だって、偶にどうしようもなく漠然とした不安に駆られるの。擽ったくて、満たされて、幸せだからこそ今の現実が夢物語なんじゃないかって。真夏の陽炎が魅せる蜃気楼のように、いずれ儚く消え失せてしまうんじゃないかって。
 歴とした確証みたいなものが欲しくて、欲深な私はキスだけじゃ物足りなくなって。
 勿論花礫くんはまだ若いし、そういうコトは早いって解ってはいるんだけど、当然理解した上でちょっとした出来心が湧いたというか。ほんの僅かな期待も膨らませ、ある時鎌をかけてみた。すると、

「ハ? ……ああ、別に俺おまえに欲情するほど飢えてねーし」

 ただただ愕然とした。途轍もない衝撃だった。
 求めることが彼の言う欲情に繋がるのだとしたら、私だけが花礫くんに欲情しているのかと。所詮は独り善がりにしか過ぎない一方通行の願望だったのかと。
 もっとも私が求められていないという訳ではなく、花礫くん自身も深く考えずに放った発言であって、特別他意はなかったんだろう。
 だけれどハイそうですかーとすんなり簡単に納得出来るほど、子供でも無いけど大人にも成り切れていない私はつい頭にカッと血が上って。
 花礫くんのバカ! 分からず屋! 女の敵ー!
 なんて好き勝手に一方的な捨て台詞を吐いて、呆気に取られた様子の彼を置き去りに後先考えず脱兎の如く逃げ出して来てしまったのだ。

 ──はぁ、憂鬱な気分で溜息を吐く。
 みっともなく大人気ないところ晒しちゃったなぁ。でも花礫くんの言い方にももう少し優しさというものがあっても良かったのに、欠片も見当たらなかったと名前は項垂れたまま勢いよく机に突っ伏す。
 額が机にぶつかってゴン、と脳味噌全体を揺らした鈍い衝動は、幸いにもごちゃごちゃと二転三転とする思考回路を冷静にもさせてくれた。

 いつからこんなに贅沢になってしまったのだろうか。最初の頃は側に居れるだけで満足していた。
 與儀たちに見せるような笑顔を向けられることは無かったけど、歩幅二歩分の距離は必ず保たれていたけど、花礫の視界に映るだけでも、間近で声が聴けるだけでも至福の一時だった。
 ──ところがどっこい、今ではどうだ。
 抱き締められたい、手を繋ぎたい、キスをしたい、あろうことかもっと先のことも? もし数ヶ月前の自分が耳にしたら卒倒し兼ねない尊い願いである。
 改まって前とは違うんだと、今の充実した現状と通り過ぎた過去を較べてグサグサと胸に破片が突き刺さる。徐々に自分の身勝手な都合で花礫に当たってしまった事が申し訳なくなってきた。しかし今更すごすごと謝りに行くのもなんか癪だし、それこそ年上としての面目が丸潰れになってしまう。
 ここに進退窮まりか。途方に暮れながら名前が暫く頭を抱えつつうんうん唸っていると、

「…ああっもう! さっきから鬱陶しいですねぇ!」

 我慢の限界、とばかりに真向かいに面して座っていたキイチが声を張り上げた。
 ヴァントナームでの事故一件以来会っていなかった二人は、今日久しく待ち詫びた再会を果たしていた。
 というのも退院祝いとしてキイチが珍しく自ら貳號艇に赴き、果物や花束など様々な見舞い品を携えて名前の元を訪ねたのである。けれどちょうどタイミングが悪かったのか、キイチが部屋に足を踏み入れた時には名前はもうこんな萎びた状態だった。
 一難去ってまた一難。嵐が無事過ぎ去ったと思えば新たな暗雲が空を覆う。
 いい加減にしやがれですぅ。勝手気ままに振り回される方は到底堪ったモンじゃないと、キイチは心底疲れ切った様相で肩を竦めた。

「そんな風にウジウジとウジ虫みたいに悩んでる暇があったらとっとと行動しやがれですぅ。いつもの暑苦しいなにくそ根性はどこにいったんですかあ?」
「ひいいキイっちゃんやめて、それ以上私の心を抉らないで!」

 まさに泣きっ面に蜂である。
 一寸の慈悲なく浴びせられる言葉の刃。正論というのは時に残酷なほど心を穿つ道具になり兼ねない。そんな勇気と行動力があったら端からこうして机に打ち拉がれていないと落胆する名前には、年上としての面目どころか威厳さえ形無しだった。
 面倒臭いことに遭遇したと、キイチは出来るものなら時間を遡って艇を発つ頃の自分に戻りたいと思いを馳せたが、ずっとこの一本調子で居られるのも煩わしい。あくまでも渋々、不本意ながらという姿勢は崩さずに脚を組み替え、名前が独り言のように洩らしていた不満を脳裏で反芻し花礫の意図を図る。
 なんて言っても元々彼とキイチは折り合いが付かない仲だし、二人で話すこともなければ顔を合わす機会とて片手で数えるほどしか無い。そんな希薄な関係でしかない立場上の自分に、まさか花礫が考えていることなど推し量れるはずもなく。

「……知ったこっちゃないですぅ」
「キイっちゃん!?」

 救いを乞い縋りつく名前の声さえかなぐり捨てて丸投げした。我関せずと脱力してソファーに悠々と凭れた少女の姿に、やや前のめりになっていた女の顔が悲愴に歪む。まるで棄てられた子犬のようだと口にはせず、素知らぬフリで出されたティーを優雅に啜る。
 芳ばしいハーブの香りは恐らく喰が丹精込めて育てたものだろう、相変わらず世話が焼けるどこかの幼馴染みには甘いのだと心の中で一人ごちた。
 ちらりと飲物を嚥下しながら名前の様子を窺うと、彼女は依然沈んだ面持ちでティーカップをクルクルと回していた。無意識に意味もない行動をしている辺り相当思い詰めている模様。
 いったい何がそこまで不服なのかと、キイチはカップをソーサーに置いて率直に尋ねた。

「……私、確かに色気とか自分でも無縁の言葉だなって思うし、胸だって、ちょっとしか無いし…。いや、喰には無いどころか絶壁とか言われたけど」
「喰くん…」

 最低ですぅ。キイチは同じ艇で働いていた仲間のしたり顔を思い浮かべ心底軽蔑した。

「それでも、花礫くんを好きな気持ちは誰にも負けない自信はあるの。だから触れたいし、触れてほしいって思うし」

 …だけど、それはやっぱり私だけの想いなのかな。
 より深い繋がりを求めてもっとと貪欲になる。
 焦ることは何も無いのに、花礫の心に身を委ねて、遅かれ早かれ来る時が来ればその時は任せれば良いと解っているのに。逸る心は収まらない。

「花礫くんって、ほら、まだ十五歳じゃない? 外見だってあの通り格好良いし、正直その気になれば女の子は選り取り見取りだと思うの。だから、その」
「何ですか。つまり、あの人がいつか年増である自分なんて捨てて離れて行くんじゃないかと?」
「ギャア年増って言わないでっっ! 確かに花礫くんとは五歳差だけども!! 花礫くん二十歳の時私二十五だけど!!」
「……うわぁ……」
「あれドン引きされてる」

 因みにキイチは童顔ではあるがこれでも一応花礫と同い年な為、彼女が二十歳を迎えた時も名前は二十五歳である。
 それまでには多少なりとも落ち着きを持っていてほしいが、余裕綽々とした名前なんて全く想像が付かないとキイチは口端を歪に攣らせた。
 ……何はともあれ、そろそろ扉の外にある二つの気配が待ちくたびれたようだ。
 気怠げにその蠢く二人へ向けて仕方なく声を発すれば、気付かなかったのか驚いたようにたちまち瞠目する名前の表情。輪の人間として気配に疎いのは頂けないが、今回限りは目を瞑ろう。
 そして扉の向こうから顔を出したのは、いかにも肩身狭そうに苦笑いする與儀と露骨に面白くないという顔をした花礫だった。
 二人の姿を目にするなり名前が頬を引き攣らせ、立ち上がって後退る。花礫の背後から放たれるオーラは禍々しくも怪しい色を纏っていた。

「ほら、名前さん」
「う…、あの、花礫くんごめんね? さっきは頭ごなしに言いたい放題言っちゃって…」
「……いや……別に、俺も言葉少なかったし」

 これで今回も丸く収まるかと、この場に居た誰もがほっと胸を撫で下ろした。
 ──のも束の間、名前の口から切って落とされた爆弾が再び火花を散らすとは知らずに。

「大丈夫! その、私出来る限り待つし、いつか花礫くんが欲情してくれるよう女磨くから! だからそれまではあんまりお互い深く踏み入らないように、清く正しいお付き合いをしよう!」
「…………ハァ?」

 全っ然、微塵も根本から解決していなかった。
 完全に方向を履き違えた名前はどうやらそれで完結してしまったらしい。
 狐に摘まれたような表情で虚を衝かれた花礫など何のその、モヤモヤとした曇りが晴れて清々したと言わんばかりに吹っ切れた表情をしている。
 ブツリ。いつか聴いた堪忍袋の緒が切れる音を、少年は鼓膜の裏で確かに感じた。

「〜っな、んでそういう結論に到んだよこのバカ! テメエのそのおつむは飾りか何かか、あ゛!?」
「ちょ、いきなり何!?」
「煩ェ! 大体お前はな…!」

 穏やかに収まりそうだった雰囲気も、全く空気の読めない女によって粉々にぶち壊された。そのまま雪崩れるように激しい舌戦に縺れ込んだ二人に、とうとうキイチは呆れ果て與儀はオロオロと狼狽している。

「………あの二人、もしかしなくても普段からあんな感じで?」
「うん、通常運転……かな?」
「全く…どいつもこいつも迷惑甚だしいですぅ」

 喧々囂々と言い交わす二人は気付かない。辟易と頭を悩ませる青年少女の姿など。


痴話喧嘩に巻き込まないでください(聞いてるコッチが恥ずかしいです!)


 因みにこれは余談だが。

「…ねー、何で名前にそんなこと言っちゃったの?」
「シたら離れていかない、絶対安心なんだって保証なんてどこにもねぇだろ。……大事に、してーんだよ。もうさんざん泣かせちまったから、出来る限り泣かせたくねーし、傷付けたくもねー。それに、」

 繋がったら、それで終わりそうな気がして怖かった。確かに名前をそばに繋ぎ止めるには有効な手かもしれない。だけど、

「何より俺が腑に落ちないんだよ。あいつより弱いままの俺で、中途半端なままの俺で、無闇に名前を抱きたくない」

 大切に、したいからこそ。今は、まだ。

「花礫くん……」

 ──ほんと、無器用だなぁ。本人が居ない前では素直に心の裏側を打ち明ける少年に、與儀は微笑ましく口許に弧を乗せた。途方もない言い争いも、きっとあの二人にとっては信頼の証なのだろう。
 なんだか良いなぁ。
 二人を繋ぐ目には見えない糸が與儀には垣間見えた気がして、そろそろ終わりの見えない論争にピリオドを打とうと、せめぎ合う少年と女の間に割り込んでいった。
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