「……休み?」


 その日は何故だか、朝からとてつもなく嫌な胸騒ぎがしていた。

 仕事の休みが取れ、気晴らしにと久しぶりに足を運んだお得意先のショップ。
 しかしそこに見慣れた姿は無く、あったのはまだ入ったばかりだと思われる新人と、あの日酔っ払いに絡まれていた女性バイトが愛想を振る舞う姿のみだった。

 不思議に思って湊はどうしたんだとバイトに問いかけてみれば、先日から諸事情により休暇を取っているという事実。
 具合でも悪いのか怪訝に首を捻ればそうでは無いらしいが、詳しい理由は彼女も教えてもらっていないとか。
 なんて自由奔放な店主なんだと呆れはしたが、結局その日は何も買う気が起きなくて手持ち無沙汰で艇へと帰った。


 (……あー、何なんだよもう)
 何で、何でだ。
 どうしてこんなにも嫌な予感が胸を支配する。

 数日前からもやもやと蟠る消化不良な感情。
 言葉では形容し難い情動に一人躍らされているような気がして、喰の心はやけにささくれ立っていた。
 かつ、かつと指先で机にリズムを刻めば音が鳴るたび近くに居る與儀が怯えたように身を竦ませる。まだ直接害を及ぼした訳では無いのに失礼だなと内心毒づきながら、喰は鮮明に焼き付いた女の微笑を思い出して舌を打った。

 美味しいの作ってやれよ。

 湊に勧められたティーは名前から絶賛の声を受けた。
 直ぐに効能が現れるわけでは無いためまだ症状が改善されるかどうか効果の程は判らないが、日々の積み重ねが大事ということで毎日欠かさず就寝前に飲んでいるらしい。
 これなら飽きもせず長く続けられそうだと、満面の笑みを浮かべていたく喜んでいた。

 前ならその笑顔を見られただけで自分も満足していただろう。なのに、今回はちっとも心が揺らがなかった。
 幼馴染みが喜んでくれて良かったとは思う。
 でも、それだけ。


 そんなまさか、と思った。

 ある筈が無い、あり得ない。
 「好き」だと言われ続けて、情にでも絆されたか? あろうことかあの微笑みに一瞬で目を奪われた、なんて。

 ────冗談じゃない。
 冷たく吐き捨てて、空き時間を有効活用してショップへと向かった。



「……今日も安定の、」

「君の空っぽな頭にはそれしか無いのかな?」


 やはり気の迷いだった、と確信した。喰の姿を一目見るなり定番と化した台詞を言おうとした湊の言葉を途中で遮り、喰は肩の荷が落ちたかのように脱力する。

 一時でもこんな女に振り回された自分が滑稽で仕方ない。いつもと何ら変わりなく悠長に過ごしている湊に、当てこすりのように憂鬱な嘆息を一つ落とした。
 しかし女は大して歯牙にかける様子もなく、却ってニヤリと意地悪く口角を吊り上げる。


「それにしても、随分と久しぶりの来店だな。仕事は順調なのか?」

「まぁね。そっちこそ僕が暫く来ないうちに商売繁盛してるみたいじゃないか」

「近頃茶葉の取り扱いも始めたからな。おかげさまで女性方の顧客も増えて、店内が大分華やかになったよ」


 目の保養が増えて結構、と晴れやかに笑う湊はどことなく親父思考だ。
 確かに自分も可愛い女性は心の潤いだむしろ癒やしだとは思うし激しく同意なのだが、彼女自身もいちおう生物学上は女なのだし、もう少し恥じらいや慎ましさといった可愛げの欠片でもあればまともだったのにと、ほとほと呆れかえる。


「そういえばネトルのティーはどうだった?」

「ああ、…喜んでたよ。独特の風味がクセになるって」

「独特……確かに独特か」

「でもアレ飲んでみたら檄マズだったんだけど」

「……正直なところ、私も他より比較的飲みやすいとは感じるが美味いとは思わないな。だが体に良い栄養素は豊富に含まれてるし、悪影響を及ぼすものでも無い。良薬口に苦し、と言うだろう? 何はともあれ、味諸ともお気に召してもらえたんならそれはそれで結果オーライだ」


 ごもっとも。プレゼントした物が気に入ってもらえるならそれに越したことは無い。

 「で、今日はなにをお買い求めで?」と話を逸らし問い掛けてきた湊を尻目に、喰はぐるりといっぺん賑やかな店内を見渡した。
 ついこの間いくつか薬を調合した折りにあらかた材料を使ってしまったから今回はカモミールやサフラン、セージといった系統の薬草を求めている事を明かせば湊が奥の棚を漁って目当てのものを持ってくる。

 「入荷したばかりのラベンダーやレモンバームもあるがどうする?」と問われ、備えあれば憂い無しということでついでに一緒に購入した。
 こうやってトントン拍子にさり気なく買わせる方向へ運んで行くのか、「全く油断も隙もあったもんじゃ無いね」と皮肉れば「それが商売だからな」と笑われた。
 これまたごもっとも。


「どうせ来たんならお茶でも飲んでくか? ちょうど私も休憩に入るし」

「…じゃあ、少しお邪魔しようかな」


 そうそう、遠慮なんてあんたらしくないしな。

 そう揶揄する湊に悪かったねと悪態吐きつつ、促されて奥の休憩室に入る。賑わいを見せているとは言えど今はわりと客も少なく、店員一人に任せてもさほど支障は無いだろう。
 当分のんびり出来るとお湯を沸かす彼女の背を見ながら、喰はふと数日前のことを思い出した。


「……そういえば、この前休んで店を留守にしてたみたいだけど何処か行ってたの?」

「…ああ。お見合いだよ」

「は? お見合い?」

「そろそろフラフラと彷徨ってないでお前もいい加減年頃なんだから身を固めろと母に言われてな。あまりにもしつこく言ってくるものだから、一回行けば諦めると思って……渋々と」

「……へえ」


 疲れた、と言わんばかりの様相の湊に、密かにほっと胸を撫で下ろした。しかし直ぐにそんな自分に気付いて、喰はあくまでもポーカーフェイスを装う。
 ……いま安堵した? 何故自分が?

 訳の分からない矛盾に葛藤して、ちぐはぐに噛み合わない情動と行動の不協和音にらしくもなく苛立つ。

 だから、「……気になるか?」とわざと喰の想いを推し量るような鎌を仕掛けてきた女に「まさか」と素っ気なく返した。
 すると彼女はほら予想通り、という風にあっけらかんと「言うと思った」なんて笑うから、


「安心しろよ、冗談だから。そこまで自惚れちゃいないさ」


 余計に、ムカついた。

 女との距離をまざまざと突きつけられたようだった。
 近付いたと思ったら呆気なく離れて、離れたと思ったらそれ以上近付くことは無く、常に一定の間隔は保たれたまま。
 自分から避けるのは構わない、けれど故意にあちらから避けられるのは気に食わない。

 自分から「好き」と告げるなと、一線を超えるなと牽制したにも関わらず勝手気ままな振る舞いだとは思うが、これがありのままの本心なのだから致し方ない。

 見えそうで見えない湊の心の裏側。
 いっそその高い鉄の城壁を崩して内を暴いてみたいとも好奇心が震える。だからだろうか、いちいち女の一挙一動に敏感になるのは。


「はい、お待たせ」

「これは……ペパーミント?」

「正解。あんた苛々してたみたいだから……まぁ、これ飲めば落ち着くかと思って」

「別に苛々してないけど」

「そんな眉間にシワ寄せといてよく言う」


 生憎なことに図星だった。どうやらポーカーフェイスは意味を為さなかったようだ。
 微細な変化を悟られるなんて、やはり今日の自分はおかしいようだと喰は出されたペパーミントティーを口にした。ネトルの茶とはまた一味違い、爽涼とした匂いと風味が疲れた体に染み亘る。

 徐々に強張っていた力が抜けていった様子の喰を見て、湊が安心したように微笑った。


「それに風邪気味だったろ。季節の変わり目は体調が変わりやすいから気をつけろよ」

「……ほんと君って何者なの。僕より僕のこと知ってて若干怖いんだけど。もしかしてストーカーとか?」

「ストーカーでは無いが気になる奴のことはよく見てるからな。前会った時より声が掠れてるし、今も少し喉痛いだろう?」

「……ご明察。ていうか僕、前にそういうこと言うなって言ったよね? 君も頷いた。約束破る気?」

「ん? 直接的に好きとは言ってないから反故したことにはならないぞ」


 どんな屁理屈だ。のらりくらり躱す女に悩ましく頭を抱えた。しかも微かに反応してしまった自分も解せない。


「……大丈夫。これ以上近寄らない、何もしない。あんたに一切迷惑は掛けないよ」

「……そう、」


 毅然と言い放った湊にかろうじて返せた言葉はそれだけだった。


 そう、それで良い。
 ──それで、良いんだ。

 ぽっかりと空いた虚しい気持ちを、行き場の無い想いを持て余して、喰はおもむろに女の頬に手を伸ばそうとした。否、伸ばそうとはしたが、手はピクリとも動かなかった。

 遠い、とおい、二人の距離。

 何も存在しない筈なのに、喰には自分達の間に透明な壁が立ちはだかっているように思えて唇を噛んだ。


 何でこんなに、歯痒いんだ。
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