あいつと初めて顔を合わしたのは、奇しくもあの艇ン中じゃなく俺がかつて侵入したミネの屋敷内での事だった。右も左も今の自分が置かれている状況すらロクに分かってなかった无を引き連れ、ミネに追われて死に物狂いでだだっ広い廊下を全力疾走していた途中、手短に出口までの道程を教えてくれた女が居たんだ。そん時はとにかく必死でなりふり構ってらんなくて、お前も早く逃げろと血相変えて俺たちとは正反対の方向へ向かう背中に叫んだが、女は意に介する素振りも見せず悠然と微笑んでこう言った。

私は大丈夫だから、行きなさい。
 
そうやって別れて以降女の行方は知らず、けど間もなくしてミネが俺たちに追い付いてきたからああ、あいつも喰われちまったのかなとか危機一髪で難を逃れて屋敷から離れても苦い思いに駆られていた。しかしそれも杞憂に済んだと気持ちが軽くなったのは、程なくしてこの貳號艇に成り行き上半ば強引に連れられて来てようやく一息付いた時。食事ですよー、というおおらかな間延びした声が耳朶を打って、扉を開けた羊に続けざま部屋に入って来たのがその女──名前だった。

あ、とつい間の抜けた声を漏らした俺に、名前は初対面の時と変わらず何もかも見透しているような笑みで穏やかに微笑んだ。蓋を開けばこいつは元々輪の闘員で、あまり前線に出たりとか遠征に赴くといった表立った行動はしないが、あの日は偶然ミネの屋敷にシェフとして潜入捜査をしていてヤツの動向を窺っていたらしい。ミネが仕出かした悪行の確固たる証拠も掴み、満を持して任務を遂行する前に俺たちが騒ぎを引き起こしてやむを得ず動かざるを得なくなったってワケだ。
「予定は狂いましたが致し方ありません、私の注意が到らなかったばかりに招いた過失ですから」。
結果ミネを捕らえることは出来なかったらしい。あまつさえ手に入れた筈の証拠さえ塵も遺さず抹消され、火不火についての有力な情報収集はまた振り出しに戻った。

まあ何はともあれ、これから暫くよろしくお願いしますね。
貳號艇の料理長として改めて会釈をしてきたあいつに、俺はいまいち煮え切らない思いを堪えながらよろしくとだけ伝えといた。ぶっちゃけ俺と无の世話役として平門に任命された與儀やツクモは例外として、こいつとはそんな頻繁に関わることもねーだろと信じて疑わなかったから、挨拶だっておざなりだった。これから先何度も自分から探してまで会いに行く羽目になるなんて、この時の俺はまさか夢にも思ってなかったんだ。





「……お前もマトモに食事とかすんだ」

「花礫君私のこと何だと思ってたんです?」

「オートマタとかそのへん」

「歴とした人間ですけど」

「別に改造してみたかったとか惜しいとかそんなん思ってねーから」

「思ってたんだなクソガキ」

「あ゛? ンだとこの年増」


ふ、二人とも仲良くしてよー…とお互いの地雷を踏んで不穏な空気を醸し出す俺らを見て、あいつの隣に座ってた與儀がおずおずと狼狽えながら訴える。つかコイツ珍しく居ねぇと思ったらまた名前ンとこに居たのかよ。どんだけ名前のこと好きなんだよ、ベッタリ過ぎてむしろヒくわ。
うげ、と俺が顔を顰めながらそのまま突っ立ってると、ため息を吐いた名前が手に持ってたサンドイッチを皿に置いてちょいちょいと手招きした。空いてる席は余計なのが居るせいで名前の前しか無い、心なしか怠くなった足取りで二人に近付き椅子を引いてどっかりと無遠慮に座る。埃が立つでしょうと窘められたが知らん顔、小腹が空いたと名前の前にある美味そうなパンをじっと見つめればあげませんよと先手を打たれた。…チッ、相変わらずケチくせぇなこの女。


「お昼ご飯しっかり食べたでしょう。度を越した間食ばかりしてたら直ぐ太っちゃいますよ」

「俺は若くて代謝も良いし太りにくい体質だからンな心配しなくともいーんだよ」

「今この子全世界の女性を敵に回したわ。三十路手前の私に謝れ。全力でひれ伏せそして崇めろ」

「お前こそ、そんなかっかしてっと尚更小ジワが際立つんじゃねェのオネーサン?」

「──與儀、あそこから包丁持ってきなさい」

「えっちょ、料理長何する気……!?」

「生意気な性根諸ともこの小僧をたたっ斬る」

「ダメーーー!!」


料理長は少し落ち着いて!花礫くんも挑発的発言は控えて!!
目が据わってる名前を羽交い締めにしながら喚く與儀を余所に、俺はこれからどうすっか呑気に思考を廻らせていた。肝心の名前は食事中だし何よりこの通り年甲斐もなく不機嫌になっちまったから作ってくんねぇだろうし。あーしくった、と今更悔やんでも後の祭りだ。かくなる上は後でこっぴどく説教喰らうことを承知で皿の上の食いモン盗んで部屋に戻るか。

そろっと手を伸ばして目当てのパンを横獲ろうと企むと、けどあいつは目敏く看破してきてパンに近付いた俺の手をパシンと弾いた。「お手つき、です」と得意げな顔を見せてふんぞり返る女にめんどクセェなと舌を打つ。
ああクソ、ハラ減った。パンに挟まれた肉の芳ばしい匂いが鼻腔を刺激して食欲をそそる。けどわざわざ前言撤回してまで貰おうとは思わねーし、しゃあねぇけど冷蔵庫ん中漁って夕飯まで腹持ちするようなテキトーなモンずらかってくか。そう思い立って立ち上がり冷蔵庫を物色すれば、生憎と生で手軽に食えそうなものは入ってなかった。億劫ながらも緩慢と振り向けばヤツは勝ち誇ったかの満面の笑み。…すげームカつくあの女。大人げねぇにも程があんだろ。

もう良いや、どうせ夕飯まで数時間くらいだし、本読んでるか昼寝して時間潰してりゃあっという間に過ぎるだろ。諦めて踵を返したその時、背中からふと「明日无君と買い出しの荷物持ちを引き受けてくれません?」とあたかも今思い出したかのように名前から声が掛かった。
それに俺が「女の買い物は長いっつうしダリィから行かねー」とけんもほろろに受け流せば、今までの威勢はどこ行ったんだと呆れるほどそうですか…と心なしか気落ちした声音が耳に届く。…ったく、何なんだよホント調子狂わされんな。妙に気にかける俺も俺だ、意味分かんねぇし。


「残念です…せっかくついて来てくれるならこのチキンサンドとコロッケサンドを分けて差し上げようと思ったのに……」

「………………ハッ、ンなモンに今頃俺が釣られるわけ、」

「チキンもコロッケも揚げたてでサクサクなのになー。ほっくほくのジューシーのスパイシーで最高なのになー。あー我ながらとっても美味しい」

「食う」

「釣られたわ……」

「釣られたね……」


背に腹は変えられなかった。
いつの間にか来てたツクモにまで突っ込まれたけどもう知らね。與儀は後でブン殴る。

さっき座ってた前の席に光の速さで戻り、差し出されたサンドに躊躇いなくがっついた。誰も盗りませんから良く噛んで食べなさい、と諭す口調の名前にガキ扱いすんなと一蹴して構わず食べ物にありつけば、名前は仕方ないと言わんばかりに肩を竦めてツクモを見る。ツクモはあのいけ好かないクソメガネが名前を呼んでるっつー事を伝えに来たようだった。いったい何の用事だよと食いながら俺は思ったが、名前にとってあいつに呼び出されることはそう稀でもないようで大して疑問に思う様子をおくびにも出さず立ち上がる。

明日、忘れないでくださいね。約束破ったら三食抜きですよ。

提示された条件にげ、と眉を寄せた。抜かりなく釘を差してった名前は満足そうな面持ちで食堂を去っていく。…すっとぼけてスルーしたら本気で食わせらんねぇなアレ…冗談じゃねえ。空腹で野垂れ死ぬっての。冷蔵庫ん中はどうせ今見た通りアテにならないだろーし、他の給仕のヤツなんて知らねぇし。
挙げ句にはあいつの作った料理の味にすっかり慣れちまったからもうインスタントとか舌に合わなくなって、食えないことはねぇんだけど食った気がしない。自分でも昔の貧困生活の時と比べるとナニ贅沢抜かしてんだとか思うけど事実だからしょうがねえ。つまりは認めたくねーけどがっちり胃袋を掴まれたっつうの?それ。

チキンサンドを食い終えて溢れた肉汁で濡れた唇をペロリと舐める。やっぱ文句なしにうめぇな畜生、と苦心しながら俺が残ったコロッケサンドにも手を出すと、斜め前に座ってる與儀がやけにニコニコしながら頬杖をついてこっちをガン見していた。何コイツきめえ。


「料理長、きっと花礫くん達にも気分転換させてあげようと明日誘ったんだね〜」

「ハァ? 買い出しっつったろ」

「名前さんだもの、それはあくまで建前よ。必要なものはこの前揃えた筈だし…名前さんに限って買い忘れていたなんてこと無いでしょうし」

「……あいつどんだけ完璧超人なんだよ」

「完璧……完璧だったら、」


途端に表情を曇らせて口を濁らせた與儀にあんだよ、と続きを促した。が、ヤツはやっぱり何でもないと笑って取り繕うだけで頑なに話そうとはしない。…ンだよ、そんな意味深な言い回ししといて伏せるとかマジで何なんだよ。だったらハナから言うんじゃねぇよ気になるだろうが。けど與儀の側に立ってるツクモも浮かない顔をしていて、所詮部外者でしかない俺には闇雲に踏み入ることの出来ない領域なんだと、確認するまでもなくコイツらとの違いを実感して殊更苛立ちが募った。

釈然とスッキリしない気持ちのままパンにかぶり付く。すると、俺がパンに挟まったレタスを咀嚼したと同時にニャンペローナの着信音がけたたましく鳴った。
こんなアホくさい着メロに設定すんのは與儀くらいで、ジロリと一瞥すればヤツは慌ただしくポケットの中をまさぐって携帯を取り出した。メールだと知ってホッと安心したかのように胸を撫で下ろし、小さく吹き出す。


「花礫くんに…。料理長から今日は寝坊しないように早く歯を磨いて寝なさいだって」

「〜〜っ余計なお節介だっつっとけ!!」

「っあ、花礫くん!? 歩きながら食べるなんてお行儀悪いよー!」

「うるせえ!!」


どいつもこいつもガキ扱いしやがって…。ほんっとムカつく。マジあり得ねえ。あの女、明日会ったらぜってえ今日よりも地雷踏みまくってやる。

コロッケサンドを口に含みながら、俺は與儀やツクモが制止する声にも耳を貸さず賑やかな食堂を後にした。
……うわ、このコロッケも美味ぇ。


(一緒にすんな、伸び伸びと甘やかされて育ったその辺のガキとはワケが違う)
(俺だって、──)



@料理長と花礫くんの絡みを!と拍手でも募集案でも望まれる方が多かったので。花礫くんは吹き出物とか出来たら遠慮無く「なにそれニキビ?」とか言って来そうで恐い。そしてイタズラに潰してきそう。
ALICE+