ぽたり、艶やかな髪から床に滴り落ちる雫。
弾力のあるソファーにぐったりと身を沈め、お風呂から上がってから何一つ言葉を発さない女はさながら屍のようだった。
言わずもがな、原因は少し離れた場所で自分の髪を無造作にタオルで拭く男にある。
「……オイ、いい加減髪乾かせよ。風邪引いても知んねーぞ」
「動けない……動きたくない……」
もはや喋るのすら億劫だという様相の名前に、花礫は心底面倒だとばかりに眉根を顰めた。
寧ろ何故彼の方こそそんな平然としているのか、名前は甚だ疑問だった。
ベッドで三回、お風呂で二回、計五回。中でも名前が達した数は知れず仕舞い。
これが現役十代と二十代の体力の違いなのかと、歴然とした差に女が愕然としながら揺さぶられたのはつい数時間程前のこと。
もう無理だめ壊れる。
どんなに訴えても留まることはなく却って激しさを増す行為。
だったら誘うな煽るな隙を見せるなと花礫は口を酸っぱくして何度も言うが、名前は挑発した覚えも唆した覚えも微塵もない。ましてや自分からけしかけるなんて以ての他だ。隙を見せるなと言われても、仕事が終わり、安心する自室に戻ってくれば誰だって肩の力は抜くものだろう。
若しくは部屋でも日頃から警戒していろというのか、そんな殺生な話があってたまるかと名前は心の中で密かに毒づく。
すると髪を濡らしたまま微動だにしようとしない名前を見兼ねたのか痺れを切らした花礫が深々と重い嘆息を吐き、おもむろに女が力無く俯せに横たわっているソファーに近付いてきた。
「ほら、乾かしてやるから俺の気が変わんねー内にさっさと起きろ、じゃねーと襲うぞ」
「っもう勘弁してください!」
洒落にならない不吉な宣告に名前は節々が痛む体に無理矢理鞭を打ち、緩慢と上体を起こして不承不承と腰を据えた。自然と後ろに凭れ掛かる前にふと花礫が背後に体を滑らせ、女とソファとの合間に割り込んでくる。
これは自分に寄りかかれということだろうか、勝手な解釈をして名前が素直に体を預ければ、「ンなくっついたらやりづれえだろうが」と遠慮なく頭を叩かれた。それなりに痛かったが文句を囃し立てれば痛みが倍に膨れ上がって返ってくるのは百も承知、大人しく口にチャックする。
髪を優しく撫でる柔らかなタオルの感触に、うっとりと夢見心地で瞳を細めた。
「……もう少し私の体力を考慮してくれれば申し分ない素敵な旦那様なんだけどなぁ……」
「あ゛?」
「なんでもないです」
地獄から湧いたような低い声だった。
すかさず身の保身の為にかぶりを振れば、動くなとタオル越しに頭蓋を鷲掴まれる。いつまで経っても粗末な扱いは変わらず、二人は一生このままのスタンスを貫くのだろう。
果たして自分は十代の旺盛で盛んな底なしの性欲に着いていけるのだろうか、数年後無事元気に生きていられるだろうか。
途方もない未来に思いを馳せている名前など露と知れず、花礫は股の間に彼女を挟んで出来るだけ傷めないよう細心の注意を払いながらシャンプーの匂い漂う髪を拭いていた。
本当に、夜さえがっついて居なければ出来た理想の旦那だろう。
半乾きになったところであらかじめ名前が側に用意しておいたドライヤーのスイッチをオンにした。生温い温風が細い髪糸の間を潜り抜け、見る見るうちに含んだ水分を干していく。
タオル越しなどではなく、直に直接感じられる花礫の指使いに先程までの情事を思い出して、名前はこれだけは絶対に悟られまいと下唇を噛んだ。けれど勿論、見逃すような甘い彼ではなく。
「……耳、赤ェけど?」
「っドライヤーが熱いから」
「冷風にしたけど」
「えーと、〜っほら、お風呂上がりだし逆上せちゃって!」
「……ま、今はそういうことにしといてやるよ」
後で激しい押し問答は確定ですね。
といっても端から叶う筈もない負け試合だが。その時の名前には、まるでドライヤーのスイッチを切る音が断頭台のギロチンを振り落とす為のボタンを押す音に聞こえたという。
次はどんな火の粉が降りかかるのだろうか。そう戦々恐々と臆病風に吹かれる名前を襲ったのは、しかし予想だにしていないまさかの展開だった。
「……が、れきくん?」
「……お前、俺がクロノメイに居る間また大怪我してたんだってな」
「え、あ、あぁ……」
後ろから自分を抱き竦め、肩口に顔を埋めて覇気なく呟いた花礫の頭を反射で撫でた。「誰から訊いたの?」と首を捻れば彼の口から紡がれたのは気心の知れた幼馴染みの名。
そういえば、その時も喰と一緒だったっけ……何の因果かは計り知れないが、失態を犯すところにばかりたまたま居合わせる幼馴染みに辟易する。それを出汁にいったい何度皮肉を言われたことか。
気難しげに名前が唸ればなお一層花礫が彼女を抱く力が強くなる。鳩尾をも圧迫する腕を宥めるようにポンポンと叩けば多少は緩められたが、頑として離されることは無い。
珍しく甘えたな男の姿に「あの時ほどひどい怪我じゃなかったよ?」と苦笑すれば「そういう問題じゃねーよ馬鹿」と素っ気なく返される。
じゃあ一体どういう問題なんだ、と一向に真意が窺えないうやむやな言葉に名前が困惑しながら花礫の名を呼べば、暫しの無言の後投げられたのは「……ムカつく」というこれまた今までの話とは全く噛み合わない悪態だった。
「──分かってるよ、お前が俺よりも喰のヤツと居た時間の方が遥かに長いってことくらい。幼馴染みだし、俺が知らないお前をアイツは知ってるってことも重々承知してる。……分かってる、分かってっけど、でもやっぱ腹立つ」
ポツポツと耳を凝らさないと聞き取り難い声量で落とされていく花礫の言葉に名前は思わず(……あざとい、あざといぞ花礫くん)などと一人場違いなことを考えていた。恐らく口にしたら顔を真っ赤にして烈火の如く怒り狂うだろうから、そんな命知らずな軽はずみの行動には出ないが。
もしかしたら今日の行為がいつもより更に余裕が無かったのもその事が原因だったのかと思うと怒るにも怒れなかった。
「……喰に嫉妬したんだ?」
知らずのうちに声音が弾んでいてしまったかもしれない。
黙れと言わんばかりに花礫の腕に再び渾身の力が込められて、噎せた名前は慌てて「ゴメン!」とあっさり白旗を上げた。
「……ヤキモチなら私だって焼いてたよ、ツバメちゃんに」
「ツバメに? 何で」
「だぁって、花礫くんと学生生活なんだよ!? 一緒に登下校して一緒に過ごして勉強もして……あまつさえ私は花礫くんの制服姿なんて一回しか拝んでないのに!! うあああツバメちゃん羨ましい羨ましいよおおお」
「……ぷっ、くだんねー」
「くだらなくない!! あーあ…蘭二くんかセセリちゃん辺り花礫くんの貴重なサービスショットとか持ってないかな…もし持ってたら売ってくれないかな」
「それだけは絶対ヤメろマジで」
ロクなモンじゃない、といつの間にか隠し撮りされていた諸々の過去の記録を思い浮かべて花礫が些かげっそりした面持ちで呟いた。アレが発端でどれだけ同室の男にからかわれたか分からない、思い出したくもないと嘆息を吐く。
それでもなお「えー」と駄々を捏ねる女の口を手のひらで覆って黙らせた。
さらさらと指通りの好い髪を横に退け耳朶を甘噛みしながら「それ以上ゴネたらどうなるか…分かんねーほど馬鹿じゃねえよなぁ?」と脅迫紛いの言葉を口にすればたちまち強張る細い体。
口は災いの元。無邪気に振る舞っていた態度とは打って変わって蒼白とした表情で頷いた名前に内心舌を打ちながら、花礫はやがて手を離して元の定位置に腕を戻した。
「いや、あのね花礫くん……私と花礫くんじゃそもそもの体力が違うんだけど……」
「お前がいちいち煽んのが悪ィんだろ」
「そうそれ! 私は煽ってるつもりなんて毛頭ないよ?」
「んなこと疾うに知ってるっての」
無意識でやってるからこそ興奮する、と。
たまには名前から誘われても悪くないとは思うが、やはりリードするのはいつ如何なる時であろうとも自分でいたい。
なにより強引に迫って恥ずかしがる彼女の顔を見るのが楽しいのだ。そんなとっておきの楽しみを自ら潰すような真似は勿体無い。それに、
「お前、自分が不意打ちに弱いって知ってたか?」
「ッあ」
「……な。こうすると、凄ぇイイ反応すんの」
就寝時、彼女がブラジャーを身に付けず眠ることを知っている花礫は、服の下から微かに主張している胸の頂をピンと弾いた。逃げるように肢体を捩る名前を全身を使って押さえ込み、手の内で柔らかい感触を心ゆくまで堪能する。幾度となく吟味したって飽きることは無い、無防備にも露わになった項に口付けを落としほくそ笑む。
……も、だめだってば。
そんな弱々しい抵抗も男を煽る一因にしかならない。背中に感じる温もりは確かに心強いけれど、同時にぎりぎりと自分を疲弊させる危険性の高い爆薬でもあった。
燻る火を付けるのはいつだって女の方から。しかし女がそれに気付いて身の振り方を改めるのは一体いつになるのやら。
「っこら、花礫く……! ンむ、」
「……今日は寝かせねーから」
正しくは今日も、なのだけど。
降ってくる口付けの嵐に、名前が抗う術はもう何一つ残さず奪い去られていた。
背中で感じる危険と安心
(名前、死にそうな顔してるけど…)
(……冗談抜きでそのうち死ぬかも)
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