おかえりメェ、ともう随分長い間聞いていなかったような挨拶を受けて、漸く心地好い安らぎを得た気がした。

 貳號艇の転送ポートに花礫とともに降り立った名前は、未だ浮遊する体を地に付けようと彼から差し伸べられた手に己のそれを重ねて踵を下ろした。
 出迎えてくれた羊に「ただいま」と微笑み、親しんだ空気を胸一杯に吸って深呼吸する。
 たかが一、二週間離れてたくらいで大袈裟だろと花礫は気怠げに言うが、名前がこんなに長く艇を空けていたのは初めての経験だった。
 突っ慳貪とした言い草に頬を僅かに膨らませ顔を逸らすと、そっと力加減をして引かれる腕。そういえばまだ手を繋いだままだったと名前が丸い瞳を更に大きくすれば、「何だよ」と花礫が訝しげに眉を寄せた。

「一人で歩けるよ?」
「まだフラつくクセによく言……」
「名前ーっ!!」

 何者かによって遮られた会話に花礫がチッと舌を打つ。
 駆けてきた勢いを殺さずに抱き付いてきた人物に名前は踏鞴を踏んだが倒れはせず、視界を掠めた白い髪の持ち主が分かり次第たちまち破顔した。
 无くん! ぎゅっと天真爛漫の幼さを残した少年の背中に腕を回す。やはり名前が記憶を失くしたのは花礫に関することだけのようだった。そのことに多少なりとも花礫はムッと顔を顰めつつ、しかし名前の名を呼んだ男を見つけては警戒した面持ちで身構える。
 長身の男は安堵した表情でほっと息を吐く少女の傍らで、ふるふると目に大粒の涙を堪えて小刻みに震えていた。
 …飛び付いてくるまで残り数秒といったところか。心密かにカウントダウンを開始し、今にも動き出しそうなヤツを捉えて神経を尖らせる。

 三、二、一。
 ゼロ、と花礫が舌の上で数字を転がした途端、飼い主を見つけた犬の如く全速力で駆け寄ってきた男の尻目掛けて華麗な脚技を繰り出した。
 木霊したバチィン!! とある意味小気味良い音が和やかな雰囲気を一掃する。
 尻を抱えて悶絶する男の格好は滑稽でしかなく、花礫はしてやったりと鼻を鳴らした。

「いったぁぁあー…!!」
「見るな触るな近寄るな」
「ヒドッ、何で无ちゃんは良くて俺はダメなの!?」
「无とオマエじゃそもそもガタイが違ェだろうが! こいつまだ完治したワケじゃねーんだからちょっとは考えろバカ」
「あ……名前ごめんね、大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。花礫くんもありがとうね、與儀にまで突進されてたら私絶対屍と化してた」
「…別に、」

 また倒れられたら手間が掛かるから止めただけだ。
 言ってそっぽを向いた少年を見て、名前は依然と自分に抱き付く无の背を撫でながらクスリと笑みを零した。二人を纏う空気が変化しているのを敏感に感じ取ったツクモは驚きつつも、事態が思ったよりも良い方向へ流れていることに胸を撫で下ろす。
 未だ涙目で尻を擦る與儀を宥めた後、ツクモは引っ付き虫と化した无ごと名前を抱き締め、無事で良かったと掛け替えない仲間の帰還に喜びを示した。その光景を取り残されて眺めていた與儀がぽつりと一言。

「花礫くん、」
「あ?」
「俺も混ざっちゃ」
「ダメに決まってんだろ」

 願いは儚くも一蹴されたが。
 「何で俺だけ……」床にのの字を書いて落ち込む男に面倒臭いと言わんばかりに溜息を吐く。コレをどうにかしろと掃除していた羊からの視線が突き刺さるが知らんこっちゃない、花礫は嬉々として満面の笑顔を広げる名前を一瞥した。
 名前に言った理由などほんの建前。
 與儀を止めた本当の真実は単純明快で、自分がただ彼女がこの男に抱き寄せられる姿を見るのは面白くなかっただけである。
 それが與儀であるならば尚更腹立つ、理不尽にも剥き出しにされた独占欲に当てられた青年はまさに知らぬが仏だった。
 するとあらかた名前と話したいことは終えたのだろうか、ツクモが何気なしに壁に寄りかかっていた花礫に近付いてきた。
 少女は彼の隣に同じようにして壁に凭れ掛かり、和気藹々と盛り上がる三人を見据えて花開くみたいにフワッと笑う。

「……なに笑ってんだよ」
「やっぱり名前がいると賑やかで楽しいなって」
「口だけは良く回るからな、アイツ」
「花礫君も自分の想いに気付けたみたいでよかった」
「…るっせ」

 決まりが悪くなって穏やかに笑うツクモから顔を背ける。
 花礫が名前に抱く感情に気付いたのは、ツクモの核心を衝く言葉が引き金となった。
 ──あの子のことが好きなんじゃないの?
 私には、どうしても名前のことを意識してるようにしか見えないけれど。
 物静かに見解を述べたツクモに有り得ねぇ、と吐き捨てた。けれどいつまでも自分を欺くことは出来なくて、名前に会えない日数が重なれば重なっていくほど募る苛立ち、しかも彼女が自身に纏わりついていた時よりもその波は激しく大きかった。

(早く戻ってこいよ、バカ女)
 そしたらきっとこの違和感も無くなるだろうから。でも、久し振りに見た彼女は己の血に濡れて変わり果てていた。

「花礫君、あの子のこと、もう傷付けないでね。泣かせないでね、一人に、しないでね。泣かせたりなんかしたら私、花礫君でも容赦しないから」
「…同じようなことイヴァにも言われたんだけど」
「みんな名前が大事だから言うのよ」
「だろうな」

(…ったく、アイツ泣かせたら後がこえー)
 恐らく自分は生きていない。ゾッとする想像に頬を引き攣らせ苦々しい思いが胸を支配する。
 女性陣がおっかなくて迂闊に手も出せない。思わず失笑を落としながら、花礫は壁に寄りかかった状態のまま腕を組んで瞳を綴じた。

「……花礫、なんだか嬉しそう」
「え?」
「あ、ホントだ。珍しく表情が柔らかいっていうか」

 无と與儀の言葉を耳にし、名前はツクモの隣に並ぶ花礫を見遣った。
 確かに、いつも目にする無愛想な仏頂面とは打って変わり穏やかな顔付きをしていた。肩の力を抜き、ゆっくり寛いでいるようにも見える。
(……ツクモが隣にいるから?)
 「きっと名前が帰ってきたからようやく安心したんだねー」なんて與儀の言葉は固まってしまった彼女の耳朶には届かず、緩やかに流れる二人の雰囲気に心臓を鷲掴みにされたようだった。
 なんて、お似合いなのだろう。
 それ以上見ていられなくて、無意識に顔を背けた。意ともせず震える唇を噛み、湧き上がる名前の知らない感情に蓋をする。
 天岩戸を開けてしまったら最後、もう戻れない。

 突然黙りこみ様子がおかしくなった名前を見て无と與儀が不思議に顔を見合わせ、ふいに與儀が名前の肩に触れようとした、その時。

 ────目……な…だよ

 頑なに綴じた目蓋に浮き彫りになった一つの情景。冷め切った視線、振り払われた手のひら、離れていく足音、吐き捨てられた言の葉。
 その声の主、は。

「っ、名前!!」
「!?」

 无が叫ぶように名前の名を呼んでハッと意識を外していた花礫が顔を上げると、先程まで屈託なく笑っていた彼女が膝を折って頭を抱えていた。
 弾かれたように壁から離れて、ツクモと共に顔を覗き込む。
 大丈夫か、そう口にして伸ばした指先は、容易く名前自身の手によって払われた。
 柄にもなく傷付いて、だけど次第に顔を上げた彼女の表情を目の当たりにして言葉を失って。
(なんで、お前が泣きそうなんだよ)
 透明な瞳に涙が滲んでいるのを見て、口を噤んだ。ばつが悪そうに花礫から逸らされた視線。緩慢と呼吸を繰り返して、名前はやがて無理に笑顔を繕った。

「だい…じょぶ、だから、少し休めば、治る、から」
「でも……」
「大丈夫だよ、ツクモ」
「……来い」
「花礫くん?」

 そんなに真っ青なカオして、なにほざいてんだ。

 力無く床に座り込む名前の腕を強引に引き寄せて、戸惑いながら自分の名前を呼ぶ與儀の声を振り切って狼狽える名前を連れ足早に歩き始めた。
 付いて来ようとする二人を制すツクモの声が聞こえる、その気遣いが今は有り難かった。

 程なくして辿り着いた名前の部屋に入り、息を切らす彼女の肩を寝台に突き飛ばす。皺一つなかったシーツは負荷が掛かったことでくしゃくしゃに歪み、ギシッとスプリングが軋む音が響いた。
 予想だにしていなかった行動に一驚した名前は急いで体を起こすものの、真上から注がれる厳しい視線に身を竦める。
 まるで蛇に睨まれた蛙のように金縛りにあったみたいだ。抵抗することは一切許さないと黒曜石の奥に鈍く光る瞳孔がそう自分を牽制していた。
 しかしそんな殺伐とした空気も束の間で、花礫はやむを得ないとばかりに嘆息した。すっかり脅えて自身の顔色を窺う名前に、「悪かった」と謝りながら艶やかな髪を撫でる。
 手を振り払われたことでつい頭に血が上ってしまった。反省すべき点は己にあると心中苦虫を噛み潰し、恐る恐る首を振った名前に心の底から安堵した。

「私こそ、手、払っちゃって…痛く、なかった?」
「あんなのちっとも痛い内に入んねーよ。……俺のことは良いから、もう寝ろ。疲れたんだろ」
「ん。ねぇ、花礫くん」
「なに?」
「……ちょっとだけでいいから、ここにいて」

 そう言って意識を闇に沈めた名前に額を抑えた。
 とんだ生殺しだ、こんなの。
 無防備な寝顔を見せる彼女に憂い気に肩を落とし、花礫はもうどうにでもなれと横たわる彼女の隣に寝そべった。自分ばかりが翻弄されて、振り回されている気がする。

(…お前も、こうだったのか?)
 近付いたと思ったら離れて、離れたと思ったらまたこうして近付いて。駆け引きは得意としていても、色恋沙汰に関しては普段通りの手法は通用しない。
 早く捕まえていないとまた逃げられそうで焦れて、けれど今度こそは傷付けないようにと名前のペースを尊重したい気持ちもあって。板挟みになっている自分にらしくもないと辟易する。
 でも、悪くない。弛む頬を隠すことなく、再び近付いた距離に満足げに名前の髪を指先で弄びつつ、花礫は舌舐めずりを一つ。
 さあ、どうやってこの阿呆面晒す女を捕らえてやろうか。

 愚鈍な眠り姫は気付かない。
 迫るケダモノが直ぐ側にいることに。
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