沛然と降りしきる雨音が窓を叩く。
 こんな夜はヴァントナームで過ごした事件前日の一晩を彷彿とさせる。
 あの日も今のように厚い雨雲が月を隠し、慣れない場所を駆けずり回って疲れ切った身とほんの僅かな不安を宿す心に暗影を差した。
 忘れもしない、能力者が所持していたダガーが躯を突き抜けた時の迸る猛烈な痛み。目を綴じると今もまだあの時の光景が目蓋の裏に蘇ってくる様で、いやに騒ぐ胸を抑え、名前は傷口に障らない程度に控えめに寝返りを打った。
(……寝れない)
 瞑目してひたすら待ち続けていても一向に眠気はやって来ず、徒労に時間だけが過ぎてゆく。
 仰向けになって眠りたいのに眠れないというもどかしいジレンマに苛まれながら、やがて名前は仕方無しにと半身を起こして食堂へ向かった。


 ──と、わざわざ食堂に足を運んだものの、冷蔵庫を漁ってまで何かを作る気力もない。
 これといった理由もなく動き回るくらいなら黙って安静に努めていろと、かの先生に口を酸っぱくして言われたが、気分転換も大事なんだとその場は上手く誤魔化し難を逃れたのを思い出してはクスリと笑う。
 数日とはいえ殆どを寝台の上で過ごし鈍った体を大きく伸ばして、名前は片隅に設置されていたソファーの上に丸く横たわった。
 ……物音一つしない、当然だ。
 こんな夜も深まった時分に食堂に留まっている影など自分のものしか無いのだから。
 思えばこんな風に独りきりになる機会というのは、最近では滅多に無かった気がする。
 艇の中ならば羊なり闘員なり必ず誰かが近くにいたし、もし隣に居なかったとしても何かしらの物音が名前に安心感を与えていた。

 でも今は、ひとりぼっち。
 耳が痛くなる程の静謐に包まれた空間がなんだか息苦しくて、抱えた膝をより一層ぎゅっと強く抱き込んだ。貳號艇の皆が恋しいと、会えない仲間を想って目蓋を下ろす。
 優しくゆっくりと微睡んでいく意識。しかし夢の中に堕ちようとした名前を現実に引き戻したのは、水を打つような芯のある透明な声だった。

「寝れねーの?」
「……花礫くん……」
「…ちょっとそこで待ってな」

 おもむろに顔を上げた名前の表情を見るなり険しく柳眉を顰めた花礫は、食堂の奥のキッチンへ消えていった。彼の行動に小首を傾げつつ大人しく待っていると、湯気の立つカップを二つ手にして戻ってくる。
 ぶっきらぼうに一つ手渡され、中身を覗いてみると白い飲み物が並々と注がれていて、芳ばしく香るそれはホットミルクであろう事が分かった。
 ムスッとした仏頂面がホットミルクを咀嚼する絵面がなんともミスマッチで、名前は思わず頬を弛ませてからからと笑っていた。何笑ってんだよ、米神に青筋を浮かべ花礫が怒る。
 彼のトレードマークでもあるゴーグルが外された黒髪はあちこち外に跳ねていて、珍しく無防備にも見えるその姿がまた殊更に名前の笑いを誘った。

「花礫くんこそさっきまで眠ってたんじゃないの?」
「湿気で部屋が蒸し暑くて嫌でも目が醒めたんだよ」
「ふふ、そんな暑いのにホットミルク作ってくれたんだ?」
「…お前、前好きだって言ってたろ」
「………前、か……」

 花礫が何気なく発した言葉に覚えがない名前の声音は微かに沈み、ハッとした少年は己の失言に臍を噛んだ。
 花礫が思い出したのは、まだ自分が彼女に対して良い感情を抱いていなかった頃に本人から直接聞かされた話の断片だった。聞く耳を持たず受け流していた取り留めのない与太話。それは名前の好きなものや嫌いなもの、趣味から特技に到るまで。
 眠れない夜はいつもホットミルクを飲んでから床に就くのだと言っていたことをふと記憶の糸から手繰り寄せて作ってみたは良いものの、うっかりと洩らしてしまった不用意な発言に二人の間には微妙な空気が漂った。
 こんな筈じゃない、そんな顔が見たくてミルクを温めた訳じゃないのに。

 なんて話題を変えようか。寝起きの頭をフル回転させて言葉を紡ごうとするも声にはならず、腕時計の秒針が刻む渇いた音が食堂に木霊する。
 程なくして名前が花礫の名を呼んだ。
 やり場のない気持ちをはぐらかす為にホットミルクを嚥下していた少年は、されど目線はしっかりと彼女に向け、強い眼差しが自分を射抜くのを全身で感じながら彼女もまた続きを滔々と話し始めた。

「──私たちは、どんな関係だったの?」

 意表を衝く問いに、花礫はカップから口を離し息を飲んだ。
 あれだけ視線を交わす事さえ躊躇っていた彼女が、今は真っ直ぐに自分を見据えている。
 嘘偽りなく、ただ真実が知りたい。
 瞳の奥はそう物語っていた。
 まるで蜘蛛の糸に絡め捕られたよう。錯綜する感情に自嘲を落としながら、依然として答えを待っている名前の顔を見つめ返す。
 途徹もなく重い石を喉から吐き出すみたいだ。

「……名前なんて、ない」
「…」
「ダチでも家族でも、況してや恋人なんかでもねー。お前にとって俺は保護対象で、俺にとってお前は世話係。それ以上でも、以下でもない」

 とんだ法螺吹きだ。
 それだけの関係で今更自分がどうこう満足出来るわけでもないというのに、淡々と発した言葉は花礫の首を真綿で絞めるかのように戒める。
 守る側と、守られる側。今まで花礫の中で最大の枷となっていた二人の立場。
 途端に苦虫を噛み潰したような面持ちが拡がる花礫に、けど彼の葛藤など知る由もない名前はそっか、と静かに瞳を伏せた。

「けど俺は、このままで居る気なんか更々ねーから」
「へ?」
「腹据えとけってコト」

 覚悟しな、そう指を差して自信ありげに口角を吊り上げた少年の意図は掴めない。しかし名前の頬を忽ち赤く染めるには充分過ぎる威力だった。彼女のホットミルクを持つ手が激しく動揺を顕わにする。

「どういう意味?」

 戦慄く唇で困惑気味に疑問を口にすれば返ってくるのは「さぁ?」という曖昧な答え。
 花礫はそのまま既に温くなったホットミルクを一気に呷り、ごちそうさん、と空になったカップをテーブルに置いて欠伸を一つ落とした。名前は心臓が皮膚を突き破って今にも出てきそうな程狼狽しているというのに、なんともまあ呑気なものだ。
 一拍置いて部屋に戻るわ、と踵を返した花礫に、名前は慌てて声を掛けた。

「ホットミルク、作ってくれてありがとう」

 顔色を窺いながらもそう恐る恐る告げれば、花礫の表情に浮かべられた柔らかい笑みに再び鼓動は高鳴った。

「おやすみ」
「……おやすみ、花礫くん」

 さりげない優しさに、温かみをもった笑顔に思椎が奪われる。
 ──ねぇ神様、
 この胸の苦しみは、なんて名前を付ければいいのでしょうか
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