「花礫くんがね、俺にだけ冷たい気がするんだ…」
「……はぁぁん?」
「ちょ、名前その顔ヤメテ!」

 與儀が深刻そうな面持ちで部屋に訪れてきたから何事かと思って招き入れれば、開口一番に発せられたのはそんなことだった。
 知れず知れず口をついて出たのはドスの利いた声。
 胡乱気に細められた瞳はソファーの上で縮こまる與儀を鋭く射抜いた。

「なぁに? 私に喧嘩売りに来たの?」

 上等だコラと女性にあるまじき形相で凄む名前に、與儀は口を結び千切れんばかりに首を振る。情けなくカタカタとでかい図体を戦慄かせる年上の男を不満げに見つめながら、しかし「相談したいことがある」、そう沈んだ声音で告げた與儀を追い返せる筈もなく、名前は不承不承と向かいのソファーに腰を下ろした。
 與儀が連れてきた羊が茶の用意をする音が響く。

「思えば俺、花礫くんに一回も名前呼ばれたことなくて……」
「そっかぁ、私も呼ばれたことないけど」
「いっつも足蹴にされてるし」
「蹴られるどころかロクに視線さえ合ったことない」
「っそれに、花礫くん俺のこと仲間じゃなく輪の人としか思ってなかったみたいで…!」
「うんうん、私は目の上のたんこぶって言われたよ」
「……ッッうわあああ名前ごめんねえええ!!」
「くっつくな暑苦しい!!」

 机越しに抱きついてきた與儀の頭を殴り、それでもなお離れようとしない男の胸板を突っぱねて抵抗の意をむき出しにする。

「ごめんねっ、俺の悩みなんてちっぽけだったねごめんね名前!!」
「ヤメテ同情は止して虚しくなるから!」

 展開する攻防戦、本気で嫌がる名前に頬擦りしようと迫る與儀。
 膠着していた鍔迫り合いに終止符を打ったのは遅れて紅茶を運んできたヒーロー、基い羊だった。
 羊は「邪魔メェ」と與儀の首根っこを掴んで容赦なくソファーに投げた後、紅茶を机に添えて息を切らす名前の膝に座る。
 未だ名残で荒い呼吸を繰り返しながら、もふもふとした柔らかい感触にそのうち頬を弛ませ、名前は礼を告げてソーサーからカップを手に取った。

 こくり、舌の上に広がる紅茶の味をたっぷり賞味してから嚥下する。
 與儀から窺うような視線が注がれているが、この際無視だ、無視。恋する乙女の心を抉った代償は重い。

「……でもさ、名前は花礫くんに何かしたの? 目も合わないなんて余程のことじゃ……」
「名前はしつこすぎるメェ」
「あれ、思わぬところからカウンター喰らったんだけど」

 膝の上の愛らしい存在から手厳しい言葉を頂き名前のヒットポイントはもう赤い。
 羊毛を撫でていた手も自然と止まり「もうやめちゃうメェ?」という問いも聞こえず自分の殻に塞ぎ込んだ彼女の姿に與儀が慌てふためく。

 もうだめ。立ち直れない。
 唯一の味方だと思っていた羊にすら掌を返され、悄然とした様子で紅茶をちみちみ啜る名前に、與儀は相談相手を間違えたことに今更気付いた。
 後悔後先に立たず、まさか自分が慰める側に回ることになるとは。

「……っほ、ほら、虎穴に入らずんば虎子を得ずって言うじゃない」
「それはなんか違う気がするよ…?」

 もし本当にそうならば危ない橋を冒険し過ぎだ。名前の咄嗟の弁明に與儀が首を傾げれば、彼女はますます意気消沈してしまった。

 ──しつこいなんて判っている、だけどどうしようもない。日に日に膨らんでいくこの想いは自分でも制御出来ない境界にまで達していた。
 ただひたむきに、ひたすらに、無我夢中で、花礫の一挙手一投足に勝手に舞い上がって。
 名前は彼が自分を視界に入れてくれるだけでも嬉しいのに、與儀達は他愛もないことのようにそれをいとも簡単にやってのけてしまっている。
 醜い嫉妬心を押し殺して、いつかは自分もとなけなしの希望を信じて。
 けれど一向に埋まらない溝に辟易して。

 交わることのない視線、自分が目にするのはいつも彼の背中。求めてすがっても直ぐに突き放される温もり、整った唇から吐き出されるのは鋭利に尖った言葉というナイフ。

 もう割り切った。なりふり構わず自分の想いだけを押し付けるような形で花礫に纏わりついた。少しでもこの想いが伝わればいいと思った。
 変わりに己に帰ってきたのは痛みだけだったけど。

「でもさ與儀、」
「! な、なに?」
「あんなに逃げられると、追いかけたくもなるよね」
「!!?」
「名前が獲物を狩るような目してるメェ、危険メェ」
「そう今の私は狩人…愛の狩人なのよ…!」

 しかし花礫のそんな態度は、負けず嫌いの闘争心だけでなく狩猟心までも煽ってしまったらしい。どちらを応援すれば良いのか途方に暮れる與儀は、唇に弧を描く彼女の顔を見て背筋を走る悪寒に身を震わせた。

 ごめん、花礫くん。
 そっと現実から目を逸らす。

 なにくそ根性、不屈の精神を持ち合わせる彼女を止められる者は居ない。
 惚れられたら最後、狩人が携えるかすみ網に捕らえられるまで、ロックオンされた獲物に平穏が訪れることはないのだろう。
 諦めなければならないのは果たしてどちらなのか、與儀にその答えを見つける事は不可能だった。
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