「──ぱぱなんかだいキライだっ、どっかにいっちゃえ!!」

 ────本当に、きっかけは些細な事だった。いや、他人からすればそんなことかと片付けられるものでも子供にとって、梛にとっては大事なことだった。

 突如盛大に響いた硝子が割れる音。てっきり名前が誤ってコップを落としたのかと小首を傾げたものの、そんな雰囲気は感じられなくて不思議に思った梛は寝室から居間をそろりと覗いた。
 すると朝からソファーで仕事をこなしていた花礫が棚の前で立ち往生していて、何やら足元を見てしくったと言わんばかりの苦い顔をしている。
 ますます怪訝に思った梛も花礫の横顔から彼の足場に視線を下ろしていけば、そこには自分が大切にしていたオルゴールの残骸が散らばっていて。慌てて飛び出した梛に花礫は瞳を見張ったものの、そう深く反省した様子も無くただ淡々と「…悪ィ、壊しちまった」と言いのけた。
 冷静な振る舞いに、粉々に砕けた破片に、ショックを受けた。いつも見ているその仏頂面がその時の梛には酷く憎らしく思えて、けれど罵倒し倒すわけでも無くキッと睨み付けた後子供は冒頭の台詞を吐いて今は艇のどこかで執務中だろう母の元へ駆け出した。

 花礫がオルゴールを不注意で破損したことに腹を立てたんじゃない。
 悪気が無いことも分かってる。だけどあのオルゴールは、去年の誕生日に梛が花礫から貰った唯一無二の大切な宝物だったのに。両親が仕事で夜遅く、一人で留守番していた時も常に側にあって心を癒してくれていたかけがえのない物だったのに。
 ぱぱがボクにはじめてくれたやつなんだよ? それすらわすれちゃったの? 何にも代え難い想い出すら踏みにじられた気がして、梛はどうしても激情を抑えることが出来なかったのだ。
 だから、「どっかにいっちゃえ」。
 そんな言葉を考えなしに放ったことを梛が後悔する羽目になったのは、翌日與儀が血相を変えて自分を連れ、研案塔にたどり着いた時だった。

「……ままっ」
「………梛……」
「梛くんも、花礫くんの家族だから…一緒に居た方が良いと思って勝手に俺の独断で連れてきたんだ。ごめんね」

 待合室に駆け込んできた幼い息子の姿に名前は瞠目して、されど後ろからついて来た與儀の言葉に合点がいったように瞳を伏せた。
 ううん、と覇気無くかぶりを振ったその顔色は冴えない。滅多に見ない母の憔悴した様相と手術中のランプを前にして、梛はようやく與儀と羊が話した最悪の事態を飲み込む事が出来た。

 花礫が瀕死の重体で研案塔に搬送されたのはおよそ一時間ほど前のことだった。
 元々彼の主だった仕事は政府が目をつけた敵の懐に潜入し、情報整理及び操作撹乱、のちに確証を得て貳號艇や壱號艇に応援を呼ぶ。そして機会と頃合いを見計らって家宅捜索の手引きをする重要な役回りだ。
 周りは四面楚歌であり危険度の高い任務だが、少年時代闇に近い場所で生きてきて、更にクロノメイである程度護身術を体得していた花礫はこれまでも無事に務めを果たして帰還していた。
 なのに今回は何の不手際が生じ、歯車が狂ってしまったのか。やって来た手筈通り内密に事を進め、総指揮を請け負う平門に花礫から連絡が入って貳號艇が一斉捜査に踏み入った矢先、爆発音がしたと思ったら繋いでいた花礫の声は聴こえなくなってそのまま通信は途絶えた。

 次に彼らが目の当たりにしたのは、顏を真っ青に染めた名前が血に濡れグッタリとしている花礫へ懸命に目を綴じてはダメだと声を掛けながら救命処置を施している光景である。
 今は燭に指示され花礫の血で色も変わった仕事用のスーツを脱ぎ普段着なので待合室に居ても驚かれることは無いが、服装と同じように名前の気分も改まることは無かった。

「……ボク、が…ヒドいこと言っちゃったから……だから、ぱぱは…っ」
「……梛? 何言って…」

 ボソボソと嘆くように梛が呟けば、いまいち聞き取れなかった名前と與儀は訝しげに眉を寄せる。
 俯いて小刻みに震える子供に目線を合わせて、名前が顏を覗き込もうとするとそれよりも早く梛が項垂れた頭を上げて掠れた声を振り絞った。

「ぱぱにどっかいっちゃえってボクがきのういったから! だからっ、だからかみさまは、ぱぱをてんごくにつれていこうとしてるんだ…!!」

 花礫譲りの黒曜石の瞳には涙が一杯に溜まっていて、でも逞しくなれという父の言いつけを守ろうとしているのか意地でも雫を溢そうとはしない。
 きつく歯を食いしばって、小さな手が真っ白になるほど強く握って、何が何でも崩れようとはしない。しかしそんな頑とした意固地な態度とは裏腹に、やはり弱々しい声は正直に梛の悲痛な心情を物語っていた。

 名前は我が子の痛ましい姿を見て、息を飲む。
 涙の代わりに溢れた、消化しきれない自分への憤りと過去への憂い。
 どんなに悔やんでも言ってしまったことは変わらないし、壊れたオルゴールが治るわけでも無いけれど、それでも梛が花礫を想って涙は流すまいと躍起になって踏ん張り己を責め続ける姿に────名前は目の前の身体をひしと抱き締めた。

「……っく、ま、ま……?」
「大丈夫……パパは死なないよ。天国にも、どこにもいかない」
「だって、ボク……」
「ばっかだなぁ、あの花礫くんがどっかに行けーってちょっと除け者にされたくらいで本当にどこかに行っちゃうような人だと思う? きっと花礫くんのことだからそんなの知らねーよ俺の領分だしって言ってずっと梛の傍に居座ってるよ」
「………ほんとう……?」
「ほんと。だって誰よりも負けず嫌いで天の邪鬼でええカッコしいで意地っ張りで…とても責任感の強い、やさしい人だから。こんな今にも泣きそうな梛を、置いてくハズ無いじゃない」

 その暖かみと信頼が込もってる言葉に、いよいよ我慢出来なかった梛は堰が外れたかのように名前の肩に顏を埋めて静かに泣いた。
 男が声を上げて泣くのはみっともねえからヤメろとこんな時でもそんな風に言う花礫が簡単に想像出来て、嗚咽も、出来るだけ喉の奥で押し殺して。ゆったりと背中を撫でてくれる母の手の温もりを感じながら、梛は一刻も早くぱぱがまたいつものようにボクのあたまをなでてくれますようにと一心に願った。

 「名前…」。心配そうに窺ってくる與儀に名前は気丈に笑ってみせた。
 かつて自分は花礫と付き合う前、花礫自身にこう言ったことがある。闘員として政府に属し能力者と対峙している以上、いつ何があってもおかしくは無いから自分は後悔の無いように生きていると。好きなことを好きにやって、伝えたいことは全力でぶつけて。自由に、奔放に、生きてきたつもりだった。
 けれどそんなのは所詮言い訳に過ぎなかったということに気付いたのだ。
 敵に屈し、されどなお生きようと、足掻こうとするだろう自分の為に用意しておいた、今生或いは相手に対しての未練を断ち切る為の理由。自分は言いたいこともやりたいことも全て出し切った。
 思い残すことは…無い。そう、最期は綺麗な思い出のまま飾ってフィナーレを迎えられるように。

 (後悔も何も残さずなんて、そんなの出来るワケ無いのにね)

 名前は任務で命を落とすこと前提で仕事をしていた。毎回遠征に赴く時は、何らかの覚悟を決めて艇を出るようにしていた。
 実際今の花礫のように何度も死にかけたけれど、奇跡的に助かった。ならば自分だけじゃない、彼にだって奇跡は起こる筈。
 そう揺るぎない確信のようなものと共に、名前は震える愛しいあの人との息子を殊更強く抱き寄せる。「帰ってきたら、たっぷりパパにお説教してあげようね」。ぐすぐすと鼻を鳴らす梛に穏やかな口調で言えば、「ん!」と少しだけ元気を取り戻した子供が威勢良く返事した。

 ──すると程なくしてやっと手術中の点灯していたランプが消えて、中からは疲れた表情の燭が名前達の姿を見付けるなり歩み寄って来た。

「手術は成功だ。まだ麻酔が効いていて意識も朦朧としているがかろうじて話せる。ごく僅かな時間しか面会は許されないが…顏だけでも見せてやれ」
「っ……ありがとうございました!」
「それじゃ、早く中入ろうっ」
「待て與儀。お前は健診がある、来い」
「……ええっ!? いっイヤ俺も花礫くんが気になりますし〜…」
「……私の言うことが聞けないのか?」
「うっ、うぅ……ハイ……それじゃあ名前、花礫くんにヨロシク…」
「あーうん、了解……」

 頑張れ、と苦笑気味に伝えると與儀は心底切なそうに顏を歪めて泣く泣く白衣を翻した燭の後を追いかけていった。
 代わりに此方です、と親切な看護師に案内されて花礫が横たわるベッド、集中治療室の奥まで二人一緒に導かれる。
 酸素マスクとたくさんの機械に繋がれ包帯だらけの花礫の姿は胸が痛むが、名前は敢えて「まるでミイラみたいだね」と揶揄することで暗くなりそうな空気を吹き飛ばした。
 うっせ、としゃがれた声で一拍置いた反論が返ってきて、なんとか危機一髪を脱した様子に心から安堵した梛は彼の傍に駆け寄る。

「ぱぱっ……ぱぱ、ごめんなさ…!」
「……ンだよ……また泣いてんのか…? そのうち目ェ溶けて腐るんじゃね……」
「だ、って、だってボク、ほんとにぱぱがしんじゃうって……」
「……勝手に殺すな……」

 ハ、と苦しそうに息を吐いた花礫は縁起でもない言葉に冗談でも笑えなかった。
 確かに自分でも無茶を冒した自覚はあるし、今回ばかりは死すら覚悟した。当然死ぬつもりは更々無かったけれど。全身麻酔の後で感覚が朧げな手に子供の手が触れ、その上から二人の手を纏めて包むように重なる女の手に、体温に、花礫はこの時初めて帰ってこれて良かったと身に沁みて痛感したのだった。


 ──それから二日ほど経過して。集中治療室から普通の個室へ移された花礫はまだあちこち動き回ることは叶わないものの身体を起こす事は出来るようになっていた。
 全治一ヶ月の大怪我。脚も折れているが研案塔なら骨折しても速く治るよう骨の再生促進を促す機械が完備してあるのでそう時間は掛からないだろうと見積もった結果がひと月だった。
 十分長ェよ、と苦虫を噛み潰した顏で花礫は悪態ついていたが、梛は「その間ぱぱと居られる!」と大喜び。今日も名前と一緒に暇を持て余す花礫の見舞いへ訪れていて、現在は花瓶の水を変えて慎重に運びながら病室へ戻っている最中だった。

 行く先々で看護師や女性の研究員から菓子を貰ったのでポケットがパンパンに膨れ上がっている。
 これをぱぱにもあげたら早くなおるかな、と思いながら浮き足立った足取りで病室の前にたどり着くと、中からはヒソヒソと声が聞こえてきた。
 気付かれない程度に扉を微かに開いて、隙間から中の様子を探るとそこには花礫の首に縋るように抱き付いてる名前の後ろ姿と、名前の背中に添えられる一本の逞しい腕が見える。腕は言わずもがな花礫のだろう、流石に今の二人の間に割り込んでいくのは場違いな気がして、梛は暫し覗き見を続けた。

「……もう少し、早く着いてれば…っ」
「、あのなぁ、とやかく言ったって仕方ねえだろ。元はと言えば俺が合流の合図に気付くの遅れて敵に見つかっちまったのが悪ィんだし、お前がそんな自分を責める必要はねーだろ」
「でも……っ!! …っ今回は、もう、ほんとにダメかと思った……止血しても血は止まらないし、花礫くんの意識はほとんど無かったし…ここに運ぶ時だって、間に合わないんじゃないかって…」
「……死ぬワケねーだろバカ女。こんな泣き虫二匹も置いて俺だけあの世に逝ったって心配でおちおち成仏も出来ねぇ。むしろ引き留めるのが狙いだろお前ら」
「んなの知らないわよぉっ…! 例え花礫くんが死んだって常世まで迎えに行って叩き起こしてやるんだから…!!」
「……本気でやりそうだから怖ェんだっての。だいたい俺は、」

 死ぬんだったらお前より後にって決めてんだよ。

 それは、一人にしたらきっと泣いてしまうだろう彼女を想っての言葉だった。

 衝撃の発言に硬直した梛は、呆然と見つめているとふと名前の肩越しに花礫と目があった。啜り泣きが響く傍ら、花礫は名前の背中に回していた手で自分の唇の前に人差し指を立てしー、と口角を上げる。
 母の不安を受け止める父の姿は、なによりも頼もしくて、格好良くて。

 一生掛かっても敵わない、と、悟った。


それが無上の愛だと知ったとき

 どんなに散々な喧嘩をしようと酷い事を言われようとそれを笑って許せるのは、そこに愛情が存在するからなのです。
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