滲む涙で濡れた睫毛。
絡んだ指先は熱く火照りを持っていて、両者の口端から零れる吐息は明確な色を孕んでいた。
ちゅ、っじゅう。
唾液を混ぜ合わせるカクテルキス。
吸い、絡ませ、痛みのない程度に柔く噛む。飽きもせず何度も何度も啄んで、今までより強く吸い付けばたちまち震える華奢な身体。

こんなんじゃ足りない、満たされない。
体内を熱が蔓延する欲の情動に身を任せて女の肩を寝台に組み敷いた時、少年は我に返るように夢から覚めた。
「──っ、サイアク……」
時刻はちょうど草木も眠る丑三つ時。定められた起床時間までには余裕もある。
時計を目にした花礫は夢の所為でもやもやと蟠ったままの欲望に我ながら辟易とし、憂鬱としたため息を落とすことで持て余す熱の欠片をうやむやに発散した。


何ともタイミングの悪い自分にひどく嫌気が差した。
目の前には何も知らずのうのうと安らかな寝息を立てて談話室のソファーを占領する名前。
湯を上がってから横になって寛いでいるうちに睡魔が襲ってきたのだろうか。無造作に散らばっている髪は乾かされずまだ湿り気を帯びていて、少し捲れたスカートから覗く太股はほんのり赤みがさしていた。
そこはかとなく色っぽく映る無防備かつ扇情的な格好に、花礫は思わず生唾を飲み込む。

名前のお気に入りで寝るときいつも腕を通して眠る白いパーカーは肌蹴て肩が剥き出しになっており、白い素肌にうだる暑さで浮かぶ汗がより際立って見えた。
(……ああクソッ、あんな夢なんざ見るから)
普段は全く気にしないようなことでも今日に限っては厭に視界に留まった。こんな些細なことさえいちいち反応してしまう男の性に対し悔しげに歯噛みするも、葛藤は決しておくびにも出さず、あくまでも平静を装って花礫はソファーを独占する女に近寄った。
何気なしに頬に触れて、汗で張り付く髪を横に退ける。生憎ながら現在艇の空調機能は昨夜から修正中で、いつもは程良く利いているクーラーなどが全て使用不可となっていた。代替として用意されたのが扇風機。
けれどクーラーほど万能ではなく、付けたとしても生温い風が煽られるだけでさほど涼しいというわけではない。ただ何も無いよりはマシ、というだけで。
おかげで昨日は寝苦しい一夜を過ごした。
とんだ生殺しに近い夢まで見せられて、正直踏んだり蹴ったりだと内心毒づく。

──でも。いくら言っても反省しないこの女に身を持って知らしめる為には、多少強引な手段を行使してでも解らせる必要がある。無防備な姿を晒すな、少しは周りを警戒しろと。ましてや艇にはお前を狙う男の存在だってあるのだからと。そう口酸っぱく言い聞かせてきたものの、女が学ぶ様子もなく。

いい加減ぐつぐつと煮やしてきた業も限界を達するところだったんだ、ちょうど良い機会だと花礫は薄く開かれた桃色の下唇を親指の腹で軽くなぞった。
端から端まで愛撫するようにゆっくり滑らせて、柔らかな感触を心ゆくまで堪能する。そうして次の瞬間にはあたかも呼吸さえ奪うように隙間なく唇を重ね合わせて、奥に秘められた赤い舌に歯を立てた。
苦しげに歪む名前の表情。口呼吸は封じられた上に咥内を隈無く蹂躙されて、鼻で呼吸を繰り返すも酸素は逃げていくばかりだった。次第に体に伸しかかる圧迫感と酸欠により意識は無理矢理にでも引き起こされて、覚醒した名前は恐る恐る目蓋を開く。

するとあり得ないほど近く、視界一面を満遍なく埋めた花礫の明眸を見るなり彼女は瞳を丸くして、途端にジタバタと暴れ始めた。自分の両肩を押す細腕を造作もなく絡め捕ってソファーに沈め、体重を掛けて逃げようと足掻く体躯を押さえつける。
唇は重なったまま。抵抗した所為でさらに体力と気力を消耗した名前はやがてグッタリと花礫の為されるがままになっており、朦朧とした意識の中でもなんとか息継ぎをすることだけに集中した。

「ふ……ッおい、舌出せ。引っ込めんな」
「ン……ん、だっ、て」
「だってもクソもねえよ。……ほら、はやく」
「ん、」

有無を言わさぬ口調で引きずり出され、抗うことを観念した名前は怖ず怖ずと言われた通りに舌を差し出した。
刹那、なりふり構わずむしゃぶりつかれる。吸いつかれて、表面のざらついた部分を舌先で擽られて、仕舞いには強く吸われながら歯で擦るように嬲られる。

ない交ぜになった熱の籠もった吐息、紅潮した頬に絡まった指先。
全部、夢の中の情景と重なって。まさか正夢になるだなんて思いもしなかった。

さながら頭の芯からドロドロに溶けていくみたいだ。恍惚とした感覚に夢中になりながら花礫が重ねた指先はそのままに手の甲を爪先で擽れば、そんな僅かな刺激さえ感じるのか名前の体が細く揺れた。
瞳を薄く開いてみれば、はくはくと息を乱しながらも施される花礫の責めに応えようと懸命に努力する名前の様相が目に入る。

仕方なく一度息をつく間を与えてやろうと惜しげに唇を離せば、ちゅっと可愛らしいリップノイズとは裏腹に二人を繋ぐ銀糸が艶めかしく光に反射する。それを見てまた更に顔を赤くする名前に再び昂る欲の衝動をグッと堪えつつ、ひと先ず自分が余裕を取り戻すことが先決だと花礫は深い嘆息を吐いた。
(……ちくしょう、全っ然足りねー……)
飢えて、飢えて、貪るようにどれだけキスしようが満たされない。
別に欲求不満だったというわけでも無いのに何故、と訝しげに首を捻る。ただどうしようもなく欲しくて、いっそ自分を誘惑する赤い舌を噛んだら満足するのだろうかなんて物騒な考えに到るほど求めてる。

磁石のように吸い寄せられるがまま、花礫は再度息の整った名前に口付けを降らせた。先程のように激しいものではない、労るような、小鳥が啄むような優しいもの。これなら息を乱すこともあるまい。
突然打って変わった花礫の様子に名前は瞠目したものの、そのうち嬉しそうに目尻を窄めて自分に跨る男の首に腕を回した。絡まっていた指先が解かれたことに花礫は不満げに女を一瞥したが、密着した体に何一つ文句を言うことはなく。
名前の少しばかりソファーから浮いた背中に手を回し、湿った髪の合間に指を通した。

「ん……ね。花礫くん、今日はどうしたの? もしかしたら誰か来るかもしれないのに……」
「……別に、したくなったからしただけ。そんなことより無駄口叩いてないでコッチに集中しろよ」

唇をくっつけたまま言問えば、当然言葉と一緒に洩れた息が花礫の唇を掠める。単純だけれどそれにさえ煽られて、流されて。後頭部に回した手に力を込めて深く深く口づける。今さっきしていた小鳥が啄むキスとは比にならないくらい、体の中枢から蕩けるものを。
返事はろくに貰えず名前はさも不服そうに眉を顰めたが諦めたのか瞳を閉じ、花礫の首に回していた腕に力を入れて男の体をよりいっそう自分に引き寄せた。

────俺もお前も、暑さに大概頭をヤられちまったらしい。
暑いのに、互いの体温がこんなに心地良いと感じるなんて。離したくない、なんて。

蒸し暑い熱帯夜は徐々に更けていき、また明日には灼熱の太陽が空を焦がすのだろう。
でもそれまでには、時間はまだまだたっぷりあるから。どうせならこの暑さを熱が満ち足りるまで満喫するのも、たまには悪くない。

(好き、だ。……どうしようもねぇくらい)
さて。ではたまにはついでに、滅多に言わない愛の言葉でも囁いてみようか。
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