最初から、叶えたい恋じゃなかった。ただ貴方を想えていればそれで良かったの。
「姫」
私を呼ぶ貴方の声がすき。
「姫」
私を呼ぶと同時に差し伸べられる、大きな掌の温もりがすき。
「姫、」
私を呼んだ時に覚醒具からちらりと垣間見える、口許の笑窪がすき。
ただ、唯。
愛してほしいわけじゃなかった。
ただ、唯。
貴方を心密かに愛していたいだけだった。
秘めたこの想いは胸の奥で燻って、延々と不完全燃焼し続ける。そう、きっと。
──この哀しい地獄の坩堝が、終焉を迎えるその時まで。
「姫、」
愛しい声で目蓋を開けた。ぼんやりと霞む視界は居る筈の存在を探して焦点を彷徨わせる。
けれど恋い焦がれる温もりは側に無く、目を凝らして見つけたのは襖越しに膝を折って、恭しくこうべを垂れる一つの影。
嗚呼、今日も貴方はそうやって私と距離を図るのね、なんて行き場のない気持ちを持て余しながら自嘲の笑みを洩らし、寝起きで気怠い体を布団から起こした。
「お早う御座います。……良く眠れましたか?」
「……ええ」
貴方の夢を見ていたの、なんて言える筈もなくて胸に仕舞い込んだ。きゅう、と飲み込んだ言葉がひどく肺を締め付ける。
そんなこと言ったところで、貴方を苦しめる枷にしかならない。私が何を言ったって決して彼の心を揺るがすことは無いのだ。
そう、″命令″以外は。
「朝餉の支度が出来ております。お着替えが済み次第、女中に此方まで運びさせますので」
「有り難う、…申」
私は彼の名前を呼ぶことすら赦されない。彼にとって私は守るべき対象であり、私も彼を支配する君主の立場なのだから。
本来彼が仕えているのは私の幼馴染みであって、本当は私など二の次だ。獣基である彼らの初代が忠誠を誓った主の大事な姉姫だから、その生まれ変わりである私もついでに守っているだけ。
他にもう一つ守られている理由を後付けるとしたら、私の血は宿敵である鬼にとって極上なもの故、非常に狙われやすいという事。
攫われたら最後、私は鬼に喰われ、鬼は私の血でさらに力を弥増し、唯一無二の君主である桃太郎を脅かし兼ねないからだ。
理由なんて所詮そんなものでしか無い。
姫ではない私自身を見てくれる者は、幼馴染みを抜いて誰一人として居なかった。
────不毛だと分かっているのに、私はそれでも彼に惹かれてしまった。
温もりが、聲が、穏やかな雰囲気が。
彼の総てが私を魅了する。
申と居るといつも温かくて、嬉しくて。笑う回数も格段に増えたと我ながら思う。しかし現実は、いつまでも甘い夢を見させてはくれなかったのだ。
時間制限。
鬼に施された呪いの正体が分からない以上、自分の身にいったい何が起こるのか。そして最後はどうなってしまうのか。己の行く末のことだ、気にならないわけが無かった。
もし、幼馴染みのように寿命に関わるような呪いだったら。きっと申とは二度と会えない。
今の″私″は永久に眠り、彼ら獣基は次の姫が産まれるのを待つことになる。
(───私じゃない誰かを、彼が守るの?)
狂おしい想いに、胸が張り裂けそうだった。でも、それ以上は望まない。望んでは、…いけないのだと、十二分に思い知った。
溢れそうになる涙をぐっと堪えて、入ってきた申に向き合う。彼は私の取り繕うような様子を訝し気に窺っていたが、気付かれる前ににこりと微笑って着替える為に立っていた腰を下ろした。
「! 申、その手は……」
「大したものでは御座いません。姫がご心配に及ぶ程では…」
「心配くらい……させて頂戴。こんなに血が滲んでいるのよ?」
咄嗟に腕を隠そうとした相手の手首を掴んで、やんわりと振り解こうとされても頑なに離そうとはせず眉根を寄せる。
右手に巻かれていた包帯には、薄っすらと血が滲み始めていた。また無茶をしたのだろう。昨日は私のところには訪れず、幼馴染みの元に護衛へ行っていた筈だから……。
「……襲撃されたのね」
「……」
「沈黙は肯定。そう見做すわよ。異存は?」
「……ありません」
溜息を吐いた。彼は目に見えて分かるほど落ち込んでいる。
……私に気付かれたからだろうか。いくら包帯の上から手袋をしていたって、私は血の匂いには敏感だと知っているだろうに。
「ごめんなさい」
そう一言告げて、手袋を外す。貴方の意地と沽券を守る為にそっと目を瞑るなんて事、私には出来そうに無い。
その際申は大きく慌てていたが、私が一度睨めつけると大人しくなった。汚れた包帯を解いて、傷口が露わになる。
刹那、瞳を細めた。
「刀傷…、鬼に?」
「…左様で御座います」
「……そう」
いよいよ尻尾を出してきたことに、私は緊張で己の身が強張るのを感じた。
刻は近い。
その前に、きっと彼ら鬼が私に接触しようと近付いてくる可能性も否定出来ない。申が近頃主人よりも私のお守りを優先させるのはそういうことかと、思い至った結論にただ嘲った。
優先? 違うな。一時的なものに過ぎない。
ならば今回の襲撃も、恐らくこちらの内情を探りに来た鬼に依るものだろう。申の手首から手の甲の方に持つ手を滑らし、緩慢と顔を近付ける。
彼は当然身じろいだ。
私は構わず離さなかった。
──赤が滲むそこに、小さく口付ける。
「………姫っっ!!」
お止めください、と申は鳴いた。でも私はやめなかった。貴方に″私″の言の葉が届かないのなら、私にだって貴方の言葉は届かない。少なくとも今は。聞いてなんかあげない。
私の唇に付いた血は甘美で、そして、何故か酷く冷たかった。
冷え切っているのは私の心か。或いは──彼の心の温度か。
これは故意に含ませた、狂気染みて報われないひとつの″戀″の物語。
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