「ほんっっとにさぁ、良いご身分だよねぇ」
「……」
「緊急事態だったから浄化し忘れて? 僕がヴァントナームに再任務へ行ってる間にも名前はここで花礫君とイイ感じになってたみたいで? 一緒に仲良く手を繋ぎながら優雅にお昼寝? ふざけてるよねぇ」
「……」
「疲れて帰ってきたのに、この僕がわざわざ様子を見にきてあげれば二人して幸せそうに眠っちゃっててさぁ……もうどうしてやろうかと思ったよね」
「……」
「聞 い て る の ?」
「っっあいっだぁぁああ!! 聞いてます! 聞いてるからナチュラルに足の裏爪楊枝で突くのやめてえええええ」

 おかしい、私の幼馴染みがこんなにドエスなわけがない。

 堅い床に正座させられて早一時間。疾うに感覚も失い限界を越えて救いを乞う名前の足を、喰は膠もなくその辺にあった爪楊枝で突っついた。
 けんもほろろに扱われ、刺激を与えられたことで腰にまでくる痺れに悶絶する名前は床にのた打ち回り、断末魔にも等しい悲鳴を上げる。
 ざまぁみろ、口角を吊り上げた青年は実に愉しそうだった。


 事の始まりは彼女が正座を余儀無くさせられる一時間前までに遡る。
 促されるまま夢路を辿った名前が目を醒ましたとき部屋はもう既に薄暗く、真っ先に視界を埋めたのはすやすやと安らかな寝息をたてて眠る花礫の整った顔立ちだった。
 驚いて上半身を起こし唖然としていたのは束の間、グイッと寝ている筈の彼に手を引かれ再び寝台に横になる始末。さてどうしたものかと暴れる心臓を抑えつけてあれこれ思考を巡らせていると、ふいに名前の鼓膜を底冷えする声が強かに打った。
 ……言わずもがな喰である。
 この光景を見られたことと前回の嫌味のシャワーというトラウマから名前の顔は見る見るうちに血の気が失せ、壊れた発条仕掛けの人形のようにギギギ、と後ろを振り向く。そこには予想通りと言うべきか満面の笑みを湛えた、否、表面上笑ってはいるが笑っていない幼馴染みの姿があった。
 これが寝起きの頭が作り出す幻影だったら良かったのに。

 因みに隣で眠っていた花礫はいつの間にか目を醒ましたらしく、殺伐と漂い始めた空気をいち早く察して雲をかすみと逃げ去ったようだった。
 どうせなら私も連れて行ってくれればよかったのにあの薄情者!と内心悔しげに歯軋りする。

「っく、ぅう……! 喰、いくら私がマゾだからって耐えられる仕打ちと耐えられない仕打ちっていうか、許容範囲ってものがあるんだからね!!」
「ハ?」
「ごめんなさい私が悪かったです尻拭いさせてごめんなさい本当にありがとうございましたですからその鞭をどうぞお仕舞いになってください」

 プライドも何もかもかなぐり捨てて床に頭を擦り付けた。渾身の土下座である。
 渋々と鞭を懐に収めた青年を一瞥して名前はほっと胸を撫で下ろす。…彼女達の上下関係が垣間見えた瞬間だった。流石にこの年齢でSMプレイなんぞ経験したくない。
 はは、ワラエナイヨーと遠くを見据えながら渇いた笑みを零す名前を、我が物顔で寝台の上に腰を下ろしていた喰は依然と冷たい眼差しを向ける。例え怪我人であろうが何だろうが容赦はしない、爪楊枝片手に慈悲もなく再び項垂れる名前に正座を強要した。

「……で? 荷物はあらかた片付いたの?」
「寝ていて何もやってません」
「……………………」
「いだいだいだいだい!! せめて少しでも躊躇うとか情けを見せて!! あ、ちょっ、いたっ、やめっ、痛いですもう口答えしないから許してえええええ」
「最初からそうしてれば良いんだよ。ほら、僕も手伝ってあげるからさっさと動く」

 いい加減このくらいにしといてやるかと涙目の幼馴染みを嬲ることに飽きた喰がヤレヤレと寝台から立ち上がるが、床に座ったままの名前は微動だにしようとしない。
 俯いてしまっているから表情は前髪に隠れて見えない、怪訝に思った喰が緩慢と近付けば細々と震えていることに気付く。
 まさか無理させすぎたか?
 傷口が痛むのかと声を掛けて慎重に肩に触れようとした時、名前の一言によって伸ばした手は遮られた。

「喰、」
「何?」
「ピリピリとジンジンする方の痺れが両方来ていて立てません」
「…」

 ぷすり、二度目の断末魔が響いた。
 三度目は無い。いっそそのまま野垂れ死んでしまえと殺気が湧いた。
 ロクデナシ! 悪魔! と散々罵声を浴びせてくる名前に面倒臭くなって、そうだよ僕は鬼の化身なんだよと冗談で告げれば本気で信じたかのように青褪める顔色、本物の馬鹿だ。
 しかし直にそっか、だから鬼畜なんだね…!と感慨深げに呟いた彼女にイラッときて、頭に手刀をお見舞いしたのは言うまでもない。
 そんな取るに足らないやり取りが交わされ、漸く始まった名前の部屋の整理整頓。とは言えど任務に行く前にあらかじめ大抵の荷は片していたから殆ど手を付けることは無く、掃除だけで充分だろうと丹念に埃を払うことから始めた。
 濡れ雑巾で写真立てが並べられた棚の上を拭いて、細かい配線や物を退けて磨いていく。幾つも並んだ木製の写真立て達の中では女性陣とお茶会した時に撮った写真や與儀に悪戯が成功した時に撮った写真、无と羊が一緒に寝ている写真なんかもあって。
 その中から一つ、目に入った写真を手に取った。

「…………ねぇ、喰」
「んー? っていうか名前ちゃんと手動かしてよ」
「私って、花礫くんのことどう思ってたのかな」

 前触れもなく唐突に繰り出された話題に、喰は瞠目した。
 彼女が視線を落とす写真立ての中では、嫌そうに顔を顰める花礫と彼の腕を組んで屈託なく笑う名前の姿が映っていた。お世辞にも仲が良好だったとは窺えない、けれどそれでも画像の中の自分は笑っている。
 明らかに隣の少年は乗り気でなく、半ば無理矢理カメラに入れられたんだろう。嫌悪に染まる顔は、目線は外に向けられており、幸せそうに笑っているのは自分だけだった。
 ……これはどう見ても嫌われていたんじゃないだろうか、なら彼のあの優しさは? 所詮同情にしか過ぎなかったの?
 そこまで考えて、かぶりを振った。
 花礫は同情なんてするような人間じゃない、あの優しさは紛れもなく本当で、真実で。もやもやと渦巻く感情を振り払うように瞳を綴じた。

「ごめん、喰。私少し散歩してきてもいい? 飲み物何か持ってくるから」
「………良いよ、行っておいで。但しとびっきり美味しい紅茶お願い」
「りょーかい」

 さり気ない幼馴染みの気遣いに感謝して部屋を後にした。
 この馴れ親しんだ艇とももう直ぐお別れ。
 惜しむように進む足取りを緩め、名前はゆっくりと道なりを歩いた。

 ──あ、ここ懐かしいなぁ
 ふと視界を掠めた部屋に入るとそこは物置部屋と化していた。先程並んでいた写真立ての中にもあった、喰と共に與儀に仕掛けたドッキリ大作戦。
 幽霊やそういった類に弱い與儀を真夜中こっそり此処に呼び出し、色々な小細工を施して驚かせた。
 あの顔は傑作だったなぁ、恐怖で涙目になっていた長身の男を思い出してクスリと笑う。もちろん後にこってり平門に絞られたが。
 その後もたくさん思い出が溢れる場所を巡って万感に耽る。
 ツクモと裁縫の練習を重ねたテラス、イヴァと衣装の打ち合わせをした裏倉庫、无とお腹が減ったからと冷蔵庫を漁ったキッチン、過呼吸を起こして平門に助けられた曲がり角。
(……あれ?)
 そしてはた、と気付いた。

「…何で、私…過呼吸なんか起こしたんだっけ…」

 あの時はただ息が苦しくて、何も考えられなくて、でも無性に誰かに向けて助けを求めていた気がする。
 結果的にたまたま通りがかった平門に助けてもらったのだけれど、そういう事じゃなく、痛む胸を何とかしてほしかった。
 心に鉛を埋められたみたいで、酸素の薄い深海に溺れていく感覚に足を掬われて。
 誰かの、名を呼んだ。

 ────目障りなんだよ

 脳裏を過ぎった感情の無い声にひゅっと息を呑む。

 あ、れ、今のは。
(さっきまで側に居てくれた、彼の、)
 徐々に鮮明に浮かび上がってくる映像に呼吸が乱れはじめる。
 やだ、やめて。
 拒んだところで警鐘は高く鳴り響く。


 俺のことが好きって?
 どうせ顔だけだろ、
 俺のこと良く知りもしない癖に

 ホイホイ付き纏われてもメーワクなんだよ
 生憎、俺はお前のこと嫌いだから


「────もう金輪際、俺に関わんな」


 ……嗚呼もう、とっくに分かりきっていた、ことじゃないか。

 壁に力無くしな垂れかかって、ズルズルと床に座り込む。零れたのは自惚れて忘れていた自分に対しての嘲笑。あんなに流した涙は、やっぱり出なかった。

 ねえ、君から突き放しておいて
 最後にやさしさを残していくなんて、残酷過ぎるじゃないか

 離れたくない、そばにいたい
 もっと欲張ってもいいというのなら、然れど思い至った一縷の可能性に首を振った。
 あるわけがない、あってはいけない。
 望んではだめ、これ以上近付いたら、きっと本当に離れられなくなってしまう。

 私は弱虫だから、ある筈がないと分かっていても貪欲に僅かな希望に縋ってしまいたいの

(だからもう、終わりにしよう)
 泡沫の夢も、もうおしまい。
 童話のようにハッピーエンドとして幕を閉じることはなく、
 この想いも、深い深い海底に沈めてしまえばいい。

 そうして独り善がりの片思いショーは、閉幕を遂げる。




「────何だって?」
 後日、黒曜石の瞳を大きく見開く少年に告げられたのは、本日付で彼女が貳號艇から降りる、という一つの報せでした。
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