間に合え、間に合え間に合え間に合え間に合え間に合え間に合え!!!

 がむしゃらに、有りっ丈の力を最大限に振り絞って走った。
 足が擦り切れて傷口があげる悲鳴も、酸素が足りなくて締め付けられる肺も、憤りに赤く染まる瞼の裏も全部無視して。


 突然のことだった。
 京の南の方角から火の手が上がっている。
 邸の静寂を掻い潜って聞こえてきた喧騒から紛れ込んだのは、火事の報せだった。多くの野次馬が屋内から通りに出て、南の空を轟々と赤く焦がす炎を見ては悲鳴を上げる。主人の側に仕えていた私にとってそれは他人事でしかなかった。
 我が君が所有するこの家から火元の出処は遠く離れている。危険が及ぶこともないだろう、と。
 もともと不逞浪士が多く彷徨うこの京では不審火が相次ぐなどそう珍しいことでも無い。
 ただ今回は規模が大きい、それだけの事だろう。
 そう悠長に構えていた。眉根を寄せた主人の一言を聞くまでは。

「………なあ。南は、神楽の邸がある方角じゃないか……?」

 杞憂で済んでほしかった。無用の心配だと、誰かに一蹴してほしかった。
 しかし一縷の望みも突き放され、代わりに突き付けられたのは目を逸らしたい現実。
 窓から見た火の元は、確かによく自分が足を運ぶ邸の直ぐ近くだった。──否、ちょっとやそっと近いなんてものじゃない。

 ようやく気付いた時には、地を蹴っていた。
 主人の声も振り払い、集る人の群れを押し退け、奈落の中でもがくような感覚を味わいながら、一心不乱に砂を踏み締めた。
 生きた心地がしない、というのはこういうことなんだろうか。
 陸に上げられた魚はこんな風に息苦しいのか、酸素を求めて必死に呼吸を繰り返しても少量しか喉を通らない。
 ただ前に進むことしか頭に無いこの思考回路では、痛覚も、理性も、何ひとつ申に残っていやしなかった。

(もっと速く動けよ、早く、早く早く早く!!)
 殺気立った眼差しで猛々しく燃え上がる炎を睨み付けても止むことはなく、徐々に縮まる邸までの距離。周りの人間が制止する声にも耳を貸さず崩壊を始める邸内に飛び込み、視界を埋める赤の中、懸命に目を凝らした。
 最後に見た彼女の姿は床の上だった。あんな弱った身の上一つでこの火の手を躱して脱出出来たとはとても思えない。
 落ちてくる屋根を退けて、されども中々見つからない歯痒さを奥歯で噛み殺す。
 パチパチと火の粉が鳴らす音に掻き消されないよう、申は高く声を張り上げた。
 この声がどうか、彼女に届きますように。

「姫! ──姫君!!」

 しかし返ってくるのは炎が爆ぜる乾いた音だけ。時間が経つにつれ次第に屋根が崩れる間隔も短くなっている。長くは保たない。
 手遅れかもしれないなんて考えたくなかった。考えてはいけなかった。あの笑顔を失ったかもしれないなんて。
 もう暫くは見れていないけど、けれど。

 花開くように美しく控えめに笑うあの瞳を、どうして忘れられようか。

 もう一度申は高く吠えた。何度も何度も、声が嗄れるくらいに。
 すると、奥の間から弱々しく自分の名を呼ぶ声が聞こえた。どんな時でも、彼女の声は己の耳に浸透して心を揺るがす。

「────神楽姫!!」

 だから、血塗れの姿で横たわっている彼女を見つけた時は目を疑った。
(怪我をしているのか……? っどこを! いったい誰が!)
 だが彼女の体には怪我どころか擦り傷の一つも見当たらない。ならばこの血は……?
 浮き彫りになる矛盾と猜疑に、面妖に眉を顰めれば、神楽は端正な面持ちに悲愴を滲ませながらも息も絶え絶えに微笑った。
 違う、そんな顔が見たいんじゃないのに。

 ぬちゃり。やがて手についた血は彼女のものではなく、他者の返り血だという事に気が付いた。よく見れば辺りには肉塊が散らばっていて、夥しい量の血痕が畳に染み付いている。
 刀でさえこんな凄絶な、残虐な殺し方など──恐る恐る腕の中の存在に視線を落とす。
 ふと重々しく、彼女が口を開いた。

「申……、この前、花菱草の話をした事があったよね…覚えて、くれてた……?」
「ええ、覚えてます! 忘れる筈が、っ、ありませんから」

 忘れるわけがないだろう。貴女と交わした言葉一つ一つ、大切に胸に閉まっているのに。
 あんなに見たかった柔らかい笑顔が涙で歪む。
 ねえ、どうして今微笑むの。
 貴女は今何を思っているの。ねえ。

「花菱草の花言葉、ね……実はあれ以外にもう一つ在るんだ…」
「……?」
「──私の願いを受け入れて……どうか、最期の、希望を……」

 貴方は受け入れてくれる……?
 大きな石を口から吐き出すように囁かれた言葉は、私にとって残酷なものだった。
 最期だなんて赦さない。
 どんなに私が足掻こうと迫る時限に、なりふり構わず抗ってみせる。心の中で葛藤して、嫌だと親に縋る子供のように反発して。

 いやだ、おいていかないで
 いやだ、そんなのいやだよ

 この眸から溢れ出る涙は彼女には見えない。

 震える手に力を込めて彼女に悟られないように戦慄く唇を血が滲むまで噛んで、次の言葉を紡ぐ行動を拒む喉に鞭打って。
 意思とは反し私は、

「……っ、承知、致しました……」

 肯いた。
 最期の最後まで、彼女に従順な自分のままで。我欲を貫くことは無く、″命を聞け″と己の血がこの身を動かす。
 そして彼女は最期の希望を申に託し、「大好きよ」。そう告げて短い生涯を閉じた。

(言い逃げなんてますます狡い方だ、貴女は。)
 亡骸を抱き締めて申は泣いた、哭いた。

 私もあいしていた、今でもあいしている。
 けれど想いを告げたかった君はもうここにはいない、どこにもいない。
 また幾百年越しの隠れんぼか? 鬼ごっこか? それもいい。必ず君との約束は果たすから。
 だから。

「どうかわすれないで、」
 貴女を愛した浅はかな男が居たということを。

 だから、そちらでまっていて
 私もすぐにまた、あなたの名を呼ぶから。

 愛し彼女が遺した希望は、数百年後に、また新たな形で受け継がれるのです。
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