とく、ん。
まだか弱くも、確かに一生懸命脈打っていた小さな鼓動。
初めて耳にすることが出来た時はつい感極まって泣いちゃって、ひとまず平常心を取り戻すまで暫く安静にしてみても全然涙は留まることを知らなくて、「いい加減泣き止めよ……」と花礫くんに窘められつつ専門医の先生には微笑ましい眼差しで宥められた。挙げ句、覚束ない足取りで花礫くんに支えられながら診察室を出たから、外で待っててくれたらしい燭先生にもつくづく呆れられた。
感動、なんてたった一言ではとても抽象的で形容し難い情動。「今からそんな調子じゃ実際子供が産まれた時どうなるんだろうな」ヤレヤレと言わんばかりの面持ちで頭を抱えた燭先生に当たり前のように「丸一日、いや涙が涸れるまで泣きっぱなしですかねぇ?」と揶揄を交えた口調でそう言えば目に浮かぶなと鼻で笑われた。
あながち冗談でも無いんだけど…。
何はともあれ、それからあっという間に月日は流れて現在十四週目、つまり四ヶ月半に差し掛かった。悪阻が最もピークだった時期もどうにか死に物狂いで乗り越え、悪心や吐き気もさっぱり無くなったワケじゃないけど一番酷かった時よりはマシだと考えるとある種の解放感に満たされたようだ。
赤ちゃんも胎芽から胎児とちゃんと呼べるほどの形が出来てきて、エコーで感じる我が子の成長にちょいちょい涙腺が刺激されるし、その都度燭先生にはしゃんとしろとお説教されるし、なんかホントに筆舌には尽くしがたい日々を毎日忙しなく送っていた。
まあ大した災難もなく、トントン拍子に事が進むのは何より喜ばしいことなんだけどね。と、羊から持ってきて貰った二人分の洗濯物を畳みながらしみじみと今の幸せを噛み締める。
もっとも横からは「畳み方がなってないメェ」「雑メェ」「もっとちゃんと皺を伸ばすメェ」「これじゃアイロンした意味無いメェ」「一からやり直しメェ」と小姑顔負けのことを抜け目なく指摘されていて今にも気分は急転直下しそうな勢いだが。
何をやっても大目に見られる事はなく、容赦なくビシバシしごかれていた。しかもここ最近何をやっててもずっとこんな感じ。
此方が妊婦といえど一切の手加減も情けもない羊達に戦々恐々としながらも、私はなんで急にとやかく口を出してくるようになったのか側にいた羊に単刀直入に問い質してみた。すると、
「イヴァが名前に母親としても女性としても上質なニンゲンになってほしいって言ってたメェ」
「そこでボクらが派遣されたメェ」
「キビしく育てろって言われたメェ」
「メェ」
「……ああうん……そっか………」
……やっぱり主犯はイヴァ姐か……。
余計なお世話だなんて口が裂けてもとても言えない。確かに気もそぞろに洗濯物を畳んでいたから適当だったし、こんなヨレヨレの状態で収納したらせっかく羊たちがアイロンを掛けてくれた手間も時間も台無しになってしまう。
「ごめんね、手ほどきお願いします」。
改めて済まなさを感じつつ羊の頭を撫でながら折り入って指導を頼めば、また羊が「メェ」と満足そうに鳴いて頷いた。
よし、終わったら後でお礼にブラッシングしてあげよう。私が心に誓って再び作業に取り掛かった時、ふとノックされる音がした。
手を止めて返事する前に自由に開かれた扉。我が物顔で入ってくる珍しい人物に瞳を見開いて、されど一瞬で弾んだ胸の内に私のほっぺは瞬く間に綻んでその場からいきり立った。
「キイっちゃん!!」
「、なっ、走るなですう!」
「別に逃げやしませんから!」。駆け出した私に慌てた様子で注意を促しつつ、何だかんだ猪突猛進して抱き着いた私を華奢な身体で受け止めてくれたキイっちゃん。
「会いたかったよー!」とぎゅうぎゅう有らん限りの力で久し振りの温もりを堪能すれば、「ああもう分かりましたから!」とのぼせたかのような顔でベリッと引き剥がされた。相変わらずつれない。
ムスッと不貞腐れたように腕組みしながら見上げてくるキイっちゃんにゴメンゴメンと軽く謝れば、全く反省してないでしょう貴女は母親としての自覚が足りてませんだからこうして羊たちにも面倒を云々とお小言の嵐。予想の範疇だけどこうも皆から同じようなお説教ばかりだと流石に苦笑いしか出てこない。
直ぐ浮かれちゃって用心を怠る私が悪いんだけどさ。花礫くんにも少し落ち着け慎重になれむしろ一歩も動くなとか口を酸っぱくして釘を差されたばかりだし、私も自分の行動を顧みてちょっと冷静沈着に──「貴女一人の身体じゃないんですから、大事にしてください」──無理だった。優しい言葉に我慢出来る筈もなくて、懲りもせずキイっちゃんに抱き着いて頬擦りした。ら、案の定こっぴどく叱られたけど後悔はしていない。
お茶淹れるから座って待ってるメェ、と羊に着席を勧められ、広いソファーに二人で腰掛ける。キイっちゃんは腰を落ち着けるなり持っていた紙袋の中身をガサゴソと漁り始めて、「どれから渡しましょうかねぇ…」と神妙な顔付きで呟くから小首を傾げた。
「……ま、無難にこれにしましょうか。朔ちゃんと私から、名前さんに」
「これ、マタニティウェア……。ありがとう、助かるよー」
「お腹の子は順調で?」
「うん、性別はまだ分からないけど身体の形も鮮明になってきてね。お腹もぽっこりしてきたんだ〜」
ほら、とキイっちゃんの手首を誘導してほんのちょびっとだけ膨らんだ下腹部に触れさせる。キイっちゃんは恐らく初体感だろう感触に戸惑いつつも、ぎこちなく壊れ物を扱う風に撫でてきて。
恐る恐るといった様子に「そんなビクビクしなくても大丈夫だよ」と笑ったら、「ビクビクなんてしていません!」とこれまた真っ赤な顔で威勢よく返ってきた。まぁまぁと丸め込めば誰のせいだと言わんばかりに不満たっぷり睨まれる。
けれどマタニティウェアの他にもキイっちゃんはあらかた必要な物を揃えてくれて、まだ時期尚早だろうに赤ちゃん用の玩具や服など本当に多種多様な物を持ってきてくれた。
なんでも壱組の面々が総出で嬉々として買ってきてくれたとか。うん、厚意はすごく有り難いけど性別も判明していないのにピンクの服とか貰っても……可愛いから頂戴するけども。
「現在仕事はどうされてるんです?」
たくさん出てきた服や玩具を物色していると、湯気立った紅茶を口に運びながらキイっちゃんが問い掛けてきた。「ああ、」と私は苦笑してひとつひとつ丁寧に服を畳んでく。
「今はデスクワークとか事務仕事や雑務を中心にしてるの。流石に先月……三ヶ月目は悪阻と倦怠感が酷くて殆ど手をつけられなかったけど」
「ツクモ先輩からちょくちょく話は訊いてましたぁ。まともに動けてる日の方が貴重で、與儀さんはまるで屍のようだったと話してましたが?」
「與儀後でシメる」
人がダウンして居ないところで好き放題言ってくれちゃって……覚えてろ。憂さ晴らしがてら執拗につつき回してやる。
……でもツクモの言う通り先月は私が起きてることは稀で、一日の大体をベッドかソファーの上で横たわって過ごしてたから與儀の比喩的表現も一概に外れているとは言えない。
皆事情を知ってるから何も言わないだけで與儀のようにも屍だと思った人はきっと他にも居るだろう。事実私も死ぬんじゃないかと、いっそ私だけ殺せと思うほどきつかった。それで平門さんにも申し訳なさというか面目が立たなくてげっそりと老いたような様相のまま謝りに行けば、「細かいことは気にするな」と失笑された。
「そもそも花礫に発破をかけたのは俺だしな、」と。言葉の意味が理解出来なくて呆けた顔で聞き返せばうやむやに誤魔化された。
これ以上掘り下げても明かされることは無いだろうと察して当時は大人しく引き下がったが、今思えばあの花礫くんが子供を欲しいかなんて質問を私にしてきたのも平門さんの部屋から帰ってきた後だ。と言うことは今回の一件も平門さんがけしかけた……? いや、まさかそれは考えすぎだよね。
悶々と一人頭を悩ませていると、やがて飲み終わったのかキイっちゃんが空になったカップをソーサーに戻して「さて、」とソファーから立ち上がった。もう帰っちゃうの? と一抹の寂しさを堪えながら見上げればキイっちゃんは吃ったあと咳払いして「用件は済みましたから。」と顔を逸らして素っ気なく告げる。
長居無用、とばかりにスタスタと出口に向かっていく背中に私も慌てて立ち上がり、見送ろうと後を追う。だけどキイっちゃんが扉に手を掛けるよりも早く、向こう側からドアノブが捻られて。
タイミング良く現れたのはちょうど仕事を終えて帰ってきたらしい花礫くんだった。
「あ、花礫くんおかえりなさい! ずいぶん早かったね?」
「セセリに早く帰ってお前の側に居てやれって叩き出された。……んで、なんでキイチがここに居んの?」
「……名前さんの様子を見に来たのと渡す物が合っただけですぅ。もうお暇するので気になさらず」
「あっそ」
……淡々とした空気の二人だ。親しみの欠片も無い。というか私の錯覚かな。目線で火花を散らしてるようにも見えて、どれだけ犬猿の仲なのよと張り合ってる二人に肩を竦める。
しかし私が間に割り入って仲裁するまでもなく、キイっちゃんは花礫くんにすれ違い様何かを言ったあと「見送りは結構ですので。それじゃお大事に」と悠然とした佇まいで羊達を連れて去っていった。
花礫くんは暫し不機嫌そうな面持ちでキイっちゃんの背中を睨んでいたが、今さらどうこう言い返せるワケもなく深々とため息を吐いてソファーに歩み寄りドッカリと座る。
脱いだ上着を預かってハンガーに掛け、私も心なしか苛々している彼の隣に座って「何言われたの?」と問い掛ければ、花礫くんは私を一瞥した後また重い嘆息を溢した。
え、ひょっとしなくても私が原因?
「キイチが名前に負担を掛けるような行為は慎めだとよ」
「なにそれ?」
「さあ? 俺が節操もなく未だにお前とセックスしてるとでも思い込んでんじゃねェの」
「セッ……」
「もうちょっとオブラートに言って!」と私が身も蓋もない言い方に非難の声を上げれば、花礫くんは何を今更とサラリとかわした。
今更とかそういう問題じゃなくてだね……ああもう良いや。この花礫くんになんて言ったって多分同じように受け流されるだけだ。それよりも心外だとばかりに顰めっ面をしている花礫くんになんとフォローを入れれば良いのやら。
花礫くんは私を至極大切にしてくれてるし、具合が悪い時は手を握りながら背中を撫で擦ってくれるほどの甲斐性を見せてくれるし、少なくとも彼は妊娠が発覚してから私を優先してくれる事が格段に多くなって、自分のことは基本後回しだ。
だからキイっちゃんが勘繰るようなそんな、やましいことは全然無くて。
──花礫くんはおくびにも出さないけど、かなり我慢させてしまってるんじゃないか。
自然と案じるような表情になってしまっていたんだろうか、花礫くんは伏し目がちになっていた私の髪をくしゃくしゃに乱して。
「俺は元々性欲とか淡泊な方だったし。抜かねぇワケにはいかねぇけどそういう時は自分で抜いてるし、…気にすんな」
「ん……ごめんね、ありがと」
でも淡泊とか冗談だよね…? むしろ絶倫じゃ…。
私が釈然としない気持ちのまま腑に落ちない顔をすれば、けれど花礫くんにはそんな私の複雑な心境もお見通しなのか「お前とそーいうコトするようになってから体質が変わったんだよ」と鋭くデコピンをかましてきた。
喜んでいいのかまたそんなこと言って! と怒るべきなのか微妙なところ。
っていうかいきなりのデレは止めてほしいとてつもなく心臓に悪いから。
「……ま、」
「ん?」
「子供が産まれたら、また遠慮はしねーけど?」
「……頑張りマス……」
言ったな? 言いました。
ニヤリとほくそ笑んだ花礫くんにアッサリ白旗を上げて降参した。
……だって正直な話ぶっちゃけちゃえば、我慢してるのは花礫くんだけじゃなくて……。そこまで考えた途端、沸々と照れ臭くなって、私は花礫くんに抱き着いて温かい胸元に顔を埋めた。前みたいに拒まれることはなくて、仕方ないと言わんばかりな手付きだけどゆっくり頭を撫でられる。
次第にトロンと微睡んでいく意識。夢心地で、私は身体を委ねたままポツリと呟いた。
「……はやく、あいたいね」
「……ああ」
だけどもうちょっと。
もうちょっとだけの辛抱だね。
現状のちの言質
(あ、でも産んだって暫くは子育てに大忙しだと思うから当分オアズケかな)
(……、……わかってる)
(いや、うん、そんな悔しそうな顔しないで…)ALICE+