※主従パロ

「名前、風呂入んぞ」
「そうですか。では私は花礫様の着替えの支度を整えて参りますのでお先に大浴場へ……」
「なに言ってんだお前も入んだよ」

幻聴かと、思わず我が耳を疑った。は?と意表を突かれたあまり仕えるべき主に対して非常に無礼な返事をしてしまったのは致し方ない。それくらい花礫が何てこと無いといった口振りで放った言葉は名前にとって衝撃が強く、また唖然とするものだったから。
ジッと見つめて来る少年に動揺しつつも名前は極めて冷静を努め、私には分が過ぎますのでと戸惑いがちに断った。当然の対応だ。主人と同じ湯に浸かるなどと想像しただけで畏れ多い。それが例え、名前と花礫が主従という地位の壁を得てしてなお恋人という結びつきを持っていたとしても、だ。公私混同は避けなければならないし、何より二人の関係は周囲には公表しておらず極秘である。他の執事やメイドを束ねる長の平門に万が一勘付かれたり報告されるような事があれば確実に自分達は引き離されるだろうし、名前も解雇処分は免れないだろう。どんなに花礫が守ると言ってくれたって彼もまだ十五歳。このお屋敷の中では最も権力を持たず、発言権でさえろくすっぽ与えられていないのだ。
だから邸内はおろか、二人で話したり恋人らしい睦み合いをする時は人目の付きそうな場所は徹底して除外して、辺りに入念な警戒を配りながら寄り添うといった密やかな戯れしか二人は致してこなかった。幸い名前は花礫の世話役として四六時中側に仕えて居るため多少なりとも接触しても怪しまれることは無いが、過度なスキンシップはご法度。それは暗黙の了解と見なされていて、今回だって共に入浴なんて軽率な真似をすれば己達の首を絞める事態になりかねないと考慮した上での却下だった。自分達が置かれた立場が如何に不安定で危ういか、そんなこと花礫だって百も承知しているだろうに何故、突然危険な橋を渡るような言葉を口にしたのか。
その名前の疑念は手に取るように分かったのか、これまで無表情を貫いていた花礫はおもむろに嘆息を吐いて机に頬杖をついた。

「だったら適当に背中流してくれるだけで良い。そんくらいなら別に不自然とも不審とも疑われねーだろ」
「それは……まあ、そうかもしれませんが。お背中を流すだけなら與儀でも……」
「俺はお前にやって欲しいんだけど。主人の頼みでも駄目なワケ?」
「……畏まりました」

そう言われてしまってはつべこべ言わず従う他無い。大浴場は広過ぎて居心地わりーから部屋のに入る、と告げた花礫にこうべを垂れて了承し、お湯が張るまで少々時間が掛かるので本でも読んで暇を潰しててくださいと促してから名前は急いで個室の湯槽を掃除してスイッチを入れた。これで後は全自動で準備が整えられる。お湯が溜まるまでに花礫の着替えやタオルの予備もあらかじめ万全にしておかなければならないし、自分が休んでいる余裕は無い。名前があくせくと働いている間も、花礫は相変わらずお気に入りの窓際に腰掛けて黙々と本に集中していた。

それから三十分ほどしてようやくタイマーが鳴って、湯加減を確かめれば適した温度。これなら彼も満足されるだろうとすっかり文章を読み耽っていた花礫にお風呂の支度が終えたことを伝えれば、区切りの良いところで栞を挟んでパタンと分厚い本を閉じた。着替えを持たせて脱衣所まで誘導し、髪を洗い終えたらお呼びくださいと一旦下がる。すると五分もしない内に名前を呼ばれて、入室を許可されるとそこには下半身にタオルを巻いて椅子に腰掛けていた花礫が憮然とした面持ちで待ち構えていた。主がこのような顔をしているのはいつものことなので、名前もさほど気にしないで背後に回る。
黒の襟足から滴る滴がうなじ、肩甲骨にかけて滑り落ちて何ともまあ色っぽい。暫し熱に浮かされたようにその有り様をポーッと眺めていた名前だが、鏡ごしに此方を見ていた花礫と目が合ってこれではいけないと慌ててスポンジとボディーソープを手に取った。くしゅくしゅと液状のソープをスポンジによく馴染ませて泡を立てる。そろそろ良いかな、と目処を付けて恐る恐る花礫の背中を誤って爪で傷付けないよう細心の注意を払いながら洗っていくと、ふっと笑う声がした。

「もうちょい強くやれって、それじゃ気持ち良いってよりこそばゆい」
「あ、……申し訳ございません」
「つかお前、俺の身体に見惚れてたろ」
「!」

図星で名前の動きが鈍った折り、花礫は身体を翻して床に膝を着いていた名前を直ぐ後ろの壁に押し付けた。
たちまち驚きに染められる相手の顔。してやったりと含み笑いを見せた花礫は格好の獲物に舌舐めずりをして、名前のかっちりと閉じられたシャツの第一ボタンを器用に片手でついと外した。花礫の肩から水気と共に指まで流れてきた泡が名前の服にも染み込んで、ぬるりとした感触に目尻を窄める。立ち込める湯気と、香り立つ花礫の洗髪剤の匂いに彼女は直にお湯に浸かった訳でも無いのに逆上せてしまいそうで。眩暈にも似た感覚に翻弄されている中、容赦無く追い討ちをかけるように蟀谷から耳、頬から顎に這っていく唇に名前は見せかけだけの抵抗を露わにした。

「……ッ、だめ、です、花礫様、」
「花礫で良い」
「誰か来てしま……っ」
「誰も来ねーし見てねーよ。……も、限界」

お前が足んねー。耳朶を噛まれて、思いがけず艶を帯びた声が出てしまったが口を塞いでも時遅し。彼女の前にはニヤリと味を占めたケダモノが口角を上げて嗤っていた。
彼は最初からこのつもりだったのだ。花礫が我を通してお風呂場に来るよう仕向けた思惑を名前は察して、確かめるよう頸骨をなぞる唇に身をよじる。これ以上は流石にまずいと思って制しても主人に向かって手荒な手段は行えない、止むを得ず説得しようとしても口を開こうとすればすかさず彼に唇で塞がれ飲み込みざるを得なくされる。
夕時である今の時間帯、他の召使いたちは晩餐の準備などに勤しんでいて花礫の部屋に来ることは滅多に無いが、もしもという考えは捨て切れない。危機感を持てと指図したのは他でも無い花礫自身なのに、当の本人がそれを持たずしてどうするのか。そんな風に名前が内心地団駄を踏みながら花礫を叱責したいと切歯扼腕している傍ら、知ったこっちゃないと言わんばかりに涼しい顔をした少年が名前のメイド服を着実に脱がして行く。彼女の目の前には白磁のように透き通る肌。けれどそれだけじゃなく湯を浴びて上気し、仄かに紅くも色付いていて、水も滴るなんとやら、とはまさにこの事かと腹落ちした。

「って、お待ちください……っ花礫!」
「は、やっと呼んだな」
「っ」
「……お前も実はスゲェ欲求不満だったんじゃねーの……? 俺の裸に欲情するほど、さ」

欲情なんて人聞きの悪いこと言わないでほしい、とは物理的に口封じされて言えなかった。ただ彫刻のように均衡の取れた身体だなと目を奪われただけで、決して名前にはそのようなやましい気持ちなどちっぽけも無かったのでまことに心外である。
しかし──「それに。」と突如怒気を滲ませた花礫の声に肩を跳ねさせた。彼がこうしてあからさまに不快感を表に出す時は大抵ロクなことが無い時だ。おどおどと身を竦ませながら花礫の顔色を窺えば、彼は虫の居所が悪い様子で怖気付いた名前を見下ろして。

「ここ最近、妙に與儀とか他の連中と仲良いよな……さっきも名前出してたし……?」
「……そ、れは、……」
「お仕置きってヤツ。されなきゃお前が誰のモノなのか分かんねーの?」

眉間に皺を寄せて詰め寄ってきた主に、名前はたじろぎながらも「私は永遠にあなたの所有物です」と自分の胸に手を当てさせ言い切るしか無かった。どう弁解したところでどうやらかなり立腹しているらしい花礫には火に油を注ぐだけだし、彼を説き伏せられるほど自分は口も達者でない。それは今まで仕えてきて学んだ名前なりの保身だった。

「……命令。今日はずっと横に居ろ。誰の目にも触れさせんな、側から離れんな」
「……僭越ながら。横に居ろ、という命は、今日限りのものですか?」
「バカ、一生に決まってんだろ」
「──かしこまりました、ご主人様」

あなたが、望むのならば。
願わくはどうか誰も二人の間を邪魔だてしないようにと祈りながら、名前は観念したように不敵に笑む花礫の首に腕を回した。そこからは甘く、とびっきり深い夜の時間。
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