そもそも事の発端は何だったんだろうか。
 僅かに窪んだ壁にめり込む脚を蒼白とした表情で見つめながら、名前は立ち往生するしかない現状に困惑の色を隠せなかった。

 あれから数日。
 怪我の経過も良好、リハビリがてら名前は特にこれといった目的も持たず研案塔の廊下を徘徊していた。
 未だ時折腹部が痛むことはあるが、今は処方された痛み止めを服用しているため歩く分にはさして問題もなく、至る所に捲かれていた包帯も殆ど解かれたので久しぶりに胸を弾ませていた。
 この程度の掠り傷や打撲程度ならあと数日もしない内に完治するだろう。艇に戻れるのも後少しの辛抱だと胸を撫で下ろしたのは数時間前のこと。
 とは言えど、壱號艇に移る前に貳號艇に自分の荷物を取りに行かなければならない。
 仕事は勿論、やることはたくさん山積みだなと欣喜から一変して憂鬱な気分で歩いていた時、なんの因果か偶然同じく塔の中を散策していたらしい花礫とばったり出会した。

 ピタリ、と条件反射の如くたちまち固まる体。
 彼が此方に気付かない内に再び尻に帆をかけて逃げようかとも瞬時に思惟を巡らせたが、イヴァから聞いた話によれば自分が倒れた時、燭に知らせてくれたのは花礫だという。
 その事についての礼はまだ言えていない。いつまでも理由無く避け続けるのは礼儀知らず、相手を軽んじる行為にも値すると戦く心に檄を飛ばし、名前は自分から恐る恐ると少年に声を掛けた。
 途端に大きく見開かれる瞳を、内心おどおどと身を竦めるようにして見据える。
 また何か言われないかな、うっかり気分を害するようなこと言っちゃったらどうしよう。まだ何も言っていないというのに極度の不安に苛まれる名前に、花礫は嘆息を零したい気持ちをぐっと堪え「なに?」と言葉の続きを促した。
 うっと口ごもりつつ、けれど名前の唇からしっかり紡がれた「ありがとう」という突然のお礼にまたもや瞠目することになり、驚きで硬直した彼を尻目に彼女は横をすり抜けようとした、が。
 ハッと正気を取り戻した花礫が咄嗟に彼女の前に立ちはだかった。

「……」
「……」

 右へ避ければ花礫も右へ。
 名前が左へ避ければ左へ動く。

 子供じみた嫌がらせだ…!
 名前が悉く行く手を阻む花礫に対し絶望感に打ち拉がれる一方、花礫自身どうして自分がこんならしくもない行動を取ったのかと小首を傾げていた。
 ただ、もう自分から逃げるような真似はしないでほしかった。
 逃げられたとしても無理はさせたくない手前この前みたいに追いかけるつもりは甚だ無かったが、今の状況をこの予想だにしていなかった展開から鑑みるに自分を抑えられる自信はない。
 それでも躍起になって自室へ戻ろうと足掻く名前に不満は鬱積して、好機!と言わんばかりに壁際を抜けようとした彼女の前に思わず片脚が躍り出た。

 ────ガァンッ!!

「…………」
「…………」

 …そして、冒頭に到る。


 やっぱりタダでは帰れませんよねー……。
 青褪めた面持ちで花礫の顔色を窺っても、俯いているからどんな険相をしているかは名前には到底計り知れない。しかし決して良い方向に向かっていないことは分かる。
 彼の険しい雰囲気から保たれる沈黙に己の危機感を募らせつつ、名前はまるで薄氷の上を渡るような覚悟で花礫の名前を口にした。
 次の瞬間、弾かれたように顔を上げた彼の表情を見て我が目を疑う。
 花礫の白い頬が、見る見るうちに赤みを帯びていったから。

 どくん、心臓が強く脈を打つ。同時に胸を穿ったのは、あの夜花礫から逃げ出した時に味わった息苦しさとひりつくような悲しみだった。
(わたしは あなたのそんなかおみたことない)
 形容し難い感情に言葉を失って、為す術もなく茫然とした。

 いまのは、何?
 自分は花礫に関しての記憶を全て失っているのだから、見たことがないのは当たり前の筈なのに、どうして「前」もそうだったと思うのだろう。
 そして自分はひどくそれを求めていた、焦がれていた、気が、する。けれど手が届くことはなく、最終的にはどうなったのだったか。
 千々に乱れる記憶に、震える唇を手の平で覆い隠す。動揺を彼に気取られてはいけない。必死に平静を装った、でも。

「…………もっと、呼べよ」
「…、え?」
「もっと、俺の名前呼べ。何回も、ウザいくらいに」

 仮面は、いとも簡単に崩された。
 聞き間違いかと思ったそれは、だけど正しく彼の唇から発せられたもので。
 呆気に取られていたのも束の間、赤い顔を誤魔化す為に顔を背けていた花礫に「早く、」と急かされ、名前は慌てて口を開いた。

「……がれき、くん」
「……」
「花礫くん…花礫くん、がれき、く…」

 何度も彼の名前を呼んでいる内に、徐々に目蓋の裏が熱を持って、自分でも気付かない間に泣いていた。
 異変を察した無骨な手が、涙で濡れる頬を触れるか触れないかの瀬戸際でぎこちなく滑っていく。
 泣くな。ばつが悪そうに小さく囁かれた言葉は、ことさら名前の胸奥を強く締め付けた。
(なんで、こんなに苦しいの)
 あなたの名前を呼ぶだけでこんなにも呼吸が苦しくなって、こんなにも思考を乱される。
 いとおしい、と心が叫ぶ。
 もっと触れて、と心が望む。

(だけど、だめだよ)
 これ以上近付いたら、だめ。

 どうして。
 動かした唇は音にはなりませんでした。
 花礫が腹癒せに過去にぶつけた苛立ちは彼女自身は忘れても根っこの部分に残ったまま。言葉は呪縛のように無意識下に名前を縛り、一方的に突きつけられた約束を守ろうとする意思が彼女を動かす。
 健気? 謙虚?
 いいえ、全て自分を傷つけない為の自己防衛にしか過ぎなかった。

 記憶が欠けてしまった名前は知る術もない、ただただ漠然と広がる不明瞭な感情の渦に呑み込まれていくだけ。瞳を綴じて与えられる温もりをもう拒むこともしない彼女を見て、花礫は秘かに歯噛みした。
 ──二人を隔てる空気の存在が煩わしい。
 距離は埋められることはなく、名前から手を伸ばされることも無い。自分がこの肩を突き放すまでは勢いよく抱き付いてきた事もあったというのに、感じるもどかしさ。
 自業自得、因果応報。
 二つの単語が花礫の肩に重く伸し掛かる。

「それでも、今更引き下がれるか」
「え…?」
「……まだ教えねーよ、ばぁか」

 今のお前には、まだ。
 全部取り戻して、何もかも落ち着いたあと、
 ちゃんとこの口から告げるから。

 今度はきっと受け止める。
 そしたらお前は、またいつものように笑って俺だけに手を伸ばしてくれたらいい。
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