「……ハァ?」
「ちょ、ちょっとイヴァ。何もそんなあからさまに面倒臭そうな声出さなくても…」

 チラリとツクモが気遣わしげに名前を一瞥すれば、彼女はやはり項垂れていた。というより自分達に相談があると話を持ち掛けてきた時からちっとも姿勢が変わっていない。
 一体どうしたものかと、少女は両手で自らの顔を覆い隠す友人の姿を見て戸惑いがちに嘆息を落とした。

 イヴァやツクモを己の部屋に招き入れ、珍しく深刻な面持ちで悩みがあるの、と告白してきた名前に二人は息をこらした。
 普段あっけらかんと振る舞っている彼女が、今のように真剣な声音で心情を吐露するなんて事は滅多に無かったから。余程の悩みなんだろうと、二人は頼られていることに嬉しさを感じながら、席に着いて瞳を伏せる名前を見つめた。
 重々しく口火を切って出された人物の名は予想の範疇と言うべきか、最近彼女自身とめでたく結ばれた黒髪の少年だった。なんだなんだ、また何か一波乱起こったのか。自然と厳しくなる女性陣の顔付き。
 (あのガキ、この子傷付けたら容赦しないって警告したわよね)
 そうイヴァが舌打ちしたのも最初だけ、実際名前の口から訊かされた内容は彼女達が思い浮かべた想像とは打って変わって二人の意表を衝くものだった。

「花礫くんにね、触れないの。あ、いや、自分からは平気で触れるんだけど、触れられるのが駄目っていうか、何と言うか」

 恥ずかしそうに斜め下に外される視線。
 白い頬は淡く色付いていて、尻すぼみにポツポツと発された発言にイヴァは次第に脱力した。
 何を言うかと思えば下らない、身構えて損したと凝った首を回す。ツクモは苦笑。一気に緩んだ微妙な空気に居たたまれなくなったのか、名前は掌で顔を覆い隠した。
 今までこんなに肩身が狭いと感じることはあっただろうか。容易く一蹴されることを承知の上で勇気を振り絞って打ち明けたものの、湧き上がる気恥ずかしさといったら。

「なに、触れられるのがダメってどういうことよ?」
「……も、ね。心臓が痛いの」
「っどこか悪いの!?」
「ちっ、違う違う! そういうことじゃなくてね!」

 咄嗟に声を荒げて立ち上がるツクモに慌ててかぶりを振り、落ち着いて再び腰を下ろした少女を見て申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「そういうのじゃなくて、花礫くんのそばに居ると胸がきゅうってなって苦しくて、手が震えてね、目もろくに合わせられないの。あっ、だけど前みたいに怖いって感情はなくて!」

 ただ恥ずかしくて、付き纏っていた以前のように花礫を直視出来ないのだと名前は言う。
 ハイハイ御馳走様、心底呆れ返るイヴァは心中紅茶を嚥下しながら呟いた。とはいえど此処で退室する、という考えは当初から彼女の選択に無い。
 仕方ないから心ゆくまで可愛い妹分の相談に付き合ってやるかと腰を据えた。

「ようやく想いが実ったんじゃない、普通触れられるのは嬉しいもんじゃないの?」
「…ううん。やっと、だからだよ。今までは私が求めてただけで、花礫くんから求められるって事は絶対に無かったから…」
「…じゃあ名前は、別に花礫君から触れられるのがイヤって訳じゃないのね?」
「っむしろ嬉しいよ! でも、どうしても胸が擽ったくて馴れないっていうか…まだ、夢なんじゃないかって信じられないの」

 まるで宝物を扱うかのように触れてくる温もりが、時折酷く胸を締め付ける。
 片思いの時のように苦い想いではない、甘く柔く、真綿のように身動き出来ない名前を包む。
 晴れて恋人となった現在でも日頃こそ粗暴な扱いをされることが多いが、出逢った初めのように冷たく突き放されることは無く、時にこのまま窒息して死ぬんじゃないかと怖じ気づくほど愛されることもある。

 求めてきた、縋ってきた、その温もりに。
 だけどいざ花礫から求められると、今までに蓄積されてきた膨大な想いの量に自分が押し潰されてしまいそうで怖かった。もし、もし彼が愛想を尽かして私から離れてしまったら。今度こそ自分は耐えられない。
 一度離れたからこそ痛感した苦しみ。付き合った以降も出来るだけ最低限の距離を保って接する名前に、少年がどれほど隔靴掻痒としているかは露知れず。
 他人にさほど興味を持たなかったあの花礫がどれだけ彼女に執着しているか、事情を全て隈無く把握しているツクモは二人の不器用な恋模様に微笑ましげに目尻を綻ばせた。

「名前は本当に花礫君のことが大好きなのね」
「すき、すき、だいすき。死ぬほどすき」
「ソレ、直接花礫に伝えてやんなさいよ。あいつ両手上げて喜ぶんじゃない?」
「えええ…キャラ違うよ…」
「比喩よバカね」

 手を繋ぐのも精一杯だなんて、なんて初々しい。
 名前にとって花礫の温もりは、毒のような物なのだろう。ジワジワと自分の中を浸食していって、雁字搦めに飛び立つための翼さえ絡め捕られて、底なし沼に浮き上がること無く沈められていく。宣言通り、花礫は彼女を繋ぎ止めたのだ。
 恋は落ちた方が負けだというけれど、この場合は両者引き分けとなるのだろうか。詰まるところお互いべた惚れなのだから、どちらの方が好きか、なんて想いの丈を比べるのは団栗の背比べ。
 五十歩百歩の優劣着かない諍いだ。
 傍観する分には楽しいが巻き込まれるのはいささか頂けない。イヴァは憂い気に頭を抱え、ツクモは新たな心配事の種にどう対処すべきか考え倦ねている。
 ……も、惚気も程々でいいわ。
 砂を吐きそうなほどの贅沢な妹分の悩み事に、イヴァはほとほと呆れ果てたのであった。


それただの惚気ですよね
(×悩み ○惚気)



 最近新たに頭を悩ませる問題に、少年はおもむろに溜息を吐いた。
 名前と記憶の最後に会話を交わしてから早いもので丸二日、それから任務に出掛けている訳でもないのに彼女の姿を目にすることもない。また一方的に避けられている気がすると、苛立たしげに花礫は爪先で机にリズムを刻み舌を打った。
 最早物騒な顔付きになっている少年に近くで昼食を取っていた與儀が何事かと身を竦ませる。嫌でも視界に入る貧乏揺すり。
 障らぬ神に祟りなしとは言うものの、このまま放置すればいずれ被害を被るのは自分だろう。それが遅いか早いだけの話だ、ならば今の内に解消しておいた方が後々安心だと與儀は恐る恐る声を掛けた。
 刹那「──あ゛?」と返ってくるドスの利いた声。到底年下だとは思えない剣幕に心がポッキリ折れそうになった。しかしどんなに尻尾を巻いて逃げたくなっても放ってはおけない、與儀は自分を奮い立たせて果敢に立ち向かう。勇者だ。

「な、何か悩み事でもあるの…? 皆の味方であるこのニャンペローナが何でも聞くよ!」
「チェンジで」
「ひどいっっ!!」

 取り付く島もなく勇者はボスに切り捨てられた。慈悲もない。しかしあんな猫の着ぐるみに相談なぞしたくないという花礫の気持ちもごもっともだった。
 重く漂う沈黙に行き場の失った手を下げて與儀は柄にもなく途方に暮れた。普段何が起こっても飄々としている花礫がこんなに落ち込む姿は稀にしか見ない。

 貳號艇にいる限り制限された自由の中、せめて憂い事があるなら出来る限り払ってあげたいと與儀は思うが、花礫にとっては余計なお節介にしかならないのだろうかと考えると迂闊に話を切り出す機会もない。
 こんな時、平門やイヴァといった弁に長けた大人勢が居てくれればこうしてただ徒労に時間が過ぎることもなく、いとも簡単に花礫の本心を晒け出すことも出来たのかもしれないが、生憎自分はそんなスキルは持ち合わせていない。だったらありのままぶつかるしかないと意を決し、嫌がられることを覚悟の上で花礫の真向かいに座ったが、意外にも一瞥されただけで何一つ言われることは無かった。
 如何にも諦めない、という眼差しで熱心に自身を見つめてくる青年の態勢に根負けした花礫は顰め面のままやがて不承不承と口を開く。

「お前、名前の居場所知ってる?」
「へ? 名前?」

 思ってもみない名前に與儀がポカンと口を開いた。気まずそうに花礫が目線を逸らす。

「え、ああ…名前とは今朝会ったけど……?」
「どんな様子だった?」
「別にいつもと変わんなかったけどなぁ…仕事とかも療養の為にデスクワーク以外暫く入ってないみたいだし、今日は一日オフだ〜って笑ってたけど」
「……チッ、やっぱりか」
「(…え!? もしかして俺なんかマズいこと言っちゃった!?)」

 強いて言うなら名前の身に火の粉が降りかかるだけである。うっかり放った無自覚の失言に冷や汗を掻く與儀とは対照的に、少年の苛々ゲージは塵を募らせていくばかり。名前が花礫を避けているのはもう明確だった。

 (……何が理由かは知らねえけど気に食わねえ)
 ただでさえ彼女は自分が想いを告げてから距離を図ろうとしている。手を取ればたちまち強張る体、キスしようと迫れば顔を赤くして上手く躱す。全く小賢しい知恵を付けたものだと歯噛みする。
 その癖自分からは理性の箍と戦っている花礫など意にも介さずくっついてくるのだからタチが悪い。
 好きな女に触れて何が悪い。
 二日も声を聞いていない、顔を見ていない、温もりに触れていない。花礫の我慢は疾うに限界だった。

 一日オフなら部屋に居るだろうと臆測して、思い立ったように重い腰を上げた少年を見て與儀が紫苑色の瞳を丸くする。
 行ってくる、低く据わった目で呟いた花礫に頬を引き攣らせ、若干後退りながら手を振った。
 ──ごめん、名前。
 いつかのように合掌する。本気になった少年に挑むほど自分は命知らずでは無い。
 あとは赤ずきんが牙を磨く狼に骨の髄までしゃぶり尽くされるだけ。憐れな彼女が恐らくまもなく辿るであろう末路に、與儀はただただ一心に成仏を願った。
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