「いい加減にしろよ」

 自分でも聴いたことのないような冷ややかな声色で吐き捨てれば、目の前の女は虚を衝かれたかのように瞳を見開いた。

 ──我ながら辛抱した方だと思う。
 いくら突き放そうが性懲りもなく自分に付き纏ってくるこの女に何度辟易し、何度堪忍袋の緒が切れるのを踏みとどめた事か。喉まで出かかった言葉を飲み込むのは決して容易なことではなかった。
 燻るやり場の無い苛立ちは日に日に鋭さを増していき、荒む心をより刺々しく形を変えていく。

 だけどそれも今日でおしまい。
 蓄積された忿懣は発散されることなく積み上がり、水を注がれ続けた風船は許容量オーバー、これ以上膨らまずただ水が溢れ出るだけ。
 零れた滴は何を想って地に還るか。そんなの知る由も無い、花礫の我慢は疾うに限界に達していた。
 全身を駆け巡る衝動。
 怒りに我をからめ取られて、今日もまた告げられた彼女の想いを無惨にも踏み躙った。依然瞠目し困惑の色を隠せていない女を見下ろし嘲笑を浮かべる。
 滑稽、だ、自分も、この女も。

「お前の顔見るとムカつくんだよ。大体なに? 俺のことが好きって? どうせ顔だけだろ。俺のこと良く知りもしない癖に顔だけ見て好きになって、ホイホイ付き纏われてもメーワクなんだよ。生憎、俺はお前のこと嫌いだから。────もう金輪際、必要最低限以外俺に関わんな」

 紛れもない、本心からの言葉の筈なのに、花礫は何故か胸が軋んだ。肺が異様に重い、空調でも変わったのだろうか?
 しかし今はどうでもいいこと。言いたい事が言えてすっきりしたと冴え渡る気持ちでさえ居たのに。
 八つ当たりのように彼女につらく当たってしまったことに、徐々に後ろめたさが沸き上がる。こういう時こそ何か言えばいいのに、彼女は頑なに口を噤んだまま何も喋らない。

 チラ、目線だけ動かして様子を窺う。謝る気は毛頭なかった。
 けれどもし彼女が泣いていたら──
(…泣いて、いたら?)
 自分はどうする気なのだろう。

 釈然としない胸の蟠りに眉を寄せる。中途半端な優しさは要らぬ期待を抱かせるだけ、別に何をすることもなく彼女をこの場に置いて去ればいい。
 だって、そうだろ? 自分から望んだことなんだから、寧ろ万々歳じゃないか。
 物思いに耽る花礫を余所に、名前は俯いた顔を上げ笑った。予想外な反応に瞳を見張る。
 心臓がツキリ、音を鳴らした。

「そっか、ごめんね」

 それだけ告げて、彼女は逃げるように踵を返した。
 少しずつ離れていく二人の距離。焦れる気持ちに蓋をして、花礫は思わず歯噛みした。
 これでいい。
 漸く一人になれるんだ、喜ばしいことじゃないか。
 なのに、この胸に渦巻く燃焼しきれない思いは後悔か、はたまた焦燥か。

 思考を蹴散らすように前髪を掻き毟ると、名前が姿を消した角から无がひょこっと顔を見せる。いつもは爛々と輝いている赤の双眸は浮かない色を覗かせていて、ああ、会ったのかと察するのは簡単だった。

「花礫、……名前と、何かお話、してた?」
「…アイツ、どんな顔してた」
「…? 顔はなんともなかったよ、でも、」
「?」
「名前とすれ違ったとき、すごく、苦しかった」


 ──いたい、いたいよ。
 なきたいよ、でもこれ以上迷惑にはなりたくないから、だから、たえて、たえて、

 もうじゃまは しないから
 ごめんね、ごめんなさい

 わたしのわがままにつきあってくれて ありがとう


 流れ込んできた悲痛な声を、无はすれ違ったたった一瞬で総て聴き取ってしまった。
 慌てて去っていく姿に声を掛けようとした。でも出来なかった。
 遠ざかっていく背中は、普段よりも頼りなくて、小さくて、ちょっとでも触れたら今にも崩れ落ちてしまいそうだったから。
 だけれど彼女の想いの丈を花礫に伝える術を无は知らない。いやに疼く胸元をぎゅっと握り締め、拙いながらもポツポツと言葉を落としていく无の姿に、花礫は眉を顰めた。
 聴いた「声」の全部では無いけれど、少しでも、ほんの僅かでも花礫に届けば。
 必死な様子の无に思わず舌を打った。
 びくり、肩を揺らす様が彼女に被り、再び黒みを帯びた雲が心を覆う。

 ──コイツは、何も悪くない。
 怖ず怖ずと自分を覗く白髪の少年を見遣り、花礫は深い溜息を零した。

「…悪い、お前に当たるのはお門違いだ」
「う、ううん……ねえ花礫、」
「あ?」
「名前、すぐ元気になるかな? また一緒にあそんでくれるかな、 笑ってくれるかな?」

 无の問い掛けに、答えられなかった。
 もし彼女が笑わなくなったのならば、間違いなく原因の元は自分だ。だけどきっと傷は浅い、あの不屈の塊のような彼女ならばそんな杞憂を抱えずともまたヘラヘラと笑って話しかけてくるだろう。

 そう、きっと。


 この時から、時計の針は既に止まってしまっていたことに気付かずに。
 闇はひたひたと、迫る。






「──はっ、はぁ、」
 あれおかしいな、息が重いや。

 廊下で出会した无くんに悟られないようにいつも通りを装って別れて、ただひたすらに薄暗い廊下を駆けた。途中羊に怒られた気もするけど、ごめんね。それどころじゃなかったんだ。
 壁に力無く寄り掛かって、咳き込みながら息を整えようとして。でもどれだけ時間が過ぎ去っても治まらない荒い呼吸に戸惑う。

 あ、れ、どうしよう、どうしよう、止まらない。
 上下を繰り返す胸も、高鳴る鼓動も、引き攣る喉も思い通りになってくれない。

 なんで、ねえなんで、
 早く止まってよぅ、

 こわい、よ。
 だれ、か

(がれき、くん)

 脳裏に強く焼き付けられた冷たい黒曜石の瞳が、未だ震える自分を射抜く。どんなに恋い焦がれようと求めれば求めるだけ離れていく温もりに、とうとう涙腺が制御しきれず決壊した。

 もう、触れるどころか近づくことすら適わない。張り裂けそうなほど心は痛むのに、体は呼吸が苦しい事以外なんともなくて。
 いっそ殺してくれと心が悲鳴を上げた。

「……名前?」
「…っひ、らと、さ」
「! 過呼吸か、」

 名前の異変に気付くなり、平門は上着を脱いでそれを彼女の口元に押さえつけた。本当は羊に紙袋か何かを持ってきてもらえば良かったが、彼女の様子からすると一刻を争う。
 気も動転していて、まるで呼吸の方法を忘れた溺れる魚のようだった。

 暫くそうしていると次第に呼吸は落ち着いてきて、こてりと平門の肩に寄りかかる。
 「…何があった?」出来る限り優しい声音で言問えば、へへ、と溜息混じりに零される笑い。否、笑いと呼べるのかも定かではない歪な笑顔だった。

「ふられちゃいました」
「そうか」
「嫌いだって、そんなこともう、知ってた、のに、なぁ」
「……もういい」

 これ以上自分を追い詰めるな。

 平門は自分の肩口に伸し掛かる柔らかな重みをそっと撫ぜた。
 髪を梳く優しい手のひらは、名前が発した一言で総てを悟ったのだろう、同情などではなく、ただ労るような手付きで頭の輪郭をなぞる。
 この人は燭に慇懃無礼だとか冷血だとか散々言われているが、そんなことはない、仲間想いの優しい人だった。自分も仕事で疲れている筈なのに、こうして私の為に貴重な時間を割いてくれている。
 その優しさがどうしようもなく苦しかった。


 ────「愛されなくても大丈夫」なんて、所詮虚勢でしかなかったの。

 苛立たしげに細められた黒曜石の瞳。
 整った唇から滔々と紡がれたナイフは私の肺腑を抉り、惨憺とした心を深く穿った。
 ミシ、ミシ
 これ以上は聴きたくないと胸の裏側が金切り声をあげる。
 自分は言うだけ言っておいて、いざとなれば逃げようと尻尾を巻くのかと自嘲さえした。
 それでもなんとか戦慄く脚を奮い立たせて、狡い私は「え?」と聞き返す。本当は聞こえていた癖に、まだ花礫くんの側に居られる現状に甘えていたくて、このぬるま湯にいつまでも浸かっていたくて、縋る想いで少し高い彼の顔を見上げた。

 だけど直ぐに後悔した。
 いつもの様に逸らされる事無くまともに交錯した視線は、見たことが無いほど冷たいものだったから。

 ああ、私はそこまであなたに嫌われていたんだね。

 すべて今更なこと。
 自己陶酔もそこまで。
 夢物語は夢のままで、幕を閉じる。

 どうせ叶わないのならば、いっそ泡になって消えてしまいたかったよ。

「──もう金輪際、必要最低限以外俺に関わんな」

 こんなの今までのお詫びにもならないだろうけど、
 せめて最後に彼に言われたことくらいはまもらなくちゃ、ね。

「……平門さん、」
「ん?」
「 例の件、やっぱり請けさせてください」

 別れた道は、もう二度と交わることなく無情に進むのだろう。
 後悔しても時既に遅し。
 覆水盆に返らず、溢れた水が戻ることはない。
 萎んだ水風船は皺くちゃのまま存在価値をなくす。


 落ちた滴は、だれの泪だったのでしょうか。
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