「ただいまより押してダメなら引いてみろ作戦を実行します!」
「……」

 ほんの一時間前、なんの前触れもなく名前から唐突に宣告された言葉によもや呆れて物も言えなかった。
 普通そういった作戦というのは直接本人に明かすものなのだろうか。今度は一体何を思い至ったのか意図は全く計り知れないが、そう開けっぴろげに告げてふんぞり返った女を花礫はナニ言ってんだこいつと言うような蔑んだ目で見ていた。
 確かに避けるなとは言った。が、あらかじめ事前報告さえすれば避けて良いと言った覚えは無い。
 現在進行形で作戦は滞りなく実行されていた。つまりは悉く振り切られていた。

 ──大体何だよ、押してダメなら引いてみろって。もう充分引きっぱなしじゃねーか。昨日だってキスしようとしたら慌てて蜘蛛の子散らすように逃げて行きやがって。ほんと何がしてーんだよあのバカ女!
 自然と激しくなる組んだ脚の貧乏揺すり。頬杖を付いて口許付近に添えてあった指先はいつの間にか自身の下唇に爪を立てていて、離せばピリリと鈍い痛みが走る。どうやら切れる一歩寸前だったようだ。
 苛立たしげに舌を打ち、少し頭を冷やそうと氷の入った水を一気に呷る。
 あっという間に空になったそれをやや乱暴に机に置いて、花礫は目の前に座る男の顔を蛙を見下ろす蛇の如く鋭い眼光で睨み付けた。

「……で、ンな下らねェ入れ知恵をあいつに吹き込んだのは誰だと思う」
「え、え!?」

 ビクッと思いも寄らぬ火の粉が降りかかってきた與儀は咄嗟に身を竦め、花礫からの問いに必死になって思考を巡らせた。
 名前にそんな碌でもないアドバイスをするとしたら、とりあえず與儀の脳裏に浮かぶ人物は二人だけ。先ず一人目はよく名前の相談相手となっているイヴァだった。だが彼女は現在任務で遠征に出ているため艇には不在。という事は言わずもがな除外である。
 残る一人は幼馴染みであり、名前のことを隙あらばと虎視眈々狙っている肉食獣…基い喰だった。
 青年は彼女が少年とくっついた今も何かと名前にちょっかいを出し続けている。恐らく自分に気を引くためだろうが、それら為される行動に当然花礫が黙っている筈もなく、よく廊下でお互いを牽制しあっている姿を與儀は何度も目撃していた。
 ────引き裂くつもりはないよ、邪魔するつもりはあるけど。
 そう語尾に音符が付きそうなほどあっけらかんと笑ってみせた青年に背筋を凍らせたのは果たしていつの事だったか。
 何はともあれ、あの喰ならばやりかねない。しかし正直に口にしたところで今の花礫には火に油を注ぐ行為にしかならないだろう、そうなれば意趣晴らしにと火の手が回ってくるのは確実に自分で。

 (もうあんな目に遭うのは懲り懲りだよー…!)
 前回の名前とのキス未遂事件で痛いほど学んだ。このバカップルに関しての厄介事には巻き込まれる前に旗を巻け、と。出来る限り刺激しないよう如何に上手く伝えるべきか、與儀が暫く考え倦ねていると、

「勿体ぶってないで早く言え」
「喰くんだと思います」

 剣呑とした目つきで凄まれあっさり白旗を上げた。
 なんでいつも俺、こんな役回りなんだろう…。
 涙で心を濡らし縮こまる與儀のメンタルポイントはここ数日で既に赤くなりつつあった。原因は言うに及ばず何処かの誰かさん達にある。
 虚ろな瞳で遠くを見据える與儀の傍らで、花礫は案の定かあのヤロウと悪態を零した。
 忌々しい目の上のたんこぶを排除するにはどうするべきか、やはり闇討ちしかないかと次第に怪しい雲行きへ向かう思考。あちらがやる気ならこちらも容赦はしない、全力で迎え撃つとしたり顔の青年を思い浮かべ瞳を細く据わらせる。

「そもそもアイツもアイツだっつうの。何で喰の言うことになんざ素直に耳傾けてんだよバカじゃねーの。ああわざわざ口にするまでもなくバカだったなそうだ俺が忘れてた。押してダメなら引いてみろだぁ? いつどこでおまえが俺に押してきたんだよ寧ろ前より全然じゃねーかよ寝ぼけてんのか寝言は寝て言いやがれクソやろう」
「……」

 …あの、花礫くん。
 あ?
 それ、俺には足りないって、もっと名前に迫ってきてほしいって言ってるように聞こえるんだけど…。

 的を射た指摘に、花礫の貧乏揺すりがピタリと止まった。どうやら地雷だったようで、少年の顔にはたちまちジワジワと仄かな熱が集中する。

「っるせえ黙ってろ!! あの着ぐるみ燃やされてーのか!」
「ひいいゴメン! 謝るからそれだけは勘弁して!」

 部屋にあるニャンペローナを楯にされ敢えなく撃沈した。理不尽過ぎるにも程がある。
 涙を飲んで與儀が机に突っ伏していると、がなり立てていた花礫が不意に「あ、」と声を洩らした。
 しかし洩らされた声は彼だけでは無く、他の人物のものも同じく重なる。食堂には自分と花礫しか居なかった筈だ。不思議に思い與儀が机から顔を離せば、頬を引き攣らせた渦中の当事者が淹れたばかりの飲物を持って佇立していた。ゆっくり、あくまでもゆっくりと後退していく彼女に、すかさずさせるかと花礫が椅子から腰を上げる。
 その顔はさながら悪代官よろしく、そこらのゴロツキと張り合いが出来るレベルの厳つい形相だった。途端に名前が尻尾を巻いて逃げたくなるのも無理はあるまい。
 手薬煉いて待たずとも獲物がノコノコやって来てくれたんだ、この機をみすみす逃すほど俺は生憎優しくも慈悲深くもねーんだよ。
 心の中で怯える女に舌舐めずりを一つ。禍々しく放たれるオーラを機敏に察した名前は携えていたコップを近くに置き、脱兎の如く走り出した。続け様花礫も全速力で追い掛ける。熾烈な鬼ごっこの幕が開いた。

「與儀君、お疲れ様」
「喰くん…」

 後ろを振り向けば、全ての諸悪の根源である青年が機嫌良さげに笑っていた。否、これはほくそ笑むというのだろうか。間違いなく一人この現状を楽しんでいるなと予測するのはいとも容易いことだった。

「どうして名前にあんなこと教えたの?」
「ああ、あの馬鹿げた作戦のこと? まぁあわよくばって邪な気持ちが無かったとは言わないよ。ただ一番の理由は暇つぶし、かな」

 暇つぶしで人を弄ばないでと言いたかった。
 つまるところ名前を唆し、彼女に避けられ隔靴掻痒とする少年の反応を見て楽しんでいたのだ、この途轍もなくタチの悪い男は。しかもサラリと下心もあったと暴く顔に悪気なんてものは欠片も無い。
 唖然と呆気に取られた様子の與儀を見て、喰はさも不服そうに嘆息を落とす。

「だって腹立つじゃないか。毎日毎日、場所も憚らず人の前でイチャイチャイチャイチャ…何の嫌がらせ? 絶対花礫君は僕に喧嘩売ってるよね?」

 おっしゃる通りだった。
 無論牽制の意を含めて、花礫は見せつけんばかりに喰の目の前でのみ名前に自ら触れている。
 それ以外では二人きりにならない限り滅多に接触する事は無いというのに。あからさまな無言の圧力は、確かに喰にとって効果は絶大だった。

「けど結局無駄骨だったよ。さんざん名前にも惚気られたしね」
「へ?」

 ──私だけ求めて余裕が無い気がして、ずるい。
 だからちょっとでも焦らせたいんだと、彼女は拗ねた口調でそう喰に零していたと言う。

「つまり……」
「さぁ、名前なりの駆け引きってところじゃない?」

 あーヤダヤダ、これだからバカップルは爆発すればいいのに。爆発すればいいのに。
 大事なことだから二回言った。
 疲れ果てた面持ちでかぶりを振った喰に、おもむろに與儀は苦い笑みを零した。被害は甚大、だけど決して見ていて悪いものではない。
 悪いものではない、けれど

「せめて、周りの目も気にしてほしいかなぁ……」

 ぽつり、溢したため息は宙に溶けて消えた。


くっつく前は前で、くっついた後は後でうっとおしい(お騒がせな困ったちゃんたち!)


「ざまぁみやがれ」

 まさか俺から逃げ切れるとでも思いやがったか、ぶぁーか。
 そう表では強気な発言を言いつつも、また花礫こそ名前同様に息を堰切らしていた。
 静かな廊下に二人が呼吸を整える音が木霊する。案外名前は直ぐに捕まえられたものの、この途方もなく広い艇内を全力疾走というのは幾ら体力に自信がある花礫でもさすがに骨が折れた。
 すぅ、と深呼吸して依然気まずそうに目線を彷徨わせる名前をこっち向けと諭す。意識せずとも低くなった声に彼女は肩を揺らし恐る恐る此方を向いたが、その瞳には僅かな戸惑いと緊張が含まれていた。

「な、で……いま作戦中だって」
「…だから何なんだよソレ。なんでそれが俺を避ける理由になるワケ」
「……だっ、て、花礫くんばっかりずるいじゃない」
「は?」

 囁くように呟かれた言葉に、花礫は思わず呆けたようにポカンと口を開けた。狡い、と言われても一体何が狡いのか見当も付かない。
 訝しげに眉根を寄せて大人しく掴んでいた腕を解放すれば、名前はその腕を胸の前に引き寄せてヒリヒリと痺れるそこを片手で擦っていた。

「いつもいつも私だけがあたふたして、余裕が無い気がして……だから、花礫くんを焦らせてみたかったというか、なんというか」
「ンなことしなくともとっくに充分焦って……あ」
「え?」

 うっかり口を付いて出た本音に臍を噛んでも時すでに遅し、瞳を見開く名前の耳にはしっかりと一言一句洩らさず届けられていた。

「もう一回言って!」
「断る忘れろ!」
「お願い!もう一回だけ!」
「ぜってー言わねえ!」

 今更何も言っていないなどと言っても誤魔化しは利かないだろう。
 先程の落ち込んだ様子とは打って変わり腕に縋り付いてくる女の姿に花礫はイヤイヤと首を振る。それでも猶食い下がる名前にいい加減痺れを切らして、舌を打った花礫は易々と彼女の肩を壁に押さえ付けた。

「……ソッチも随分余裕みてぇじゃねえか……」
「ぇ、え。花礫くん?」
「上等だ。そんなに俺が余裕あるように見えんなら見せてやるよ。余裕なんざハナからねえってトコをな」

 ──感謝しろよ? わざわざ見せたくねーとこおまえに晒してやるんだから。
 牙をちらつかせて笑うケダモノの甘い甘い毒牙に掛かった女は、ただただ身に募る危機感に打ち震えた。
 八方塞がり、逃げ場は初めから用意なんてされていない。打つ手も疾うに無し。残る道一つは──。

「……もう、好きにしてください……」
「言われなくとも」

 獣が満足するまで食べ尽くされるだけだった。
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