此処ならば、誰にも見つかることは無いと思った。
 白い花片が風に煽られて散っていく中、彼女は青い空を所々彩る雲を眺めていた。

 残り時間はあと、五分。来るタイムリミットが訪れれば、この長いようで短い片思いも終焉を告げ、蟠る想いも時を経て昇華される。
(直ぐにということは、無理だろうけど……)
 遅かれ早かれ、いずれ諦めなければならない時は来る。それが今だったというだけ。
 たまたま踏ん切りを着けるのにも良い機会を与えてくれたゲームを持ち出した少年に感謝の念を抱き、名前は左手首に装着した腕時計に視線を落とす。
 刻々と近付く、二分。

 もう無理だろう。花礫だって無謀じゃない、流石に見切りを付けただろう。
 微かに期待を灯らせていた自分に馬鹿だなと自嘲を零して、抱えていた膝を離し緩慢と重い腰を上げる。
 荷物はまた後日改めて取りに来ればいい、幾ら何でも棄てたりはしない筈だ。
 最後の一分。
 意を決して名前が踵を翻そうとした刹那、手首を物凄い力で引き寄せられた。

「………人に二度手間取らせやがって。見つけたぜ、バカ女」

 青天の霹靂、とはこういうことを言うのだろうか。直後茫然自失とする自分の身を包んだ温もりに、名前は思いがけず目頭が熱くなった。





 ──独りにしたく、なかったの。
 ヨタカくんを目の前で亡くして、ツバメちゃんも朔さんの許に行ってしまって、入院しているというお爺さんの入院費は輪が受け持つことになって。
 まるで、私には花礫くんの存在意義というものが悉く潰されていくように思えて。
 離れていても、家族を大切に思っているんだという事は一緒にカラスナへ渡った時に痛いほど伝わった。
 元々彼はお爺さんの入院費を稼ぐ為に危ないことに手を染めて、時折ああして故郷に戻ってはツバメちゃん達に内緒でお金を払っていたらしい。

 汚れている、なんて
 自分の身を危険に晒してまで大切な人を守ろうとする彼にどうして言えようか

 ヨタカくんを見殺しにした私たちは恨まれても仕方なかった。けれど花礫くんは責め、詰ることは絶対にしなかった。以降も辛さを表に露呈したりすることは微塵もなく、彼なりの意地なのか弱音を吐くこともしない。
 ただ、ただ、痛々しかった。
 同情などではなく、黙ってこの人のそばにいたいと思った。
 結局私の存在は不愉快で、花礫くんにとっては迷惑以外の何物にもならなかったけれど、でも、无くんや與儀たちと居る彼は心の底から楽しそうだから。
 私なんかが要らぬお節介を焼かなくても無用の心配だから。あとは目障りな邪魔者が消えれば、めでたしめでたし。

「………ぁ、れ……」
 ぽたり、涙が溢れた。

 なんで、ねぇなんで
 最近私涙もろ過ぎじゃない?ばっかだなぁ、泣いたってどうにもならないのに。

 ……どうにも、ならないのに

 奇跡なんて起きる筈が無い。
 膝に顔を埋めて、流れる滴はそのままに声を押し殺して笑った。
 ───好きだった、本当に好きだったの。
 花礫くんのふとした時に垣間見えるやさしさも、書物を読んでいる時の真剣な横顔も、恥ずかしい時に照れ隠しで目線を横にずらす仕草とかも、全部、何もかもいとおしかった。
 だけど私が近付くと笑顔は曇って、いいえ、曇るどころか冷たく凍えて、あの黒曜石の裏に形を潜めてしまうの。
 心臓に釘が打たれたかのように痛くて、苦しくて、彼の側に束の間でも寄り添えたのは幸せだったけど、必ずしも嬉しいことばかりでは無かった。
 それも今となっては、良い思い出として風化する予定なのだけれど。

 白い梔子の葉が視界の端で揺れる。
 私が居なくなった後のこの花の世話は喰に任せてある。彼なら植物は趣味で栽培しているくらいだし問題ないだろう。
 大きく空に向かって伸びをし、針を刻む時計を一瞥する。
(タイムリミット、だね)
 彼が以前此処で自分と話したことがあるなんて、記憶に無いだろうと確信していた。
 だから敢えて此処を選んだ。見つからないように、無事に花礫から逃れられるように。そしたら、ようやく自分も諦めて片を付けられるから。

 ────そう、思ったのに。

 目の前の薄い胸板から聞こえてくる鼓動は、誰のもの?まるで縋るようにきつく抱き締めてくる腕は小刻みに震えていて、耳元で繰り返される呼吸音は酷く荒れていた。
(ねえ、まさか)
 今までずっと、こんなに息を切らすまで探してくれていたの?

 未だかつて見たことが無いほど汗に塗れ、呼吸を乱し、普段は冷静沈着な彼らしくもなく余裕も何もかなぐり捨てた表情。
 勝利宣告を掲げた時はあんなに憎たらしい顔して笑っていたというのに、今は捨てられた子犬のように不安の色が隠せていなかった。
 依然として呆気に取られている名前を傍らに程なくして息を整えた頃、満を持して花礫が重い口を開く。

「っオマエ、ほんっと腹立つ」
「………ごめん……」
「毎日毎日鬱陶しいほど俺にくっつき回っといて、居なくなったと思ったら重傷で帰ってくるわ人の顔見るなり誰とか抜かすわ。何なの? 俺のことだけ忘れたとか? 俺の事が好きだったんじゃねえのかよフザけんな。好きならちゃんと覚えてろよ、忘れんなよ。勝手に───勝手に、全部無かったことにしようとしてんじゃねーよ」

 突き放すような刺々しい口振りとは裏腹に、名前を抱き締める腕は徐々に離さないと言わんばかりに力を帯びていった。顔を見られない為に後頭部に右手を添えて、己の胸板に彼女の顔を押し付ける。
 五月蝿く早鐘を鳴らす心臓の音が筒抜けだろうがどうでもいい。彼女が何処にも行かないなら、引き留められるなら。
 皮肉にも口では素直に伝えられそうにないから、せめてこの心臓から想いが伝われば。

 困惑する名前をただひたすら腕の中に閉じ込めて、次々と不満を口にしていく。

 なんだってこんな分かりづらい所に隠れてんだよ、
 もうちょっと探せばマシなトコあったろーが
 大体壱號艇に行くって何だよ突然過ぎんだろ
 まだケガだって完治してねークセに無理しようとしてんじゃねえバカ

 だから、(だから)


「……大人しく、ここに居ろよ」


 蚊の鳴くような声で小さく呟かれた言葉は、然れど至近距離に居た名前の耳朶にしかと届いた。
 腰と頭部に回された腕は走ってきた後だからか熱く火照りを持っていて、風に当たっていた自分の冷えた体とは正反対の温もりに発された言葉と相俟って殊更に胸を締め付ける。

 ──やだ、やだよ、ぬか喜びさせないで。
 もうこれ以上傷付くのは嫌なの、こわいの。
 どれだけ好きでも、結局私は我が身が可愛いから、傷付くことを畏れて二の足を踏む臆病者。
 そんな私に、今更どうしろというの。
 駄々を捏ねるように首を振った名前を見て花礫の眉根が一層歪む。

「やだ、……やだ、もう傷つきたくない、泣きたくない。こわい、こわいの。どんどん自分が自分じゃなくなってくようで、花礫くんと視線が合う度に体が意味もなく震えて、足が竦んでっ頭が、真っ白になる!」
「、お前、もしかして記憶が」
「金輪際近寄るなって言ったのは花礫くんのほうなのに、なんで今更構うの、っ引き止めるの!? いいじゃない、私が居なくなれば鬱陶しいなんて不快になることも無くなる! もっと花礫くんの時間だって増えて、沢山良いことがある! っだから、だからこの手を離して…はなしてよ……」
「……確かに何もかも今更だし、お前の気持ちも尤もだよ。散々離れろだの近寄んなだの突き放しておきながら、自分でも虫が良いって解ってる」
「っなら!」
「だけど!! その願いだけは聞けねー。聞きたくねえ」

 どうして、
 頼りなく紡がれた声は虚空に絶えた。

 花礫はそっと名前の痩躯を離し、真っ直ぐ自分を見据える瞳を見下ろす。交錯した彼女の目許は赤く腫れていて、かくれんぼの最中にも泣いたのだろう事を察し自然と面持ちも固く強張る。
 それを見て気まずそうに視線を逸らした名前は、こうなったら奥の手を使うしかないと、自分でも最後まで躊躇っていた苦渋の決断を下した。

「……それに、私はもう花礫くんなんて好きじゃないから」
「………ソレ、本当かよ」
「本当だよ。嘘偽りなく、今のが私のありのままの気持ち。だから離して、触らないで。花礫くんなんてだいきら────っ!!?」

 続く筈の言葉は、一切紡ぐことを赦されなかった。
 掠めるように奪われた唇。
 大嫌い、そう言おうとした言葉の鉾先は丸ごと花礫の咥内に飲み込まれた。

 重なった唇が惜しげに離れても何も考えられなくて固まる名前を、花礫は冷めた視線で冷たく射抜く。
 しかしその実黒曜石の奥底では、歴とした怒りが轟々と燃え盛っていた。


「この際お前が俺を好きでも嫌いでもどうでもいい。お前だって記憶を失う前はどんなに嫌われてようが避けられてようが構わず俺に付き纏ってたワケだし?」
「……な、」
「もう知らねー、なりふり構ってられっか。ツクモ達に牽制されて今度はあんま傷つけねえようにってお前のペース待ってやってたけど、そっちがその気なら俺も遠慮しねェ。今みたいに分かりやすい大ウソこいて逃げようとすんなら容赦なく紐で縛って、天井に吊し上げてでも逃がさねーし離さねー」
「……なっ、なっ!? それは流石に横暴過ぎやしませんか!」
「知らねえし聞かねえって言ったろーが。俺にこんなロクでもないモン気付かせた時点で運の尽きだと思いな」
「ロクでもないものって何!」
「テメェのことが好きだっつってんだよこの鈍感女ッ!!」

 半ば逆ギレのように告げられた想いに、名前はたちまち瞠目して硬直した。

 信じられないと言いたげに一度外した視線を花礫に戻せば、彼は耳まで真っ赤にしながらも再びぜぇぜぇと息を弾ませている。
 その後直ぐに見るなと言わんばかりにまた腕を引き寄せられ花礫の胸の中に収まった名前は、もう湧き上がる感情から目を背けることは出来なかった。

 ──望んでも、いいの?

 この物語の先を。
 しあわせな結末を。
 二人笑い合う未来を。

 それらの答えは、目の前の胸から聞こえてくる少し早い心音が肯定してくれた。


 瞳からこぼれた水は、もう哀しい色をしていなかった。自分を包む背中にそっと腕を回し、恋い焦がれた温もりに頬をすり寄せる。
 ぎゅっと強くなった力。
 重なる影は、ひとつ。

「……顔上げろ、」
「ん……」

 二度目に重ねられた唇は甘くなく、涙の所為でしょっぱかった。
 おもむろに離れた合間。
 囁かれた言葉は彼らしくて思わず笑ってしまったけれど、拗ねたように顔を顰めた花礫によって笑いさえも心地いい感触に奪い去られた。

 そんな間抜け面、ぜってぇ俺以外に晒すなよ──バカ女

 ロマンチックな言葉なんて要らない、この温もりひとつ在ればそれでいい。
 一筋縄ではいかない、決して甘くはない私たちの攻防戦。

 それはこれから先も、きっとずっと続いてく。
 白い梔子の花弁が、寄り添う二人を祝福するかのように宙に舞った。


シュガ
ーレスロマンチスト

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