「あ、花礫くん名前は?」
「あ? あいつなら今生理痛と二日酔いでダウンしてっけど」
「せ……っそ、そっか……どーしようかな」

 腹痛とは敢えてオブラートに包まず率直に放たれた単語に思わずたじろいだものの、與儀は直ぐに困ったように呟いて眉根を寄せた。
 「あいつに何か用?」と細かい部品を組み立てていた花礫が一旦作業を中止して、行き場をなくし途方に暮れている男を見やる。
 與儀は果たして勝手に話してしまってもいいのかやや逡巡する素振りを見せたが、取り立てて隠すほどのものでもないと判断して口を開いた。

「さっき平門さんから名前を呼ぶように言われてね。なんでも次の任務に関する重要なデータが届いたから直接部屋まで取りに来るようにって」
「あのクソメガネはピンピンしてやがんのか……」
「え? どういうこと?」
「名前が二日酔いでへばってる理由。昨日アイツとイヴァに夜通し付き合わされた挙げ句、次から次へとガンガン飲まされたんだとよ」

 そう、突然のことだった。
 仕事をキリの良いところで区切りつけ、部屋で自由快適に二人それぞれの時間を満喫していた時のこと。花礫は日常の習慣となっている就寝前の読書、名前は髪を乾かしたり肌の手入れなど身の回りのことに専心していて、後は二人揃い折りを見て床に就くばかりとなっていた。
 そんな穏やかに流れるささやかな一時をぶち壊すように、けたたましい音を立てて何の前触れもなく突如開かれた扉。
 特に悪いことをしていた訳でもあるまいに思いもよらない出来事に鼓動は早鐘を奏でて、弾かれたように二人が顔を上げればそこに居たのは怖いくらい綺麗な微笑を湛えたイヴァだった。
 途端に二人の強張った肩から力は抜けて、「ど、どうしたの?」と名前が彼女の威勢に若干怯みながら恐る恐る問いかける。
 すると、イヴァのある意味不気味な微笑みはますます深みを増していって。

「これからちょっと飲み会開くからアンタもたまには付き合いなさい。あ、花礫悪いけど今夜は名前借りてくから!」

 そう矢継ぎ早に告げるなりポカンと呆けている名前の腕を掴み、容赦なく問答無用で引きずっていくイヴァ。戸惑う彼女をさして歯牙にもかけず鼻歌混じりで進むイヴァの気ままな振る舞いには花礫も唖然とし、止める隙も全く無かった。
 結局げっそりとした面持ちでボロ雑巾のように成り果てた名前が部屋に帰ってきたのは明け方四時近く。
 頬はアルコールが回って紅潮し、足付きも不安定な上に目も虚ろ。ベッドまで自力でたどり着く精根も尽き果てたのか、なりふり構わず近場にあった柔らかいソファーへ雪崩れ込んだ。

 今回はどんな恥辱を受けたのか。何だかんだ心配で熟睡出来なかった花礫が物音で起きて呆れながらも彼女をベッドまで運び、今度こそは誰にも邪魔されずに共に眠った。……のだが、朝目覚めた時やはり名前の表情は苦悶に満ちていて。
 しかも生憎なことに生理二日目という最もしんどい日程に重なってしまい、今もなおベッドの上で屍のように眠りながら、時折勢いを増す猛烈な頭と下腹部の痛みにのたうち回っているという。

「それは……とんだ災難だったね……」
「あいつもバカでお人好しだから誘われると断れねー性分だし、だとしてもあんな奴らさっさと酔い潰して帰ってくりゃ良いものの……真っ先に自分が潰れてりゃ世話がねぇじゃねえか」
「俺も平門さんが潰れたとこ見たこと無いからなあ…それはちょっと難しいかも」

 ましてや平門だけでなくあのイヴァも居たんだ、簡単に逃げ切れるような状況にはどう間違っても到らないと容易に想定が付く。
 もしも自分も昨夜早めに寝ていなければ同じ轍を踏んでいたかもしれない。否、もしくはそれ以上に酷い有り様だったかもしれないと洒落にならない想像を膨らませて與儀が身震いした。

「で、平門んとこ行きゃ良いのか?」
「え、花礫くんが代わりに行ってくれるの?」
「……仕方ねーだろ、あいつまともに動けるような状態じゃねえし」

 渋々、といったような態度ではあるもののとりあえずは行ってくれるらしい。
 普段こそ表には決して露呈しないし、大して関心が無いフリを装ってはいるが、名前の為ならば重い腰を上げることさえ厭わない青年のことだ。なるべく無理はさせたくないのだろう。
 成長したなぁと感慨に耽りながらも火の粉を浴びたくは無いので口には出さず、「じゃあお願いね」と笑いながら自分の仕事に戻る。
 そんな與儀を見送って花礫も部品を片付けため息を吐くと、気だるい身体に鞭打って緩慢と立ち上がった。今からあの平門の元へ行くと思うと憂鬱だ、むしろ鬱だ。
 けれど自分から面倒事を引き受けた以上二言は無く、不本意ながらも行く他無い。気が進まないままやむを得ず平門の自室までの道のりを辿った。


 そして此処に来てから幾度と赴いた部屋の前。今さら扉をノックするのを躊躇う、なんてつまらない遠慮をするような仲では無いが、いやそもそも遠慮という訳ではなく億劫なだけなのだが、花礫はただ何をすることもなく扉を睨み付けていた。
 しかしいつまでもこんな風に立ち尽くしていては膠着状態が続くだけで一向に終わりが見えない。厄介だ面倒だとは思いつつもドアノブを回し、重い足取りで室内に踏み切った。

「……おや珍しいな。呼んでもいないのにお前自ら足を運んでくるとは、一体どういう風の吹き回しなんだか。名前はどうした?」
「分かってるクセに白々しい言い方止めろ。名前ならどっかの奴らにさんざっぱら振り回されたせいで寝込んでる」
「ああ……だが俺達だけが悪いという訳でもなく、生理的要因も含めてだろう?」

 それも知ってて飲ませたのか、と心の中で毒づいた。より濃厚な険しさを滲ませていく花礫の面持ちとは相反して平門の口元には三日月が浮かぶ。
 この全てを見透かしたような笑みはいつまで経ってもいけ好かない。腹立たしいと本人の前でも関係なく盛大に舌を打つ。

「そんなあからさまに嫌悪感を剥き出しにされると流石に俺も傷付くんだがな」
「ハッ、良く言うぜ。どうせ欠片もそんなこと思ってねーだろ」
「…ともかく、名前の代わりにデータを受け取りに来たんだろ? そこに束ねてあるから持ってってくれ」

 一つ咳払いした平門が指し示した場所には、確かに丁寧に積み重ねられた書類があった。封筒を渡され、一枚たりとも洩れることの無いように確認しながら中に入れる。
 これでミッションはクリアした。
 長居する理由も無いからと「じゃ、」と早々に踵を返した花礫を「まぁ待て」とすかさず平門が呼び止める。声色は僅かに笑みを孕んでいて、こんな時は大抵良い予感はしない。
 むしろロクでもない予感しか思い浮かばないと身を以て心得ている花礫は嫌々ながら振り向いた。

「お前は生理痛を楽にする方法を知っているか」
「ハァ? ……知るかよ」
「だろうな。出産すれば軽くなるらしいが」
「……」

 それは花礫がいずれ、と考えていたものだった。
 クロノメイを卒業し輪での仕事も板に付いてきた頃、今では生活も安定して不安的要素を煽られるものは何一つ無く、子供を産み育てるための条件としてはこれ以上ない最高の環境だった。

 ──自分の血を分ける子供が出来れば、真の意味でも名前と本当の家族になれるのだろう。二人の想いの結晶が、確固たる繋がりで自分達を結んでくれる。
 ただ踏ん切りの付くきっかけが無かっただけで、今まではそういった明確な目的を持って身体を重ねていた訳じゃなかったから、悩んだ。
 こんな将来を定める大事なことは、一人で決めるものじゃない。待望の子供が出来たとしても痛い思いも苦しい思いも味わうのは名前で、実際問題男である自分は傍にいて支えることくらいしか出来ないのだから、だから。

「…お前、さ、ガキ欲しいとか考えたこと、ある?」
「……え?」

 自室に戻ったあと、単刀直入に名前に尋ねた。
 彼女は薬を飲んだためか今は大分血色も良く、かろうじて起き上がれる程度には回復の兆しを見せていて、花礫の質問の意図を推し量れずに小首を傾げた。
 幾らなんでもこれは直球過ぎたかと、今さらになって気恥ずかしさが込み上げた花礫は「…やっぱ何でもねえ」と顔を背ける。名前は暫し考え込んだあと、ふと真剣な表情で男を見上げてきて。

「……それは、欲しい、よ。花礫くんとの子供なら、尚更」
「……っ」

 心底惚れた女にほんの少し頬を赤らめながらそんなことを言われて、喜ばない男なんてこの世に存在するのだろうか。
 らしくない、柄にもないとは自分でも思う。けど嬉しいと感じたのは事実で、どうしようもなく愛おしいと思ったのもまた、嘘偽りなく本当で。

 胸を渦巻く形容し難い感情を堪え、ベッドの縁に腰掛ける体躯を抱き締める。
 この小さな身体に何度も守られてきた、支えられてきた、救われてきた。
 だから次は、──自分が。

「……今のうちに体力温存しとけよ。生理終わったらまた眠らせねーからな」
「ぐ、……お手柔らかに?」
「それは名前次第、」

 過去を思い出して切ないときは手を握ろう、独り寂しいときは抱き合い眠ろう。
 いずれ近いうちに訪れる、そう遠くない明るい未来に想いを馳せて。
 二人の子供はどんなだろうか。男だろうか、女だろうか。いいや、どちらだとしてもきっと愛くるしいに違いない。

 ────お前となら。

 重なった唇、絡まった指先。
 二人の閉じた目蓋の裏側では、間に子供を挟んで歩く幸せな「家族」の光景が浮かんでいた。
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