何故かは自分でもわからない
 ただ、どうしようもなく彼の瞳を見るのが恐かった

 吊り目がちな黒曜石の眼差しは驚愕に染まりつつも真っ直ぐに私を見据えていて、それがとても恐ろしくて、幾重もの冷たい鎖に雁字搦めにされたみたいだった。
 膝がガクガクと小刻みに震えて、胸がすごく苦しくなって、だけど心のどこかでは僅かに嬉しいと思う矛盾を抱えて。
 思考回路がごちゃごちゃと錯乱して、どうにかなってしまいそうだった。

 ごめんなさい。
 咄嗟に唇に乗せた言葉は何へ向けての謝罪なのか。考えれば考えるほど泥沼に嵌っていくようで、私は傷の痛みなど忘れてなりふり構わず廊下をひた走った。



 ──さらり。
 頭を撫でられる感触がして怠い目蓋を持ち上げる。

 夢から醒めて霞む視界を満遍なく埋めたのは白い天井、けれど鼻腔を擽った香りは嗅ぎ慣れた消毒薬の匂いではなく、ふんわりとした優しい花の香りだった。
 痛む額に顔を歪めつつ視線を外すと、端を掠めたのはミントグリーンの艶やかな絹糸。その髪の主の名を嗄れた声で辛うじて呼べば、頭を撫でる手の平がより一層労るように名前の頬をゆっくり滑った。

「目が覚めて早々病室から抜け出したんですって? バカねぇ、そりゃあ傷口も開くわよ」
「………それ喰にも言われたよ……馬鹿なの? 死ぬの? って」
「言われて当然ね」
「イヴァ姐までひどい…」

 歯に衣着せぬ口振りに思わず苦笑いする。
 だけれどイヴァが名前に触れる手付きは辛辣な言い草とは裏腹に至極穏やかで、窓から入った外気に当たり冷えた体温には心地いい温もりだった。
 何気なしにもっと、とすり寄せれば、長い睫毛に縁取られた双眸が柔らかく細められる。自分が今こんな状態じゃなかったら、きっともっとこっぴどく叱られていたことだろう。
 「何で無茶したの!」とか、「女の子なんだからもっと自分を大事に扱いなさい!」だとか。
 そのため実はイヴァがお見舞いに来る時を戦々恐々として待ち構えていたのだが、何てことはない、ゆったりとした時間だけが流れていた。

 ──昨夜、名前は燭の診察を受けた後、看護士の目を盗んで病室から脱走を図った。
「お前は何も気にすることなくゆっくり休んでいろ」
 そう淡々と告げられた言葉に「はい分かりました」と素直に肯ける筈もなく、自分が倒れた後の事後処理などが気になって、どうしてものうのうと部屋でただ大人しくしているなんてことが出来なかったのだ。

 広い研案塔の中を宛てもなく彷徨い、余計な思考を一切払いのけるかの如く隈無く平門を探した。
 襲う焼け火ばしを当てられたような疼痛に、苦しげに食い縛った口端から洩れる吐息。意識も朦朧として足取りだって覚束ない、そんな今にも倒れそうな時に廊下で出会した黒髪の少年。
 端正な面持ちは俄かに信じがたいと顔面蒼白の名前を真正面から見据えていて、やがて我を取り戻したように伸ばされた腕を拒まんとするばかりに名前は身を翻した。

 血流が熱く沸騰しているみたい、全身が火照って仕方なかった。
 廊下を駆け抜けると冷たい風が頬を横切ってちょうど良かったが、感慨に耽る隙もなく何故か少年は「待て!」と言いながら鬼気迫る表情で粘り強くも追ってきた。身の危険を察した名前は火事場の馬鹿力をここぞとばかりに発揮して、涙目になりながらも髪を振り乱して必死の形相で逃げる、逃げる。
 その異様な二人を取り巻く空気は野生の虎が鹿(獲物)を狙うかの如く、弱肉強食の世界が広がっていたと後の目撃者は雄弁に語る。
 しかしやむなく限界が訪れ名前の意識はそこでブラックアウト。
 後ろから狼狽する声が掛けられたが答えられる余裕はなく、次に目を開けた時には夜叉…否、背筋も凍る絶対零度の冷笑を湛えた幼馴染みが今か今かと名前の目覚めを手ぐすね引いて待っていた。
 無論、口八丁手八丁の彼に適う筈もなく、燭の叱咤とともに並べられた嫌味のシャワーが課せられた名前は、開いた傷口の手当てが終了した頃には生ける屍となっていたという。

「後でちゃんと花礫にお礼言っときなさいよ、アンタが倒れたって血相変えて此処まで知らせに来たのはアイツなんだから」
「う、ん……頑張る」
「何で頑張る必要があるのよ、お礼言うだけでしょ…って、花礫のことだけ覚えてないんだっけ?」
「分からない、知らない……けど、」
「けど?」
「……知ってるような気もする……」

 堂々と胸を張って言える自信がなく尻すぼみに発した名前に、結局どっちなのよとイヴァが呆れ混じりに溜息を吐いた。
(そんなの、私が一番訊きたい)
 思い返せば、自分が最初に目を醒ましたときも側に居たのは彼だった。
 手が痛いくらいに握られていて、重ねられた掌の合間にはうっすらと汗が滲んでいて、おそらく長い時間強く握られていたのだろう事が分かった。
 だれ、と聞いたときの少年の顔は、未だ脳裏に強く印象が残っている。

 いったい彼は誰なのか。
 私のいったい何なのか。
 疑問が尽きることは無いが、後からツクモ達に聞いた話によれば、あの少年も无と一緒に貳號艇で預かっている保護対象らしい。
 しかし自分は面識がない、いいや、何らかの理由で少年に関する記憶全てを忘れてしまっているのだと療師から宣告されたのは、心電図諸々といった機械をあらかた外し終えた後だった。
 ……確かに、前々から知っていたような気もするんだ。彼を、花礫を前にした時の胸のざわめきは、決して初対面の人間に感じるものではなかったから。

 心底逃げたい、と思うなんて

 実際自分を射抜く視線に居たたまれなくなって逃げ出し、挙げ句の果てに迷惑まで掛けてしまったのだけれど。

「あの子の目がこわくて、ね、つい逃げ出しちゃったの。これ以上近付いちゃいけないって、そばに寄っちゃ駄目なんだって、なんでか、そんな気がして」
「……名前…」

 花礫の事は忘れても、為す術もなくどうしても忘れられないことも根底にはあるのだとイヴァは悟った。
 おかしいよね、と肩を竦めておどける様に笑う彼女をそっと抱き寄せる。
 腕の中に収まった小さな体躯は豊満な胸元にしな垂れかかり、イヴァの肩口に痛々しくも包帯が捲かれた頭を預けて瞑目した。
 過去のトラウマは、そう簡単に払拭出来るものではない。名前という存在の裏には常に両親の影が付き纏い、彼女の体のあちこちには依然として激しい憎悪の名残が見え隠れする。
 他人を憎むのは、憎まれるのは、こわい。
 唇を震わせて自嘲気味に、けれど懸命に本心をさらけ出してくれたのはいつだったか。

 やがて誘われるように寝息を立て始めた名前を横たわらせ、イヴァは暫し安らかな寝顔を見つめたあと扉の向こう側へ声を掛けた。
 躊躇いがちに扉から現れたのは所在無さげに目線を背ける花礫で、彼は手招くイヴァに促され緩慢と椅子に腰を下ろす。
 …自分をブン殴ってやりてー。
 花礫が独り言のつもりで呟いただろう言葉に、イヴァが何だったらいつでもあたしがブン殴ってあげるわよと軽口を叩いた。

「……ほとんど八つ当たりのつもりで言ったんだよ。金輪際、俺に必要最低限以外関わるなって」
「はぁ? アンタそんなことこの子に言ったの!?」
「っ声がデケェよ! コイツが起きちまうだろーが」

 ギョッと肩を揺らした花礫を見て、イヴァは荒くなった語気を沈めて口を閉ざした。
 ずっと、心残りだった。
 どんなに精神的に切羽詰まって苛ついていたとは言え、自分の爆発した感情をぶつけるような形で名前に手酷く当たってしまったこと、傷付けたこと、泣かせたこと。綺麗に拭かれた顔にはもうあの涙の痕は無い。けれど、落ちた雫がどこかに存在していたのは確かだった。
 自分の、一時の感情の所為で。
 自身の頭から離れない、ヘラヘラといつでも笑っていた彼女の笑顔が歪む。

 次見れるのはいつだろうか、もしかしたらもう二度と自らに向けられることは無いんじゃないだろうか。
 慚愧のいたり、取り返しがつかない焦燥。
 様々な想いに駆られる花礫は、自業自得ね、と隣から返ってきた厳しい言葉に二の句を告げなかった。

「…だけど、ま。ちゃんと自分の行いを後悔してるようだから一つ、良いことを教えてあげるわ」
「?」
「嫌いの反対は好きだけど、好きの反対は無関心よ。膠着した事態を動かすも、このままほっとくも花礫次第。いずれにせよ今の状況から見るにマイナススタートだけどね。それでもアンタ、やる? 名前のこと、また振り向かせる自信、ある?」
「………否が応でも吐かせてやるよ。もう一度、この口から」

 それはこれからの宣戦布告を言外に含ませていた。

 ──ウダウダ考えんのはもうヤメた。
 守られるなら、守られないよう自分が強くなりゃいいだけ。
 関係が変わることを躊躇っている間に今度こそ全て失うかもしれない。そんな未来に腰が引けて二の足を踏むのは臆病者のやることだ、俺は違う。

 上等だ
 振り払われたなら抑え込んででも繋ぎ止めるまで

 名前の顔を一瞥だけして、花礫はおもむろに立ち上がり扉へと足を向けた。
 どこに行くの? という問いに振り向かず自室、とだけ素っ気なく返しドアノブを回す。

「ソイツ俺の顔見たら逃げようとするだろ。だから今は何もしねーよ。…今は、な」
「…ちょっと。煽ったのは確かにあたしだけど、この子傷付けるようなマネしたらそれこそ許さないわよ」

 意味深な言い回しに耳敏く反応したイヴァが眉を潜め、あらかじめ先手として釘を打っておく。
 自分の可愛い妹分なんだ、これ以上泣かせるようなマネをしたらタダじゃおかない。
 微かに声色に棘を忍ばせて広い背中を牽制すれば、「肝に銘じとく」と何とも曖昧な答えが投げられた。扉が閉ざされる音を聞いて、イヴァはふっと肩の荷を下ろす。

(前途多難、ね。アンタも、花礫も)
 一癖も二癖もありそうな男に惚れられたモンだと、内心安心しきった顔で眠る名前に深く同情さえした、でも。

(この子が幸せであれば、それでいいか)
 どんな末路を迎えたとして、結果的に名前が屈託無く笑っている未来があるとしたら、イヴァにとってはそれだけで充分だった。
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