@燭の場合
「────い、おい、起きろ 」
「……、あかり、せんせ?」
「検査の最中に寝られたら正常なデータが取れないから寝るなとあれほど……、泣いているのか?」

ああ、また燭先生のお説教が始まる。そう身構えた矢先、されど燭先生の口からお小言が零れることはなく代わりに紡がれたのは俄かには信じがたい、といった声音の問い掛けだった。指摘されて機械が外された手で目尻を撫でると、私はやっと自分が泣いていることに気付く。消毒薬の匂いも感じないからもしかしたら鼻も詰まってるかもしれない。流石に鼻水を垂らすなんて醜態は晒してないけれど。涙は引きを切らず流れているが、頭の中はこんな風に呑気なことを考えられるほど冷静だった。闇雲に落ち着きを失うわけでもなく、ただ(やはり、夢はあちらだった)と大した感慨もなく現実を受け入れていた。こんな夢を見るなんて未練がましい。は、と口から酸素を取り込めば、カルテを片手に抱えた燭先生は訝しげに眉を顰めた後やがてふと頬を緩ませた。

「泣くほど恐ろしい夢でも見たのか」
「……子供じゃあるまいし」
「事実、夢を見て泣いてる奴が言う科白か?」
「何故夢を見たと言い切れるんです?」
「起きて早々に泣く理由といったらそれくらいしか見当が付かないが。外れだったか」

恐らく薄く笑う燭先生には何もかもお見通しなのだろう。眠くて欠伸で、なんてつまらない誤魔化しは彼には通用しない。だが揶揄するような口調でも深く追及はしてこないところに細やかな燭先生の気遣いを感じる。「私からすれば君はまだまだ子供だ」……いいえ、やっぱり優しさなんて微塵も感じられない。この人は単に私を怒らせてからかって遊びたいだけだ。あわよくばそれを出汁にして私を研案塔に引きずり込む気だな。けど女性は嗜む程度に、なんてあたかも女をナメてくれたような発言をする人の思い通りになるなんて面白くない。看護師の方々も言ってましたが一度こっぴどくフラれてその高い鼻っ柱折られれば良いのに、と内心痛烈に悪態吐く。綵祢さんならそれが可能なんです!と言われたことがあるけど私には荷が重い。……やるんなら徹底的にやりますけど。等と下らないことを考えて、私は一向に止まる気配を見せない涙をそのままに起き上がった。

「もう検査は終わったんでしょう? なら私は艇に帰ります」
「そんな状態で出て行ったら多くの人間に泣き顔見られるが」
「そしたら燭先生に泣かされたんですってかわしますからお気になさらず」
「オイ止めろ」

なんて濡れ衣を被せようとするんだお前は。ヤレヤレと悩ましげに頭を抱える燭先生に私をからかおうとした仕返しですと何食わぬ顔で飄々と返せば、重々しく溢されるため息。構わず足を寝台から地面に着けて立ち上がろうとすれば、けれど涙で滲んだ不安定な視界の中では不注意だった。足元にあった機械の配線に躓いて思わずよろける。──が。腹に回された意外に逞しい腕に支えられて、私は再び寝台に腰掛けることになった。顔を上げればムスッとした仏頂面が私を見下ろしていて、不機嫌そうに細められた眦が私と視線が重なるなり一層細くなる。

「身に覚えの無い罪を着せられるのは御免なんでな。暫く此処にいてもらうぞ」
「…ふふ、周りにどんな噂を立てられるか恐いんです?」
「くだらない。それに生憎、私はそこまで女泣かせの罪作りな男では無いからな。女性には相応の誠意を以て接する。そこのところ誤解を受けられては堪らない」

やっぱり恐いんじゃないですか。クスクスと笑えば、「泣きながら笑うなんて器用だな」と突っ込みが入る。私だって何でこんなに時間が経っても止めどなく溢れてくるのか謎で仕方ないんですから、そんなこと言わないでくださいよ。燭先生の対応に苦笑すると、ふいにリヴァイの顔が思考の片隅を過ってチクリと胸が痛む。気丈を振る舞おうと笑みを深くしても涙腺が壊れたかのように雫は留まらず。見兼ねた燭先生が顰めっ面をして私の目尻を指先でグイッと拭った。

「 痛いです燭先生」
「いい加減泣き止め」
「出来るものならとっくに止まってます」
「お前に泣かれると、…私も弱る」

……なんですか、それ。さあな。
言外に含まれた意味が分からなくて涙ながらに問えば、案の定適当にはぐらかされた。最初からまともな返事は期待していなかったが。口を噤んでこれ以上燭先生にも泣き顔を見せないようにと顔を逸らせば、燭先生も私の心境を察したのかポン、と私の頭に手を置いて背中を向ける。

「……もう良い。どうせ泣くんだったら気が晴れるまで存分に泣け。私はそこで仕事を片付ける」
「……っ、」
「背中なら、貸してやらんことも無い」

素っ気なく告げられて、でも優しさの滲んだ言葉に私は椅子に腰掛けた燭先生の背にすがるような格好でしがみついた。後ろから肩に顔を埋め、漏れる嗚咽を懸命に押し殺しながら先生の白衣を握り締める。清潔な白衣がしわくちゃになって涙で濡れても先生は咎めることをせず、仕事をするなんて言っておきながらただ泣き崩れる私の頭をひたすら撫でてくださっていた。


@朔の場合
「……こりゃ、貴重なモン見れたな」

ぽつり、目を白黒させて呟いた声は自分でも間抜けた声だと呆れるものだった。人気の無い食堂のテーブルに突っ伏してる姿。普段あくせくと働いてる名前がこんな無防備な姿を晒すなんて滅多にないから、用があって貳號艇に訪れたついでに名前にも顔を出しとこうと食堂に足を運んだ俺は起こさないよう気配を殺して慎重に近付いた。組み合わさった腕の合間から覗いた涙の跡。時折目蓋が震えると一つ、また一つと零れていって、名前の睫毛と素肌を濡らす。誰が相手だろうが負けん気を崩さず、毅然とした佇まいを見せる女が流した、涙。(……ホッとしたわ)平門並みに強情なこいつも、ちゃんと泣くことが出来たんだと。もちろん血も涙もない、って意味じゃない。けど名前はどんだけ辛くてもしんどくても弱音を吐いたりこうして泣いたりしねーから。「女は泣けば大抵まかり通る、なんてナメられたくないんです」いつかそう苛々した顔で強気に言い放った名前の言葉を思い出す。……変なとこで意地っ張りだからなあ、こいつ。一度自分がこうと決めたら何がなんでも絶対に曲げない。だから気心が知れた俺らの前でも弱った姿はよっぽど不満が溜まってない限り晒さないし、俺も片手で数える程しか見たことが無い。平門はどうか知んねーけどな。あいつの場合、名前の機嫌が悪い時にわざと癪のツボ刺激して無理矢理にでも発散させてそうだし。そういうとこ不器用なんだよなぁ、お互い。ふ、と焦れったい関係の同僚二人に笑みを溢しながら、俺は名前の湿った頬を突っついた。名前はうざったそうに唸った後、億劫な動作で目を開ける。

「おわ、目蓋腫れてるぞ」
「……ほっといてください………」
「んー、残念ながら泣いてる女を一人ほっとく程俺は男が廃れちゃいねーなぁ」
「も、こんな時に紳士にならないでくださいよ」
「惚れてくれても構わないんだぜ?」
「ハイハイ好き好き」
「棒読みの告白サンキュ」

つーかすっげぇ鼻声。予想通りの返事が返ってきたことに笑いながら鼻を摘まむと、止めてくださいとやはり億劫そうに手を払われる。寝起きだからかテンション低いな。いやこれが通常か。かろうじて俺の悪ふざけに付き合えるくらいの余裕はあるみたいだし? ──なんて、俺を騙せるとでも思ったか。節穴じゃねぇんだぞこの両目は。

「今日くらい我慢すんな」
「…………なんのことです?」 
「あくまでもシラを切るつもりならそれでもいーけどよ、後々キツいのはお前だぞ名前。今なら幸い誰も見てねぇんだし、お堅い殻脱ぎ捨てるのも悪くないんじゃね?」
「あなたが居るでしょう?」
「俺空気。透明人間。だから気にすんな」

んな無茶苦茶な……。ぐす、と鼻を啜りながら苦く笑う名前に気にすんな、と再度強く念を押した。そりゃ俺も無茶苦茶だと思うけどよ、こうでも言わねぇと頑固な姫さんは中々素直にならねえからなー。……あ、與儀たちにとっちゃこいつは母親みたいなモンなんだっけか。まあでも俺らにとっては同期だし、平門はともかく俺からすれば良い友人兼、妹のような姉のような存在だし。ほっとけないのはホント。ポン、と頭の天辺に手を置いて髪をくしゃくしゃに乱し、後頭部に下ろしたあと俺は名前の頭を自分の方に引き寄せた。肩に顔を埋めさせて、またポンポンと幼子をあやすように軽く頭を叩く。

「よーしよし、これで良いだろ。さあ泣け」
「……子供扱いしないでください」
「してないしてない」
「……、……ほんと、つくづくあなたって優しいのか意地悪なのか分からない……」
「バッカお前、これほど優しい男なんてそうそう居ねぇぞ?」
「勝手に言ってなさい」

ちぇ、つれねーの。少なくとも平門より底意地悪くねえよと訂正すれば、すかさず名前からも間違いないですと肯定される。本人が居ようが居まいが関係ない。如何なる状況下だろうが軽口を言い合う俺らのスタイル。

「ありがとう、朔」
「俺空気だから。それよりおでん食いてーな」
「空気がおでん食べるんです?」
「んじゃ透明人間ってコトで」
「……後で作ります」
「よっしゃ」

だから早く元気になれよ。やっぱ名前はいつも通りの笑った顔が一番好きだからさ。


@平門の場合
あいつが珍しく俺の部屋に忘れていった書類を届けるために、俺は今仕事を後回しにして名前の部屋までの道のりを辿っていた。本当は羊に届けさせようと思ったが仕事の件で話さなければならないこともある。何より一日デスクと向き合ってるだけじゃ疲れると、気分転換も兼ねて俺が直接向かった方が手っ取り早いと思い至ったからだ。……が、実際部屋に着けば名前は寝てるし、結局くたびれ儲けか。しかし俺は敢えて自室に戻ることはせず、名前が横たわる寝台に腰掛けて安らかな寝顔で眠る名前の頬に手を這わせた。常より手入れを怠らず保湿もしっかりされている肌はきめ細やかで触り心地が良い。最近花礫を叱ってばかりで小皺が増えそうだと当人は深刻に悩んでいたが、俺はまだ心配しなくとも大丈夫だと正直思う。むしろ気にすると余計に増えるんじゃないか?眉間とかな。など名前本人に聞かれたら殺されかねないことを考えていると、頬を撫でられる感触がくすぐったかったのか名前が唐突に身じろいだ。ゆるぅり、綴じられていた目蓋が徐々に上に持ち上がる。名前?俺が彼女の名を呼べば、だが名前の口から発された名前は俺のものじゃなかった。

「──リヴァイ……?」
「!」

俺さえ聴いたことのない愛しそうな声。ふにゃりと安心しきったように緩んだ表情は、未だかつて俺には向けられたことが無いもの。──刹那、俺の胸に渦巻いたのは底の知れない暗く澱んだ薄汚い感情。苛立ちを隠しきれないまま再び名前の名を呼べば、名前はようやく俺をその視界に留めたあとハッと我に返るように瞳を見開いた。次第にカタカタと小刻みに震えて、あ、ぁ、と声にならない声を上げる。(……まさか俺を見て怯えてるのか?)俺を見るなり上体を起こして後ずさる名前には普段の冷静さの欠片も無く、明らかに夢と現実の狭間で板挟みになって現在の状況に混乱しているようだった。

「ちが、ごめんなさい、ちがう、あなたは、リヴァ、ごめ、」
「名前、落ち着け。俺を見ろ」
「いや、っ嫌! さわらないで!」
「名前!!」

パシン、と弾かれた手。借りてきた猫のように怯え人を拒絶する今の名前に何を訴えても言葉は届かない。事態の切迫を感じた俺は無理矢理だが、とりあえず収拾を付ける為に嫌がる名前を腕の中に引き寄せて抱き締める形で抵抗する身体を押さえ込んだ。背中を撫でて深呼吸を促すと、みるみるうちに弛緩していく名前の肢体。力なく俺にしな垂れ掛かってくることから、冷静さは取り戻したんだろうか。何度目かの名前の名を呼べば、返事が返ってくることは無く。代わりに聞こえたのは、微かな泣き声。

「……名前、」

…そんなに、その男が好きか。あんなに慈しむような声で呼ぶほど、愛しみを籠めた眼差しをするほど、こんなに、あられもなく泣くほど。いつもの威勢はどこへ行ったんだ。もはや俺が抱き締めているこの女性は名前ではなく別人なんじゃないかと、そんな馬鹿な疑いを抱くほど今の名前は毅然なんて言葉から遠くかけ離れていた。ただ一心に一人の男を想って泣く、女の浅ましい姿。──その懸想が向けられている先は、俺ではなく。ギリッと奥歯を砕けそうなほど噛み締めながら、俺は名前を抱く腕に力を込めた。比例して名前が俺のジャケットを握る手が強くなる。暫く二人、一言も喋らないままそうやっていた。

「……すみません、お見苦しい姿をお見せしました。もう大丈夫ですから」
「……ああ、」

物理的だけでなく仕事用の口調で精神的距離まで離れようとする名前がこの上なく癪に障って、此処には二人だけだと強調すれば見開かれる双眸。だけど俺がこうなったら何を言っても無駄だと承知してる名前は、観念したようにため息を吐いて分かったと畏まる敬語を消した。それで良いと満足げに微笑めば、名前はさながら所在無さげに目線を下ろす。どうせ俺の手を弾いた事とか申し訳ないとか考えてるんだろう。案外分かりやすいんだ、こいつは。……でも、そうだな。それなりに痛かったし、責任は取ってもらおうか。

「、平門!?」
「今は何も言わず、こうさせろ。ああ、もしくはこれ以上をお望みなら、直ぐにでもご要望に応えてやるが……?」
「調子に乗るなよスケコマシ」

案の定けんもほろろに切り捨てられた。クックッと喉の奥で笑いを押し殺して、今度は背中から抱き寄せた身体をより自分に密着させる。今日は流石に取り乱したことの後ろめたさもあるからか下手に暴れようとはしない。抵抗されないのを良いことに、俺は細い肩に顔を埋めて瞳を閉じた。

「やっぱりお前は、そんな風に啖呵を切ってくるくらいがちょうど良いよ」
「……ごめん、迷惑かけたわね」
「別に。たかがこれくらいの事で迷惑なんて言ったらお前と朔にはいったいどれほどの迷惑を掛けられてるか」
「ソレあなたが言うの?」
「言うさ」

特にお前に関しては、な。お前がどれほどリヴァイという男を想おうが、もう手が届くことは無いんだろう?死んだか、或いはなにか別の理由があるのか。俺には分からないが。(……はやく、)早くその男を忘れれば良い。そして周囲にも男は居るんだと、いい加減気付け。側にこんなにいい男が居るのに無視し続けるなんて底意地が悪いにも程があるんじゃないか?それに名前の心臓はとうに俺のモノだ。今更手放すなど有るわけが無い。────いつか、心も。

「そのうち頂くとするかな」
「……は? なにを?」
「秘密だ」

手に入れる。言ったことは破らない、絶対に。



―――――
と、いうことで
*料理長が泣いた時の各慰め方(大人組、无、與儀)、兵長の夢を見て(平門とリヴァイを間違え)取り乱す料理長を平門が複雑に思いながら介抱、慰める。平門さんは複数似たものを一つに纏めさせて頂きました、ありがとうございました!
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