@お手付きはいけません(喰)
「…………オーイ喰、そろそろ名前から離れろよ。名前が困ってんだろ」
「え? 別に困ってないよね母さん?」
「大いに困ってます」
「それ見ろ」
「……チィッ」

とても子供とは思えない凶悪な形相で舌を打った息子に朔ともども苦笑いした。腰に抱き着いたきり一向に離れようとしない喰。今私はキッチンで忙しなく夕飯の準備に勤しんでいて、早々に仕事を切り上げて帰ってきた朔にも注意してもらうなどして離れてもらうよう試みたが さっぱり聞く耳を持とうとしない。普段から聞き分けが良いとは言えないが、ここまで頑として駄々を捏ねるなんて滅多に無いことだから珍しく戸惑う。どうしたものかと考え倦ねながら小さな頭を優しく撫でれば、グリグリと私のお腹に強く額を押し付けてくる。おっと甘えたい年頃かー?なんて朔と顔を見合わせ、喰の不可解な行動に二人揃って小首を傾げた。

「どうした喰、なんか合ったか?」
「母さんすごくイイ匂いする」
「なんだとそこ退け俺も嗅ぐ」
「止めなさいこのバカ親子ども」

真顔で席を立った朔に注意した貴方まで便乗してどうするんですかと窘めた。されど悪ぃ悪ぃと謝っておきながら全く反省の色を見せていない夫に肩を竦め、未だ飽きずに鼻を服にくっつけて匂いを嗅いでいる喰をペシンと叩く。大層不満げに喰が憮然とした面持ちを上げて何するの、と不貞腐れた。……仕草は可愛いけどやってることは可愛くない。夕飯作りが進まないからいい加減離れなさいと促せば、渋々といった様子で密着していた身体を離した。

「……母さん痩せたね」
「え、本当です?」
「うん、腰のくびれが僕好み」
「喰ちょっとこっちで俺と真面目な話しようぜ」

朔の顔から再び表情が消えた。心なしか纏う雰囲気が重い。同時に喰も警戒したように剣呑な空気を醸し出す。…何やってんだか。呆れ返って物も言えなかった。対峙する親子を尻目に、私は邪魔が入らない内にさっさと作ってしまおうと炊事に専念する。いつしか二人は取っ組み合い、というよりは仲睦まじくじゃれあっていた。もう、喰も朔に構ってほしかったのなら素直にそう言えば良いのに。クスリと笑って、炒めた具材を皿に取り分ける。肉と野菜の芳ばしい香りがキッチンに充満した。

「はいはい、ご飯ですよー」
「「待ってました!」」

お待たせしました。バタバタとすっ飛んでくる親子二人を見て、和やかな雰囲気に包まれ私は笑った。ほんと、そっくりね。


@ひとりじめ!(キイチ)
今日は休日。しかし一家の大黒柱である朔は生憎と二日前から地方に出張で不在にしており、現在家に居るのは私とキイチだけだった。たまには家族で出掛けられたら良いのになー…と朔は眠るキイチを見ながら残念そうに呟いていたが、当のキイチはそんなこと全く気にしていないようで機嫌が良い。今にも鼻唄を歌い出しそうなほど気分が弾んでいる様子のキイチを見て、私は泣く泣く遠征に出た夫に哀れみの情を抱いたのだった。

「きょうはチーズケーキやくんですよね?」
「明日朔が帰ってきますからね、とびっきり美味しいの作ってて待っててあげましょう」
「キイチにでもできるんだって、ぜったいギャフンと言わせてやりますぅ!」
「うふふ、その意気です」

きっとキイチも手伝ったんだと訊けばどんな味でも朔は喜んで完食するだろう。むしろそうじゃなければ私が許しません。ケーキ作りに必要な器材と材料をテーブルに広げ、難なく順をこなしていく。材料を量る時キイチは中々苦戦していたが、まあ僅かくらいのズレが合ったって大抵のものは問題なく焼けるから構わないでしょう。おもむろにぐし、とキイチが粉がついた手で頬を擦ると、案の定その粉が肌にも付いてしまう。目に入ったら危ないと指摘すれば、顔を近くにつき出された。

「んっ……ままがぬぐってください」
「……もう。ほら、じゃあじっとして」

布巾で手を拭ってからキイチの頬も指先で拭えば、くすぐったいですよぉと無邪気に笑いながら身を捩る。じっとしてって言ったのに、仕方ないから抵抗する身体を抱き締めるようにして押さえ付けながらうりうりと頬を責めれば、なお楽しそうに笑う娘。朔が見たら間違いなく羨ましがるだろう光景に、私も笑いながら遠くで仕事に励んでいる夫に想いを馳せる。けどキイチはそんな私の複雑な心境を敏感に察したのだろう、ぱぱが居なくて寂しいです?と単刀直入に痛いところを突いてきて。苦笑しつつ、安心させるように頭を撫でた。

「キイチが居るから寂しくありませんよ」
「……ほんとうに?」
「もちろん」
「……キイチも、ままがいるからぜんぜんさびしくないですぅっ」

全然、とは朔が聞いたらそれこそ酷く落ち込むだろうな…。首に勢いよく抱き着いてきた娘を抱き締め返し、あやすように背中を叩く。ケーキ作りなんて最早そっちのけだ、暫くの間そうやっていると、腕の中にいるキイチがやがて眠くなってきたのかうつらうつらと微睡んでいて。

「寝ちゃっても良いですよ。ケーキの仕上げは後で私がやっておくから」
「……で、もぉ、キイチも、さいごまで、」
「…なら、一時中断して私と一緒にお昼寝しましょうか。起きたらまた再開」
「……ん。まま、このまま……」
「はいはい、腕枕、ね」

甘えてくるキイチの要望に応え、抱き締めたまま床に寝転がった。ソファーからブランケットを引き寄せ、風邪を引かないようキイチに掛ける。そして目を綴じれば、あっという間に夢の中へと沈んでいって。夕方に一日早く帰宅した朔が寝こけている私達二人の姿に目を見開き、優しげに微笑んでいたのは──照れ屋のキイチには秘密のお話。
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