────果たして、父は本当に母のことを愛しているのだろうかと息子は訝しげに首を捻った。
端から見ているととても相思相愛には思えない。
いつだって直球に想いを伝える母とは違って父は無愛想で母をけんもほろろにあしらって、会話でさえ相槌を打っては居るもののキャッチボールが成立していない事もちょくちょくある。
だから「ちゃんと聞いて!」と怒る母の背中を見てその度梛は思うのだ、ぱぱはままの事どうでも良いのかなぁと。
名前の幼馴染みである喰は好きな人が居ると言っていた。恥ずかしがる事も無く堂々と胸を張ってその人を愛している、とも言い切った。
梛の知る限りでは花礫がそのような愛の言葉を名前に伝えている姿は未だかつて見たことがない。
絵本やお伽話に出てくる王子様だってお姫様に想いを告げて結ばれたのに、なのにどうして自分の両親らは恋が実ったのだろうか?
梛の視点からは明らかに母の一方通行、片想いにしか見えなかった。
何でままはへーきなんだろう、ボクがままだったらすきな人につめたくされるのはスゴくかなしいのに。
そんな釈然としない蟠りは梛の思考をグルグルと覆い尽くして、いよいよ自分の胸の内だけに留意することは儘ならなくなった子供は単刀直入に洗濯物を畳む母に訊ねた。
そしたら彼女は瞳を見開いた後、優しく笑って真剣に答えを待つ梛の頭を撫でる。
「昔は確かに不安だらけだったけど……今はお互い成長して考えてる事とかなんとなく分かるようになったからなぁ」
「……でも、いわなきゃわかんないよ?」
「そうだね。だから私も花礫くんも大事な事はきちんと口にするし聞きもする。普段は私が他愛ない話ばかりするから花礫くんも興味無さそうだけど、あれでも内容を覚えてはくれてるんだよ」
「んー……? そう、かなぁ…」
「というか、花礫くんが何も考えずにぼうっとしてること自体珍しいからね」
一見関心を寄せていないように見えてもしっかり頭の片隅には留めている。
名前も梛も、二人が言葉にしたことを花礫は素通りしているようで間違いなく把握記憶していた(とは言えどうでも良いことは本当に覚えてないのが大半)。
決して蔑ろにしている訳ではない、ただパパも他にやるべきことは山ほどあるからね、と。
しかしそれを訊いても一向に納得のいった表情を浮かべない梛は、更に母の心中を探るように「じゃあ、ままはさびしくない?」と言問うた。
名前はお互い言葉を交わさずともある程度のことならば通じ合うと言っていたけれど、「好き」は? 「愛している」は? 分かったとしても言葉にされなければ寂しくはないかと、梛はそう子供ながらに推し量ったのだ。すると頭を撫でてくれていた手はピタリと止まり、まずいことを訊いてしまったかと一種の懸念が梛を責める。
だが名前はかぶりを振って、全然とそれこそ梛の憂慮を吹き飛ばすように朗らかに笑った。
「じゃあ、じゃあままは、ぱぱのどこがすき?」
「……どこが、かあ……」
「…………むずかしい?」
「……具体的には、難しいかな。ぜーんぶ大好きだもの」
「んん…? じゃあきらいなとこは?」
「それは無いって断言できる」
「ぱぱがイジワルでも?」
「意地悪だけど、そこも好きだから」
まだまだ盲目だなぁ。
参ったと言わんばかりに苦笑した名前に、矛盾した言葉の意味がいまいち理解出来なかった梛はイジワルでもすきだなんて、ヘンなの。と不可解な名前の気持ちに眉を潜めた。
が、それ以上無闇やたら質問攻めにすることは無く、素直に口を閉じた。
──こんな秘密の会話を二人で交わしたのが、ちょうど花礫が仕事から帰ってくる数時間前。
母には今話したことはパパには内緒ね、と釘を刺されたが、その時のことをお風呂に浸かりながら思い出していた梛は膨れっ面をしながらおもむろに口まで湯舟に沈んで細く息を吐き出した。
息がブクブクと泡になって水面に浮かんでは揺れ、弾けて消える。すかさず「汚ェからヤメろ、」と頭を洗っていた花礫から窘められると子供は渋々姿勢を戻して普通に浸かったが、不貞腐れたような顔は依然と戻らないままだった。
「……何でンなむくれてんだよ」
「べつにぃ。」
泡を流し終えた花礫が息子の機嫌が好ましくない状態にあることを察すると考えるよりも先に問い掛けるが、返事はなんとも曖昧で取り付く島も無いもの。
早くも反抗期到来か、と思いつつそういえばコイツは俺に対していつもこんなんだったよなと呆れ混じりに溜め息を吐いた。
バスタブの隅の方で膝を抱えて縮こまってる息子を尻目に花礫も同じく湯舟に浸かり、満水になったお湯をピッと指先で梛に飛ばしてちょっかいを掛ける。
一度ヘソを曲げると頑固で中々口を割らないのは名前そっくりだから、こうワザとおちょくって気を引いてみれば根負けして話し出すことも当然了解済み。
梛は最初煩わしそうに顔を歪めて時々反撃したりしていたが、体格差もあって花礫にはさっぱり歯も立たない。得意げに笑う大人げない父の姿に子供は悔しそうに歯噛みしたが、やがて敵わないと対抗心を剥き出しにすることに疲れたのか肩を落としてポツポツと語り始めた。
「……ぱぱは、ままのどこがすき?」
「……あ? なんだよ急に」
「だってボク、ぱぱがままにすきっていうとこ見たことない。いつもうるさいとか、バカとかそんなんばっか」
「……あー……」
そういうことか、と梛が遠回しながらも伝えたい事を汲み取って口を濁した。
もしかしなくても名前絡みの事だ。どことなく不安そうな面持ちをする梛を暫し見つめ、花礫はつい昔からの癖でやらかしてしまった自分の落ち度を反省する。確かに名前は慣れているだろうが、少なくとも子供の前で言うことでは無い。
照れ隠し、なんてこのくらいの幼い子供にはまだ分からないのだ。見たそのまんまを認識して良からぬ誤解を招いてしまっても致し方無いことで、常日頃の身から出た錆か、と自覚しつつ梛がやけに自分に突っかかってくるのも腑に落ちた。
哀れにでも、映ったんだろうか。
好きと言っても相応の態度を返されず、適当に受け流される名前を。あまつさえ花礫の気分次第では素っ気ない言葉を投げられてあしらわれる名前を。報われもしない、或いは可哀想だと思っていたんだろうか。
そう、自分は息子に思わせていたんだろうかと花礫は曇った梛の表情を窺いながら物思いに耽る。
ふいに男が雫を垂らす前髪を掻き上げると、重い沈黙が降りたバスルームに音が響く。梛も無言の空間は流石に居心地悪いのか、伏せていた瞳をおずおずと上げて無表情の花礫を一瞥した。
視線が交錯したのを皮切りに花礫が口火を切る。
「……んじゃ逆に訊くけどさ、お前はアイツのどこが好き?」
「……ん、と、わらったかおがすき」
「後は?」
「やさしいとこ、おいしいごはんつくってくれるとこ、いっしょにあそんでくれるとこ、おしごとしてるとこ、…あと、は、あとは…ん〜?」
「……な。どこがって言われても、挙げるといちいちキリねえだろ。そんなポンポン浮かんでくるモンでもねぇし」
「……うん……」
じゃあ嫌いなとこは?
数時間前、名前にも同様の質問を投げかけたところ彼女は無いとかぶりを振っていた。
なら花礫も母と同じ返答を返してくれるのでは無いか、想いが通じているならきっと嫌いなところなんて無い筈。だが梛の期待虚しく、花礫は淡々と何食わぬ顔で「バカなとこ」と吐き捨てた。思わず梛の目が点になる。
情けもなく即答で切り捨てられた問いかけに子供は聞き間違いかと「……え?」と震えながらも小首を傾げたが、父は一言一句違わず再び同じ回答をした。いっそ清々しい。
「イヤだっつってんのに無駄に世話焼くお節介だわ困ったヤツ見つけるとなりふり構わず突っ走ってくお人好しだわ、そのくせ自分は辛くても笑って誤魔化そうとするバカだわ実は手先不器用だわで、あんなめんどくせェヤツ他当たっても滅多にいねーよ。ぶっちゃけこれこそ挙げたらキリがねえ。まだまだあるぜ」
「ええぇ……ままはきらいなとこないって言ってたのに……」
「……なに、アイツにも訊いたわけ?」
「……きいた。ぱぱがイジワルでも、そこもすきっていってた」
「へぇ……」
梛の気のせいだろうか。
今花礫が満更でもなさそうに口角を吊り上げたような…湯気が立ち篭っていて良く見えない。目を擦って改めて真向かいに居座る花礫を注視すれば彼はまた無表情になっていて、やはり先程目にした表情は錯覚だったかと片付けることにした。
何気なくちゃぷん、と花礫の腕が伸ばされ、無骨な指が俯きがちな梛の濡れた髪をくしゃくしゃに乱す。
「……けど、ま。そんなバカでしょうもねえ女だけど、何でか俺はいつの間にか惹かれて好きになっちまってたんだよ」
上がんぞ、と言って花礫が立つと反動でお湯が減った。慌てて梛も立ち上がり、名前があらかじめ用意してくれていたらしいバスタオルで身体を拭いて順番に服を着ていくが、結局花礫は翌日までろくに目線を合わせてはくれなかった。
後ろから覗いた父の耳は真っ赤でのぼせたのかなぁ、なんて怪訝に思ったけれど。
いつも通り名前にお気に入りの絵本を朗読してもらいながら、梛は一日を終えた。
朝会ったとき與儀に花礫の様子も含め先日の出来事を打ち明けると、彼はニコニコと屈託無く笑いながら「俺は二人のそんなとこに見えない愛を感じるな〜」とのたまった。
嫌いなところの方が多いのに、愛があるの?
またもや理解不能な與儀の言葉に梛は混乱しつつもそう問い掛けた。
「えっとそうだなぁ……例えば、可愛いから好き、格好良いから好き、とか普通は言うでしょ?」
「うん、」
「でもあの二人は違う。″だから″好き、じゃなくって″だけど″好き、なんだ。……多分それってさ、長所、要するに好いとこだけじゃなくて悪いところ、欠点もまとめて好きってコトなんじゃないかな」
「わるいとこも……すき?」
「うん。好いとこも悪いとこも全部認めて、その人がその人だから好き、なんだと思うよ。名前も、花礫くんも」
──名前は、花礫のことを意地悪だけど好きと言っていた。花礫も、名前のことを面倒臭いけど好きだと言った。
つまりは、そういうコトなのだろう。
好いところも嫌いなところも丸ごと引っくるめて好きだから名前は花礫の、花礫は名前の傍に居るのだ。
ずっと、もう、何年も昔から。
「……でも、ゼッタイゼッタイ、ままはぱぱにわたさないもん」
「ハハ……うん、がんば、れ?」
──燻っていた謎は晴れた。
けれど、そこは何としても譲れないモノもある。いくら照れ臭いからと言えど母に心ない言葉をぶつけている父は許すまじ。
いつか絶対にぱぱの壁を越えて、ボクがままを幸せにすると、奮起する梛は四歳さながらそう固く心に誓った。父親譲りの黒髪黒目の少年がいきり立つ様を見て相変わらずだと與儀が苦笑する。
どんな逆境や向かい風に曝されても屈しない粘り強さはまさしく母親の名前譲りだ。
……やっぱり、あの二人の子供だなぁ。
デコボココンビと言っても過言では無い二人の血を分けた、大切な絆の結晶。
花礫と名前が互いに想い合っていなければこの世に存在していなかった一つの命。自分の存在こそが二人のなによりの愛の証明だとは露知らず、子供は打倒父を掲げて妙なやる気に漲っていた。
今は知らないことだらけでも、これからどんどん健やかに成長していけばこの子もいずれ本当の恋を見つけるだろう。
その時までは、まだ。
「……頑張れ、花礫くん」
父と息子の仁義なき戦いを、微笑ましい眼差しで見守るのも良いかもしれない。
分からないことだらけでも
(たった一つ確かなのは、あの二人は揺るぎない絆を持っているってことかな)ALICE+