ドクドクと全身を迸る脈動。
 間違いなくこの心臓は動いて呼吸をしているのに、こんなにも生きた心地がしないのは何故だろうか。と間近に迫る明眸を見ながら戦き仰け反る。
 高鳴る鼓動は極度の緊張からか、若しくは慄然とする程の強い眼差しを向けられていることに対してか。
 おそらくこの後自分を襲うであろうろくでもない予感に身の毛を弥立たせながら、名前は絶体絶命の窮地に立たされ血の気の失せた表情で固唾を飲んだ。


 事の次第は半日前。
 花礫とも無事心を通わせ貳號艇に残ることになった名前は、後日改めて謝罪と感謝の意を伝える為に自ら壱號艇へ少年を連れて赴いていた。最初は自分の問題だからと一人で行こうとした名前に、花礫は自分も行くと言って聞く耳を持たなかった。
 多分そのまま彼女が帰って来ないんじゃないかと懸念したのだろう、確かにその考えは強ち間違ってはいなかった。
 何故なら壱號艇に着いた途端、例の朔との恒例挨拶という名の三文芝居が繰り広げられたからである。

 キイチは始終呆れ顔、久し振りに二人の茶番を目にした花礫はというとやはりドン引きしていた。
 そこまではまだ良い、極めつけは帰り際の朔の行動が今回の一連の発端だった。名前が花礫と繋いでいた反対側の手を前触れもなく引いて、不意打ちに彼女の頬へ軽いキスを落としたのだ。
 絶句する少年に向かってニヤリとほくそ笑んだ朔は確実に愉快犯だろう。しかしどれだけ頭では解っていても煽られてしまうのがこの難解繁雑な独占欲というものである。

 貳號艇に着くなり花礫は出迎えてくれた羊には目もくれず、素っ気なく「ただいま」と声紋認識を通過し一直線に名前の部屋へ足を向けた。
 戸惑う彼女など知らん振り、今はただ何も言わず黙って足を動かせとばかりに黒いオーラ纏う背中が語っている。
 ああ、詰んだな。
 数時間後、果たして自分は生きているだろうか。半ば引きずられるようにして懸命に少年の歩幅に合わせていた名前は、自分の部屋に入るだけなのにまなじりを決して足を踏み入れたという。
 そしていつかと同じく寝台の上に突き飛ばされ、背中を壁に押し付けられて現在の八方塞がりの状態に陥っているという経緯に至る訳だ。

「あ、あのぅ……花礫くん?」
「なんだよ」
「(うわあ超不機嫌!)えーと、デスネ……そろそろ手首が痛いんだけど」

 いつもの仏頂面が更に険しさを増して物騒になっている。まるで豹に睨めつけられた子鹿のようだ。
 ジリジリと忍び寄る危機感とは裏腹に冷静に自分の置かれた立場を比喩づければ、目と鼻の先に差し迫った眦が一層厳しく細められる。けれど痛いと訴えた言葉は聞き届けられたのか、思ったよりもあっさりと手首は解放された。
 胸を撫で下ろしたのも束の間、安堵で一度瞳を伏せた名前を次いで襲ったのは、頬への摩擦が施す痛みだった。
 力強く一切の手加減なしに柔らかい頬を擦る手付きは荒々しい。あたかも朔の唇の感触を忘れさせんとするばかりに躊躇いなく行われる行為は、まだ花礫との触れ合いに馴れない名前の心を容易く擽った。

 もしかして妬いてくれたの?
 嬉しくてつい口から出てしまった核心を衝く言葉に花礫の手がピタリと止まる。

 たちまち淡く色付く彼のほっぺた。決まりが悪いと直ぐに逸らされる目線。
 今まで近くで見てきたんだ、花礫の癖は熟知している名前はいち早くその行動が照れ隠しだと察してクスクスと笑った。

「……笑ってんじゃねえよ」
「ごめんごめん。だって可愛いんだもん」
「ヤメロ男に可愛いとか薄気味わりぃ」
「ごめんってば。ね、どうしたら許してくれるの?」

 時間を戻すことは出来ないし、朔からキスされた頬を削ぎ落とすなんて到底無理なこと。だから他の手段でなんとか今回のことは目を瞑ってもらおうと、名前は少し高い位置にある花礫の顔を見上げ取り引きを持ち出した。
 何でもしてあげるから許して、と。
 しかし思い至った結論は甘かったのだと身を持って知る事となる。直後「…何でも?」とニヤリ意地悪げに口角を吊り上げた少年に悪寒が走った。

「今更待ったは聞かないからな、自分の言った発言には責任持てよ?」

 正に今ストップと言おうとして口を開き掛けた名前を見越していたかのように、花礫が先手必勝と釘を差した。
 言質は取った、取消は不可能。
 舌舐めずりする目先の肉食獣に震える獲物は逃げ場が無い、どんな無理難題が突き付けられるのかと今のうちに臍を固めておく。

「──お前からキスしろ」
「はあああああ!?」
「何でもするって言ったよな?」

 とんでもない要求に目をかっ開いて声を張り上げた名前を、珍しく好青年らしい綺麗な微笑みを浮かべてニッコリ脅す…告げる花礫。だが名前は知っている。こんな風に花礫が笑う時は何か企んでいるに他ならないと。
 未だヒリヒリと摩擦熱を持つ頬を分かりやすく引き攣らせ、もう下がることは出来ないと知っていても少女は僅かでも距離を図ろうと仰け反った。
 その分近付く端正な顔立ち。
 腹を満たすには二兎も要らない、一兎で充分とばかりに腰が引けるターゲットに躙り寄る。攻防戦は今のところ少年の方が優位だった。

 早く。耳許で囁かれた低い声に身を震わせる。
 こんな至近距離で今にも触れそうな隙間にさえ心臓は皮膚を突き破って破裂しそうなくらい脈打っているというのに、目の前の花礫からは余裕しか見えず緊張している様子など欠片も垣間見せなかった。
(狡い、)
 自分の方が年上なのに、悠然と待ち構える少年にただ悔しさだけが降り積もった。
 だからほんの意趣返しのつもりで、その余裕綽々な表情を崩してやろうと思い切って整った唇に己のそれを重ねる。
 けれど直に羞恥の限界は訪れて、名前は慌てて唇を離し黒曜石の瞳から逃げるように目線を下ろした。

「……なに、それだけ?」
「な! それだけって!」
「こんなん其処らのガキでも出来るだろ。俺が言ってんのはそういうのじゃねーよ解ってるクセに」
「〜っ!! 花礫くんなんでそんな余裕あるの! 私の方が絶対歳も経験も上なのに!」
「……へえ? だったら尚更その経験の差っての見せてくれよ、オネーサン」

 ……まずい、墓穴を掘った。
 口を滑らせたと気付いた時には既に遅し、瞳の奥に密かに嫉妬の炎を堪えた花礫によって更に窮鼠に追い詰められた。
 進退ここに極まれり。後は花礫の望む通りに身を犠牲に差し出すしか為す術は無い。

 思考を巡らせる間も鋭く自らを射抜く視線に観念し、意を決して名前は再び唇を寄せた。高鳴る鼓動が鼓膜を打つ。
 ちゅ、と軽く触れるだけのソフトキス。
 然れどこれだけではまた駄目出しされるだけだと理解しているから、名前は閉じられた花礫の下唇を甘噛みし、やがて誘うように薄く開かれた咥内へ怖ず怖ずと舌を差し入れた。
 ビクともしない舌先を捉えて、チロチロと飴を転がすように舐める。それでもなお応えてはくれない。
 もう恥ずかしさも何もかなぐり捨てて自棄になった名前は、ぎゅっと頑なに目蓋を閉ざして花礫の咥内を弄った。

 依然と黒曜石の強い眼差しは刺さったまま。彼女のように閉じられることはなく、ひたすら視線で羞恥に揺れる名前を辱める。
 拙い動きはただ自分の雄を唆す要因にしかならない、一杯一杯な様子の彼女に優越感が胸を満たすのを感じながら、花礫は微動だにせず一方的な行為を受け入れていた。

「、ぷはっ、が、れきく……おねが……」
「お願いって何が? 俺にどうして欲しいわけ?」
「も……分かってるくせに…」
「分かんねーよ、ちゃんと口で言ってくんなきゃ。…ほら言えよ、俺を好きだって。もっと強請れよ、その口で」
「〜っ……すき、だいすき。すきだから、花礫く、はやく……っ」
「もう一度訊く。──名前、俺にどうして欲しい?」
「…っ、」

 キス、して。
 言うが早いか、虚空に消える筈だった温もりを請う言葉は丸ごと花礫の咥内に呑み込まれた。

 生理的に溜まっていた涙が頬を伝っていくのも構わず、名前は自分とは違う巧みな舌の動きに翻弄される。耳の輪郭を花礫の指がなぞる感触が酷く厭らしく感じて背筋を戦慄かせると、彼女の異変を察知した舌が殊更烈しく暴れ出した。
 眠る快楽を表に引きずり出して、ドロドロに溶けさせてやる。
 何度も唇をぶつけ合いながら不埒なことに思考を張り巡らせる少年に反し、ほぼ酸欠に近い名前はもう朦朧とした意識のまま繰り広げられる行為に付いていくのに精一杯だった。
 歯列を一つ一つ辿っていき、上顎を満遍なく舐められ、全てを貪り尽くす勢いで思惟も理性も奪い去っていく赤い唇。互いの唾液を交わし、飲ませられた液体は味など無い筈なのに途徹もなく甘く感じて、これは相当焼きが回ったなと名前は心中自嘲を落とした。
 二人は本能のまま、欲望に抗うことをせず鼻先までも擦り合わせて想いの丈をぶつけ合う。
 唇の端に舌先でノックして下唇に沿って這わし、反対の端までいったら上唇へ移動。次に名前も同じく真似て繰り返し、息も絶え絶えに触れ合いを離せばすかさず追いかけてくる唇を一度拒んだ。
 少年の顔が不機嫌に歪むが知ったこっちゃ無い。

「ま、って……息がもたない…!」
「鼻で呼吸しろよ、経験あるならやり方ぐらい知ってんだろ」
「っ、だって!! それどころじゃないんだよ! もう何か着いていくのにいっぱいいっぱいで、胸がこう、きゅうってなって苦しくて、息なんて二の次で、こんなの初めてのことで…! ってアレ?」
「……っ、おまえ、ほんっと……」

 無自覚のタチの悪さを花礫が再認識した瞬間だった。赤い顔を悟られないよう、二の句を告がせない内にもう一度唇を塞ぐ。
 顔を赤くして抵抗するその体躯を押さえつけて反論の意も何もかも喉の奥へ嚥下する。
 思ってもみない言葉に一本取られただなんて言ったら、きっと調子に乗って自分をからかおうと謀るだろうから死んでもこの女には教えてやらない。

(だってそれって、息も忘れるほど夢中になってたって事だろ?)
 甘い甘い蜜を吸いながら、花礫は内心舌を打つ。そして新たに思い付いた案に影でニタリとほくそ笑みながら、クタッと糸が切れたように自分に力無くしな垂れかかる彼女の耳許でこう囁いた。

「馴れないんなら馴れるまでひたすら練習すりゃいい。……だろ?」

 モチロン、ちゃあんと練習ではみっちり扱いてやるから。
 喜色満面の笑みで放たれた死刑宣告に、名前は今度こそサァッと青褪め気が遠くなるのを感じた。
 虎視眈々と狙う男、喰われまいと逃げる女。
 彼らの甘くも熾烈な争いは、一向に終わりが見えない。
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