「…ツクモちゃん…俺、明日には息してないかもしれない…」
「いったい何があったの與儀!?」
ついぞ見たことが無いほど悄然しきり、今にも死にそうな面持ちを覗かせる仲間の姿に、ツクモはたちまち瞠目した。
「あのね…」
ポツリ、與儀がニャンペローナ人形を腕に抱いて鼻を啜りながら先程合った出来事を打ち明ける。
現在貳號艇は事件を無事解決した暁に、協力を得た街の人間に礼として近々盛大なショーを振る舞う予定だった。ツクモや與儀も例に漏れずその準備に明け暮れていて、通常の任務にプラス備品のチェックや舞台の芝居稽古、衣装の採寸などと様々なスケジュールに追われ目まぐるしい日々を送っていた。
そんな日常の一コマ。
普段よりは忙しなくも到って平和な一日を満喫していたある時、與儀は食堂で一冊の台本片手に悩ましげに頭を抱える名前の姿を目撃した。そう、うっかりと目撃してしまったのだ。この時点で目を瞑り、背を背けてそそくさと立ち去ることが出来ていたなら、少なくとも無闇に死亡フラグが連立することは無かったろうに。慈悲深い優しさが仇となった。
どうしたの?
小首を傾げながら接近を図る。まずは慎重に、彼女が落ち込んでいる理由を探ろうと遠回しに小石を投げてみた。顔を上げた名前は與儀の存在を確認するなり、どう説明しようか考え倦ねているらしい。
頼りなく眉尻を下げ、やがて直接言葉で伝えるより手っ取り早いと携えていた台本を差し出した。
「あれ、これは…今度の劇でやる白雪姫の台本だよね? これがどうかしたの?」
手持ち無沙汰になった指先を絡めて、名前は素朴な疑問に首を捻る與儀から気まずそうに目を逸らした。
──白雪姫。恐らく誰もが知っているだろうポピュラー人気の高い童話の一つ。今回ショーを開催する街には子供が多いということで、難解複雑な物語よりは無難な御伽噺や童話といった誰でも気軽に楽しめる舞台が良いと、満場一致の可決で白雪姫となった。
それぞれ適任となる役に各々振り分けられ、女王がイヴァ、小人が羊、なんと名前が白雪姫という重役を任せられた。ここまではまだ良い。
名前が頭を悩ませる最大の難所とは、白雪姫のラストを堂々飾る王子とのキスシーンにあるらしかった。
因みに王子役は彼女の幼馴染みでもある喰が担う。
喰とキスなんて嫌、死んでも嫌。天と地がひっくり返ってもお天道様が西から昇っても有り得ない。
両手を顔に覆い被せて悲嘆に暮れる彼女に、與儀はどう宥めるべきか暫し狼狽えた。下手な慰めは余計彼女を刺激するだけだ。
フリだけで良い、とは言われたらしい。しかし喰が例え芝居でも妥協は許さないとにこやかに名前に宣告したことから、単なる見せかけだけでは済まない事は確定だった。その裏には若干の下心あり、この手を逃す機会はないと手ぐすね引いて獲物が自ら罠に掛かるのを待つ。全く一枚も二枚も上手な青年であった。
「喰とするくらいなら與儀とするんだから!!」
「えええ!?」
とんだ飛び火だった。
なにをいきなり血迷ったか、突拍子もない事を言い出した名前に目を白黒させた。彼女は思い立つなり席を立ち、あたふたと慌てふためく與儀など意にも介さず大股で近付いてくる。
このままでは確実に唇の純潔が危ういと、與儀は冷や汗を滲ませながら後退った。いや、純潔よりもこんな場面を万が一花礫にでも見られたりしたら命さえ危ぶまれる。両腕で突っぱねる男は懸命に訴えた。
落ち着いて!正気に戻って!
一歩、置かれる距離。
一歩、また詰められる差。
押し迫る厄の種が足を生やして忍び寄る。
いよいよ壁にまで追い詰められ、絶対絶命の窮地に立たされた與儀は覚悟を定めて身を竦めた。所謂壁ドンというものを自分が年下の、しかも恋人持ちである女子からされることになるとは夢にも思わなかった。頬を滑らかな肌触りの指先が辿っていく。ゆっくりと下唇を爪先で撫でられる感触に、男はぞわりと背筋を粟立てた。
──ごめん、花礫くん…!
胸奥を支配する罪悪感とは裏腹にばくばくと高鳴る鼓動。こういった事にはからっきし縁もゆかりも無い與儀に、大胆とも窺える名前の唐突な行動は途徹もなく心臓に悪かった。
ドクン、ドクン。
全身を迸る脈動が鼓膜を強かに打つ。
瞳を固く綴じて、唇が重なろうとした刹那───二人の空気を割くように、やたらけたたましい音を鳴らしてゴミ箱が吹っ飛んだ。
「………随分愉しそうなことやってんじゃねーか……俺も混ぜてくれよ」
…あ、人生詰んだ。
與儀が悟った瞬間だった。
見る見るうちに青褪めていく二人の表情とは打って変わって、花礫の笑みはより一層深まっていく。心なしか口端が引き攣っているように見えなくもない。
これは相当ご立腹、怒り心頭のときに見せるろくでもない笑顔だと身を以て習熟している名前は、いっそ意識を飛ばしてしまいたかった。
尤も自業自得の極みではあるが。
見事に硬直して依然態勢を崩さない男女二人にツカツカと足早に歩み寄り、花礫は與儀を壁に囲む名前の細腕を造作もなく鷲掴んだ。
走る痛みに聊か顔を歪めた彼女などお構いなし。此処は用済みだとばかりに踵を返し、恐怖に足が竦んで身動き取れない名前を容赦なく引きずって行く。去っていく背中に置いてけぼりを食らった與儀は、されど何も突っ込まれなかった事に心の底から安堵した。
──が、まさか現実がそう甘い筈もなく。引き返してきた花礫が不機嫌さを隠すこともなく露呈した表情で告げた言葉により、どん底へ突き落とされた。
「お前にも後で話あるから。絶対逃げんなよ…?」
「…………ハイ」
涙を飲んで了承し、その場は一先ず事なきを得て命からがら難を逃れたのである。
「…それは……」
「っどうしようツクモちゃん!! 俺はあの時どうしてれば良かったの!?」
藁にも縋る思いで自身の肩を揺らす與儀の姿に、ツクモはばつが悪そうに目線を逸らした。問いに対する答えは生憎自分は持っていない。というか誰もが口を濁すだろう。過ぎたことを悔やんでも全て後の祭り。
あのバカップルに関して万事は尽くしたんだ、今更手の施しようもない。となると與儀に残された唯一の手立てとは、やはり。
「怒られるしか…ないんじゃないかな……」
「ツクモちゃん!?」
ツクモでさえ素直にほぞを固めろと匙を投げた。ガクリ、案の定希望など微塵の一欠片も余っていない。現実とはこんなものかと抱いた人形を涙で濡らす。
二人が幸せになってくれたならば良い。ただ先の一件は自分は巻き込まれただけで、一切疚しいことはしていないと胸を張って豪語する。なんなら全力を以てしてでも身の潔白を証明しよう、だから。
憂さ晴らしに俺を使うのは止めて下さい。
床に蹲まる與儀は己の膝に顔を埋めて切に願った。
勝手にヤキモチの対象にしないでください(とばっちりを食らうのは御免です!)
「イイ度胸してんじゃねえか」
──俺のことはいい加減懲りもせずに避けるだけ避けといて、自分は仲睦まじく與儀とお楽しみ中ですってか?
ふざけんな、冷たく吐き捨てた花礫にびくりと顔を背けていた名前の肩が小さく揺れる。
部屋に着くなりいきなり寝台に押さえつけられ出口なしの状態に直面した名前は、口付けの嵐に見舞われ息も絶え絶えに抵抗する術さえ掠め取られていた。
こっち向け、と顎を無骨な指先に捉えられて、再び上から唇が降ってくる。
もう限界だと奥で縮こまる舌は、情けが掛けられることなく遠慮なしに絡め捕られた。虱潰しに名前の咥内を満足に貪っては好きなだけ蹂躙していく。
思考も理性も根こそぎ奪って、あたかも弁明する余地など与えないというように花礫は赤い果実をここぞと堪能しむしゃぶり尽くす。
「ン、んん、〜っ! ふ、んぅ、」
「ん、……ハ、」
ちゅ、ちゅぱ、じゅる。
何度も何度も唇を舌を吸われ甘噛みされ、あまつさえ零れる唾液までも逃さないと無造作に舐められる。
口から洩れる吐息が重なり合って空中に融けたそれは熱気と籠もって、理性の枷が外された二人の背徳感のようなものを殊更煽り立てた。
くらくら、朦朧とする意識。
先程まであんなに飛ばしてしまいたいと心の底から祈っていたのに、今はこの苦しくも心地よい感覚にいつまでも浸かっていたいとさえ思う。
矛盾している、ことはどうでも良かった。
最後に思い切り下唇を吸われて、惜しげに温もりが離れていく。その感覚にあ…と夢見心地で距離を取る唇を見ていると、花礫から「物欲しそうなカオしてんじゃねえよ」と押さえられている手の平に爪を立てられた。これが中々痛気持ちいい。
「……あいつとは何回したんだよ」
「ふ、へ? あいつって與儀? 何回って?」
「白々しくとぼけんな。…キス、してただろうが」
如何にも気に食わない、と虫の居所が悪い様子の花礫を見て、はて、と名前が内心小首を傾げた。
確かにキスしようと迫ってはいたがまだギリギリ未遂だ。名前からすれば冗談のつもりだったし、直ぐ離れる予定だった。しかし花礫の居た出入り口からは見ようによってはそう映ったかもしれないと直ぐに結論が思い至った。
……もしかしてヤキモチ?
どことなく嬉しそうに言問う名前の唇は直ぐさま一度離れた温もりによって塞がれた。肯定しているとしか思えない行動に名前の頬は自然と弛みきっていく。
「…ふふふー」
「、ンだよ気色悪ぃな」
「すき、ほんとすき。花礫くんしか見えないもん」
「ウソくせー」
「信じてよ。本当に好き、大好き。私はただ花礫くんのそばに居れればそれで幸せ」
「…俺のはそんなキレイな感情じゃねえよ、バーカ」
近くに居れば当然触れたいと思うし、他の男と笑って話してるお前を見るとメチャクチャにして泣かせたくなる。現に名前を狙っている喰と一緒に居る所を見ると、焦りで気が可笑しくなりそうになるんだ。
「どうしてくれんだ、こんな、──…こんなに好き勝手振り回して、俺ん中散々掻き乱していきやがって。ホンット腹立つ。お前も、何よりお前のことになると余裕を失う自分も一番ムカつく。もうこうなったら最後までお前が責任持てよ。俺は知らねえぞ、知らねーからな。今更嫌だの御免被るだの泣いて暴れても地獄まで付き合わせるからな。大人しく腹括って、死んでも俺の手離すんじゃねーぞ」
「……ん、そのつもり」
珍しく饒舌に語られた花礫の胸の内に、名前は心からいとおしそうに微笑んだ。喉から手が出るほど焦がれたものが、今確かにここに在る。
寧ろ求めた以上のものを彼から沢山貰って、これを幸せと呼ばず何と呼ぶのだろうか。
癖っ毛の髪から垣間見えた耳は赤く染まっていて、けれど指摘したら花礫は隠そうと離れてしまうだろうから口にはせず。変わりに名前は有りっ丈の愛情を籠めて、今度は自分から少年に口付けた。
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