カチ、カチ、カチ。
規則的に秒針が進む乾いた音が水を打ったような静けさを保つ室内に響く。
カチ、カチ、カチ。
両者互い一向に口を開こうとはせず、徒労に時間だけが過ぎていく。
カチ、カチ、カチ。
こうして二人が意味もなく手を拱いている間にも、別れの時は刻一刻と迫っていた。
僅か半日前までに遡る。
喩えるならば晴れのち大雨。
さっきまでは清々しい程の快晴だったのに、今では打って変わって其処だけざあざあと嘆きの雨が降りしきっているかのようである。
普段のテンションでさえ鬱陶しいのにこうも落差が激しいと煩わしい事この上ない。喰は頬杖を付きながら完全に呆れ返った眼差しで、俯く幼馴染みを慰める事もせず唯じっと見つめていた。
「花礫くんが、明日艇を降りるんだって…!」
その頃ちょうど食堂で喰にハーブティーを淹れてもらい束の間の休息を味わっていた名前は、ひどく青褪めた表情で何処からともなく現れた與儀の言葉に気を取られ思わず携えていたティーカップを落とした。
パリィン!と盛大にけたたましい耳障りな音を奏でて粉々に砕け散った破片。お気に入りだったのにうっかり手を滑らせたことにさえ気付かない名前は、茫然とカップを持ったままの体勢で暫し硬直していた。
與儀が肩を揺らしても微動だにせず、喰がひらひらと視界の前で手振りしてもまるで夢でも見ているかのように焦点が合わない。
(いっそ目潰しでもしてやろうか)
物騒なことを企てる青年を與儀が慌てて制止したのは言うまでも無く。
やがて正気を取り戻した名前は、次にカタカタと全身を震わせ始めた。
顔面蒼白、心拍異常。
これはいよいよ重症だと見做した喰は、容赦ない拳骨を彼女の脳天に浴びせることで強制的に落ち着かせた。流石幼馴染みとして付き合いが長いだけのことはある。対処法は万全だ。
青年の手にしっかりと握られている手綱はこんな時でも一度植え付けたトラウマを彷彿とさせ、遺憾なくストッパーとしての効き目を発揮していた。
「……訊いて、ない。明日どころか、艇を降りることすら……」
「ええっ!?」
「へぇ、驚いた。花礫君、名前には伝えてなかったんだ。結構もう皆には知れ亘ってたみたいだけどね」
平坦とした声音で喰が話した衝撃の事実に、名前は瞬く間に頭が真っ白になった。
自分だけが知らされていなかった。自分だけ、花礫にはなんの相談もされていなかった。
仲があまり宜しいとはお世辞にも言えない喰でさえ把握していたのに、名前はよりにも依って前日という切羽詰まった状況に追い込まれてから知らされた。しかも花礫自身ではなく、他の仲間の口からだなんて。
ただただショックだった、切なかった。
肺が締め付けられて、息も儘ならなかった。
──クロノメイに行く。
彼はどんな気持ちで、その決断を固めたのだろう。
ありとあらゆる人材を兼ね備え、将来政府に関連する仕事に就きたいと志す者達が集う養成学校、クロノメイ。もちろん中には輪に入ることを夢見る若者達も多く、花礫は貳號艇長である平門を後見人として、名前もかつて卒業したことのある輪志望コースに入るのだそうだ。
そこまで訊いて居ても立っても居られず、いつの間にか名前は引き留める二人の声に応じることなく、脇目も振らずまっしぐらに愛おしい温もりを求めてひた走っていた。
そうして血眼になって、目を凝らして。
やっとの思いで見つけた後ろ姿は自分には気付くことなく、徐々に遠ざかっていって。縋り付くように無我夢中で追い掛けて、彼の服の裾を引っ張った。
(こっち、むいて)
わたし、ここにいるよ。
恥も外聞も投げ捨てて花礫の背中にしがみついた。
忽ち驚いたように見開かれ振り向く黒曜石の双眸、けれど彼は名前が何も言わずともいつもと違う彼女の様子から察したらしく、黙って腕を引いて名前のきちんと整頓された私室へ足を踏み入れた。
どことなく沈んだ面持ちを覗かせる女を寝台の上に座るよう促し、花礫も右に倣って隣に腰を下ろす。
カチ、カチ、カチ。
静寂の中で秒針が時を刻んでいく毎に、気道が狭まっていくような錯覚を覚えた。
それくらい長い長い、沈黙だった。
「……どうして、教えてくれなかったの?」
名前が恐る恐る口火を切った。
窺うように尋ねる瞳は緊張、不安、疑念など様々な色が見え隠れしていて、花礫は一瞥してから目を逸らした。
ツキリ、心臓に痛みが走る。
ああ、こんな感覚は久し振りだと逸る心を抑え、平静を装って名前はもう一度静かに問い掛けた。
「私には、伝えるほどの価値もなかった? そこまで私は、花礫くんに信用されてなかったのかな」
「……」
「…そっか、そうだよね。ごめん、私、自惚れてた」
ごめんね。
皮肉にも、軋む心に蓋をして笑うことにはもう慣れた。
上っ面だけの微笑を唇に乗せて部屋から去ろうとする背中を見て、花礫は咄嗟に腕を掴んで引き止めた。
離して、決して振り向くことなく感情を押し殺した声で名前が冷たく突き放す。
その言葉の節々は細かく揺れていて、わざわざ顔を見なくても泣いているのだと分かる。華奢な肩は小刻みに震えていた。
────また、傷つけた。
下唇を噛み、衝動のまま小さな痩躯を後ろから抱き竦める。
やだ、やだやめて、いやだ、はなして。
子供のように駄々を捏ね暴れる体を造作もなく押さえつけて、花礫はそのまま名前ごと雪崩れ込むように寝台の上に横になった。
堪えきれず食いしばった口端から零れ落ちる嗚咽。花礫は上体だけ起こして顔を背ける名前の上に伸し掛かり、目尻からポロポロと流れる涙を指先で優しく拭い取った。
「……さっきから黙って聞いてりゃ好き放題言いやがって」
「が、れきく」
「──クソッ、何なんだよ。人が折角我慢してりゃあ信用してないだの価値が無いだのカン違いして、散々アホらしいことホザきやがって。てめーの目は節穴かっての!」
「……が、まんって」
呆気に取られたようにポカンと瞳を瞬かせる名前相手に、花礫は恰もばつが悪そうに視線を横に外した。
(離れんのが惜しいのは、テメェだけだと思うなよ)
会ったら絶対決意が揺らぐ。
話してもし引き留められでもしたら、きっと自分はその手を無理に振り解けない。
だけどそれじゃ意味が無いんだ。
いつまでもコイツらに守られて、今の立場に甘んじてるだけの自分にはもうウンザリだ。
強くなる。
強くなって、堂々とこいつの──
込み上げる想いに、花礫は堪らず薄く開かれた唇に己のそれを重ね合わせた。息を飲む気配が柔らかな温もり越しにありありと伝わってくる。
一度綴じた目蓋を細く開き、丸くなっている瞳に綴じるよう視線で諭せばやがてゆっくりと伏せられていく睫毛。斜めに顔をずらし、名前の頑なに閉ざされてしまった唇をこじ開けて肉厚な舌を捉える。
耳を花礫の掌によって塞がれたことにより粘着質な音が一層鼓膜の中で艶かしく響いて、口から耳に全て侵されていくような感覚に女は背筋に粟を立てた。
自然とお互いに昂っていく欲の炎。
次第に服とキャミソールの合間をかい潜ってきた手に名前はピクリと反応を示し、観念したように花礫の首に腕を回す、しかし。
「……やっぱヤメた」
「え……?」
そう言ってスッと離れた体と唇に、名前は再び瞠目した。
なんで、やっぱり魅力ない?
悲しげに呟かれた名前の声に、そうじゃねーよと花礫が即座に首を振る。
「…まだ、抱けねえ。俺がお前より強くなって、一人前になってからじゃないと…俺が俺のこと許せねー」
「な、で」
「悔しいからだよ。俺は結局守られてばっかで、戦闘の時はどうしたってお荷物になる。戦うおまえの背中を俺はただ指咥えて見てることしか出来なくて、ずっと、どう足掻こうが追いつけなくて、だから」
だから、明日旅立つんだ。
堂々と名前の隣に並べるように、胸張って歩けるように。
そしたら今度こそ、
「俺がクロノメイを無事卒業して、おまえより強くなって帰ってきたその時は───覚えとけ」
おまえの全部、背負ってやるから。
過去も未来も、カラダもココロも何もかも。
花礫の口から放たれた、これ以上ない最上級の告白に、名前の瞳からはまた涙が溢れた。しょうがねぇヤツ、なんて花礫が苦笑して雫を拭い取る。
ポロポロ、ポロポロ。
幸せは満ち足りているよ。
大事なモノは、ここにあるよ。
過去にも未来にも途はずっとずっと繋がっていく。今だけの別離、今だけの時間。
ふたり離れてても、心はスグ側にあるから。
「だいすき、」
「……ぶぁーか、知ってる」
その日名前が見た夢は、今よりもっと大人になった自分達が、小さな男の子を間に挟んで笑っている幸せな風景だった。
拝啓、未来の僕たちへ
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