家に泊まりに来ていた。(と、いうのも従姉妹であるツバキさんが夜の仕事をしている為その間我が家で預かっているだけである)。
双子もギリギリまで「ガレキに時間ぴったりにおめでとうって言ってあげるの!」と眠たい目を擦りながら頑張っていたが、流石に無理だったのか気づいた時には二人とも肩を寄せ合いながら夢の中へ旅立ってしまっていたのでついさっき布団に運んだところである。

残るは花礫一人だけだ。正直お祝いをやると聞いて一番乗り気では無さそうだったこの子は関係無く直ぐに寝てしまうだろうと思っていたが、ところがどっこい。ここまで意地になるとは予想外。
密かに楽しみにしていたのだろうか? と首を捻りながら、私も眠気覚ましとして淹れた珈琲を手に携えながら花礫が体育座りしているソファーの片隅に腰掛ける。
すると子供はチラリと一瞥した後、抱いていたクッションを横に投げ、おもむろに赤ん坊のようなはいはい歩きで私の隣まで寄って来てスン、と鼻を鳴らした。

「……コーヒー?」
「そう。明日やらなくて済むように課題片付けなきゃなんないから私もまだ寝れないの」
「ミルクはいってる?」
「たっぷり。……少し飲む?」

果たしてこんな中途半端な時間に飲ませてしまっても大丈夫だろうかと口が滑ってから懸念が広がったが、今更だった。コクリと頷いた花礫にマグカップを渡し、「火傷しないようにね、」と注意しながら花礫が嚥下する様子をジッと眺める。
だが私の忠告は残念ながら空振りになったようだ。
顰めっ面をしてべっと出した花礫の舌は赤くなっていて、僅かに涙目の子供は恨めしそうに私を睨んできた。

「あつすぎんだろ……」
「沸かしてたの忘れてて、慌てて火止めた頃にはかなり沸騰してたからねえ」
「それをオレによこしたのかよ」
「花礫猫舌だもんね。ごめん、失念してた」

ふーふーしてから飲めば良かったのに、と苦笑すれば「そんなダセェことするかよ」と何ともまあ可愛げの無い返答が。ダサい云々の前にそれで火傷してヒリヒリと引きずる方が辛いのに、ええかっこしいをしたがるのは思春期を迎える前の複雑なお年頃ゆえか。
なんて花礫が耳にしたら本人に直接がなり立てられそうなことを思惟しながら、私はテーブルの上に散らばっていた書類を束ねてノートパソコンを起動する。

ツバメちゃん達が夕食を食べていた頃に少々進めていたから、後は文面を見直して矛盾点やおかしい所を細々と修正して補筆するだけだ。それでも重要な作業だから集中しないとこなせない。
よしっと景気付けに一発自分の両頬を叩き珈琲を口に含めば、何やら隣から穏やかならぬ視線を感じる。
恐る恐るカップの淵から横目で覗けばそこには無表情なんだけども、いかにも不機嫌ですと言わんばかりの花礫がこちらを見据えていて。
「まだ怒ってる?」と問いかければ別に、と相変わらずつんけんした言葉が返ってきて反応に困った。

「……なんで……」
「え? 何?」
「なんも。つかおまえはソレあつくねーの?」
「……ああ、うん。そんなには。舌の使い方次第で猫舌も克服出来るんだよ」

ふうん、と訊いたわりには関心の薄さが滲んでいる。
ぐたーっと芯が抜けたように私の腕に寄りかかってきた花礫は甘えてるみたいで可愛いんだけども、全体重を故意に押し付けられてるような圧迫感はタッピングもし辛い。これでは集中も作業も儘ならないと花礫に離れるようお願いしても意にも介さず、むしろ願ったり叶ったりだとばかりに身体を寄せ付けてきた。

眠いのか、ご機嫌斜めだからか分からないけど、細められたつり目がちな双眸は文字だらけのパソコンの画面に熱い眼差しを注いでいて。そういえば花礫は機械やそういった類の部品に興味を持っていたなと想起すると同時に、まさか解体したいとか考えてないよねと悪計を危惧してなるべく花礫から遠ざけるようにする。
ムッとより一層不満を仄めかす顔つき。
いったい何がしたいんだと子供の不可解な振る舞いに具合でも悪いのかと訝しめば、ふと閃いたとばかりにいきなり不審な行動を始める。

そして花礫は私の膝を陣取っていたパソコンを今先程まで自分が座っていた場所へ退けた。呆気に取られる私を他所に、ガラ空きになった膝の上へ我が物顔でどっかり居座る。とはいえ向かい合わせだから不貞腐れてるような花礫の姿が真ん前に留まっている訳だけど。

「どうしたの。今日はやけに絡んでくるんじゃない?」
「ヒマ」
「…………それはなに、構えってこと?」
「テレビつまんねーし」

回りくどい言い方だがつまり私に時間潰しの相手になれと言っているのだろう。
ヨタカくんやツバメちゃんが起きていた頃はなんやかんや三人で和気藹々としていたから暇なんて感じることも無かったんだろうが、二人がギブアップしてからは花礫一人でやることも無く退屈を持て余していたから、私まで別のことに夢中になられると益々つまらないんだろうなと見解を立てる。

時刻は23時半を過ぎたところ。
日付を跨げば花礫も満足して就寝するだろうし、課題はそれから片付けるかと子供の強引さに根負けして胸元に凭れる柔い頭を撫でた。幸いぞんざいに除けられた際にパソコンの電源等は落ちてなく、空いた片手間で途中で途切れたままのデータをきちんと保存、確認してからトップに戻ってシャットダウンを選択する。
花礫もダルそうに私の身体に寄り掛かりながらその一連の行動を食い入るように観察していて、真っ暗になった画面にやっと文句も無くなったのかニヤリと口角を上げ上機嫌そうに私の首元に頬をすり寄せた。なんだか気位の高い猫にマーキングされてるみたいだ。そのうち喉をゴロゴロ鳴らしそうである。

「もう……今日は何でそんなに頑張るの? お祝いは明日のお昼がメインだし、普通はそれに備えて速く寝ようとするもんじゃない?」
「……あのなぁ……遠足じゃあるまいし、そもそもパーティとかツバメたちがやりたがってるだけでオレ自身はどーでもいいし」
「え? じゃあなんで?」
「……気づけよバーカ」

と、言われても私は人の心を見抜けるほど観察眼には優れていないため不可能だった。

んん? と誕生日を楽しみにしていること以外花礫が躍起になって起きている理由を解明出来ず釈然としないままの私に、生意気にもこの子供は深々と溜め息を吐いてトンマ、などと聞き捨てならない悪口を吐き捨てた。
言葉の暴力だ。心ない攻撃だ。そんな若いうちから人を傷付けるような言葉を言うのは感心しないよと窘めれば、しかし花礫はそれがどうしたと言う顏で「だったらおまえはもうすこしかしこくなれば?」と数秒で論破してきた。酷い仕打ちに涙が出そうだった。

「……もう良い、花礫なんて知らん。私は寝る。ふて寝してやる」
「ガキかよ」
「花礫よりは大人だもーん」
「どこが?」
「……身長とか」
「ンなのすぐ追いこしてやるし」
「歳とか」
「せーしんねんれいはオレのが上だろ」

最早ぐうの音も出なかった。
ああ言えばこう言われ、完膚なきまで言い負かされる。子供の方が一枚どころか二枚も上手だった。精神的にも振る舞いからしても他の同年代の子供に比べれば大人びてる花礫はいつだって私の心を見透かしているようで、なんだかそれが私にとっては悔しい以前にとてつもなく大きな差を感じてならない。

両親が離婚のちそれぞれ別の相手と再婚、新たな家庭を築き、けどどちらの親にも煙たがられ行く宛を無くした花礫を見兼ねて引き取ったのは母方の親戚であるツバキさんだった。
食事もろくに与えられず、ただ痩せ細っていくだけの花礫に「私の妹と弟も同じくらいの歳だから見捨てては置けない」と手を差し伸べ、体裁を気にして形ばかりの難色を示した叔母を説得し、ツバキさんは自分の新しい家族の一員として花礫を招き入れたのだ。
そんなやや複雑に拗れた事情もあってか、花礫はどことなく物事を達観して見るような賢い子供だった。
同様に、凄く冷めていた。

ツバキさんは夜の仕事に就いてるため、もともと妹であるツバメちゃん達を纏めて預かることは少なくなかったが、花礫こそ最初は警戒心を剥き出しにして慣らすのも大変だった。
態度は今とあまり変わりないが、些か分かりづらいけどこうして身を寄せるなんて甘えているようなことをしてくれるにも相応の時間を費やしたのだ。手懐けるのも一苦労。今こうやって無防備無警戒な花礫の姿を見ると、苦労の甲斐も報われたなとしみじみ思う。

中身は確かに大人びてるっちゃ大人びてるんだけど、たまには子供らしく縋りたくなる時もあるだろう。母親のように、というよりは姉として慕ってくれているとしたらこれほど嬉しいことは無いが、花礫の言動からするとナメられてることには違いない。
そこが私の理想と世知辛い現実の差だった。

「……で、ホントにねんの?」
「……どうしよっかな。珈琲まだ入ってるし」
「名前がねるんだったらオレもねる」
「? あ、もしかして今まで起きてた理由って私と一緒に寝たかったから?」
「ハズレ」

逡巡もなく即答だったのが切ない……。
「お前が寝ちまうんなら起きててもしゃあねえし。」と不服そうな顏をする花礫に私は暫し考えあぐねた後、ようやく鈍っていた勘が働いて(……あ、成る程)と察しが付いた。それならそうと速く言ってくれれば良いのに〜とニヤつきながら花礫の額をつんと小突けば子供は思いっきり顔を歪めてウゼェと悪態をつく。
でもその顏は微かに赤みがさしていて、ただ照れ臭いがゆえの憎まれ口だと見做し花礫の頭に頬擦りした。腕の中の身体は嫌がる素振りを見せるものの、実際に暴れてまで逃げようとはしない。過度なスキンシップも許されてる今の私に怖い物は無しだ。

むっすーとした仏頂面の花礫もお構いなしで頭を撫でくりまわしたり額をグリグリしたりと戯れていれば、いつの間にかあっという間に待望の時は刻一刻と迫ってきていて花礫はそれに気付いていない。
しめしめと思いながらそのまま花礫の意識を私に向けさせ、極力時計には目線を向けさせないように首やら胸元に顏を埋めさせ視界を阻む。
日にちが替わるまで後一分。

三十秒。……十秒。
五、四、三、二、一。ゼロを指し示したと合わせて花礫を目一杯抱き締め耳元に唇を寄せると、腕の中の体躯は身じろいだ。

「花礫。誕生日おめでとう」
「ハ? ……あ。」
「ふふん、一等賞。ど? 嬉しい?」
「……べつに」
「私に一番にお祝いしてほしかったんじゃないの?」

微妙な反応にもしかして自意識過剰だったかと焦ったが、「おもいあがんな」と言っておきながら真っ赤な顔で私の首に表情を隠した花礫にやっぱり図星だったと安心して頭を撫でる。
微笑ましい仕草にクスクスと思わず笑ってしまえば両脇に回されていた手が私の服を力いっぱい握り締めて、だけれど皺が寄るから止めてと怒る気にもなれなかった。

花礫がこんな時間まで起きていた理由。それは0時を迎えて早々、誰かにおめでとうと言って欲しかったんだと思う。ツバメちゃんやヨタカくんは恐らく睡魔に負けてしまうと分かり切っていたし、ツバキさんはお仕事だからしょうがなく消去法で私に。
ごめんね一番が私で、と一抹の寂しい気持ちを堪えながら花礫の頭を撫でてれば、子供はそっと私の襟から顔を上げた。それは不愉快とも不服とも感じ難い瞳をしていて、不思議に思った私は黙って目を瞬かせる。

「……ちがう、おまえだから……名前に、いってほしかったからオレは……」
「……花礫」
「っ、それよりプレゼント何かないわけ?」

面食らった私に花礫はきまりが悪いとばかりに目を泳がせ、半ば無理やり話の軌道をねじ曲げる。
思わぬ話題の転換に私はしどろもどろになりつつ「あ、うん……」と咄嗟に返事を返したが、プレゼントは双子と念入りに相談して買った物だから勝手に渡したらそれこそ二人から大目玉を喰らってしまう。
ツバメちゃんがあげるんだって意気揚々としていたし、確実にヨタカくんからのお説教は免れないだろう。その旨と今は伏せて置くべきことは色々暈しながら、まだ駄目だとお預けを下せば目の前の表情は思案顔になった。

「……じゃあ。一つほしいモンあんだけど」
「、欲しい物? そんなにお金掛からない物だったら良いけど……」
「カネもかかんねーし、じかんもいらねーよ。おまえがてま取んなきゃな」

普段からそれほど物欲の無い花礫が改まって言ってくるものだから、私も妙に畏まって小首を傾げた。が、花礫の裏を含んでいるような言い回しに自然と身構える。
お金も時間も要らない……ということは今この場ででも出来ることだろう。けれどそれはあくまで私が手間を取らなければ、の話らしい。
どんな無茶難題が吹っかけられるのか、楽観を許さず固唾を飲み込みながら花礫の欲しい物とやらを聞き出せば、しかし私が憶測していた物とは程遠くて。

「そんな事で良いの?」と拍子抜けしながら確認のため再度問いかければ花礫はそんなこと、というワードが気に障ったのか眉間に皺を寄せる。
そんな風に言うんならヨユーだよなァ? と頬をひくつかせながら脅しかけてくる花礫に見くびらないでよねとふんぞり返る。
別に相手は花礫だしどうってことない。
目閉じて、と促せば花礫は推し量るように私の顏を見た後、身体を適度に離して緩慢と目蓋を閉ざした。
睫毛長いなぁ、と羨ましく思いながら私は待ち兼ねる花礫に──ちゅっ、と前髪を上げて額にキスを落とす。

「…………ハァ?」
「え、なにそれ。ご不満?」
「ふまんもなにも……オレが言ったのはソッチじゃねーんだけど」

え、じゃあどこにしろと。
きょとんと呆ける私に花礫は呆れ返ったように肩を落として項垂れた。だって花礫が言ったキスって、こういうことでしょう?

子供の貴重な欲しい物、とは、私にキスしてほしいという事だった。
催促っていうか、おねだりかな。あの花礫もこんな可愛らしいお願いをしてくるなんてやはりまだまだ子供だなあって微笑ましくなりつつもやったんだけど、何故か当の本人からは厳しい批判と駄目出しを食らった。
…………は、なに。まさかマウストゥマウスをしろと? 口と口? 正気?

「オレのファーストキス、くれてやるよ」
「うっわマセガキ!」
「るせ。だからおまえのもよこせ」
「なんで私が初キスまだだって……!?」
「見りゃわかる」

子供の観察力は侮れませんでした……。
どうせ私は異性と付き合っても半年と持たずに別れるよ、初キスどころか手でさえ繋げたこと無いよ。だって彼氏との間にはいつも花礫が居てそういう雰囲気には……あれ、今なんか悪寒がしたような。気の所為かな。

悶々と悩んでいると、その隙を見計らって花礫が唐突に身を乗り出した。あ、と気付いた時には既に遅くて、ちゅう、と唇に吸い付かれる感触と間近にある花礫の黒い睫毛が私の思考意識を全て掻っ攫っていく。
目を点にさせている間に、このマセガキは先ほど火傷していた舌で私の下唇を舐めてゴチソーサマと自らの唇も舐めのたまった。

「……〜〜な、っ」
「これのせきにんならオレがけっこん出来る年になったらとってやるから、せいぜい腹すえて待ってれば?」
「ばっ、ばっかじゃないの……!?」

ああもう、不測の事態に頭が爆発しそうな勢いだ。いや顏のが真っ先に爆発するかもしれない。信じられないくらいに暑い、熱い。

あげた、というよりは強制的に子供に奪われてしまったファーストキス。夢もロマンもあったもんじゃない。
直ぐあと糸が切れたかのように私の膝の上に乗ったままスヤスヤと眠りに落ちた花礫を見て私は一人これからの苦悩が思いやられ、憎らしくも可愛い寝顔にひしひしと鬱憤を募らせた。
責任取る、とか。どうやら私は後十年も待たされなければならないらしい。

「……も、なんなのこの子……」

いやでも所詮子供の言うことだし。どうせ幼稚園の先生に「ボク将来先生と結婚するんだー!」みたいなノリのニュアンスでしょ? そうよきっとそうに違いない。振り回されるのは今だけだ。単なる私の勘違い。
一瞬でも真に受けた自分が馬鹿馬鹿しいと私は嘆息を吐いて小さな身体を抱き上げ、ツバメちゃん達が眠る子供部屋へ連れて行く。
さて、これから急ピッチで課題を始末しなければ。

テーブルの上に置きっぱになっていた珈琲はとうに冷たくなっていた。
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