茫然自失、放心状態。
 頭が真っ白になって、まるで自分が今本当に地面に足をついているのかも定かではない漠然とした感覚。
 焦燥なんて最早とっくに通り越して忘れてしまった、鈍器で頭を強く殴られたような衝撃。

 人々が行き交う雑踏と喧騒の中、喰は為す術もなく立ち尽くしていた。


「店長、ご結婚おめでとうございます!」


 愚の骨頂とはまさにこの事。意固地だった自分の過ちに後悔したって後の祭り。

 踵を返して店からどれほど離れようとも店員のはしゃいだ声がいつまでも喰の鼓膜にこびり付いて、決して現実から目を背けることを許してはくれなかった。

 (……所詮、こんなものだ)

 だから嫌だったんだ。
 気付いたって相手は何の力も持たない一般人、自分は戸籍を抹消された戦闘員。元々ほど遠い存在で、手が届くような人間じゃない。

 それはきっと女も理解していたから特別な関係になることを望むことはしなかった。
 ただ好きだと言えればそれで良いと、バカ正直に包み隠すこともしないで。
 献身的にも映る愛情を一心に喰に注ぎ、自ら求めることもしなかった。
 陰日向に咲く花は、誰にも見向きもされずに花びらを散らしていく。


 ──ねえ、僕がもう少し素直になって君に感謝の一つでも伝えられていれば、今ごろ何か変わっていたのかな。

 なんて筋違いなことを考えてかぶりを振った。
 仮定の話なんて馬鹿馬鹿しい、未練がましく不毛でしかない。
 喰は心なしか重くなった体に叱咤を打って、勢いよく地面を蹴った。






「……喰、そういえばここ最近休みになっても街に降りてないみたいだけど」


 もしかして例の女の人と何かあったの? と、こんな時に限っていやに直感の冴える幼馴染みに、よりにもよって最も厄介な人物に捕まったと苦々しい気持ちを堪えた。

 デスクワークの最中、区切りを見て一息ついてからまた集中しようと骨を休めていた時のこと。ゆっくり話し合える機会を窺って名前が怖ず怖ずと声を掛けてきた。

 彼女は近頃貴重なオフが取れても街に出掛けず、艇に籠もりっきりの喰を怪訝に思ったらしい。
 確かに以前あれだけの頻度で街に繰り出していた癖にある時を境に出掛けなくなった、なんて何か合ったんじゃないかと疑われるのも仕方ないだろう。ましてやある時、が噂のショップに行った日だということも把握されていれば。

 喰はあの日不注意にもうっかり口を滑らせた自分に臍を噛んだ。
 「買い出しに行ってくる」なんて余計なことを言わなければこのまま何も干渉されず、到って平和に一日を過ごせたものの。

 あたかも嘘を吐くことは許さない、と牽制するような鋭い眼差しから顔を逸らして、喰は「何も?」と動揺をおくびにも出さず淡々と返した。
 そう、別に何一つ嘘は言っていない。湊と何かあったわけでは無く、自分の感情の変化を、そして現実をまざまざと突き付けられたというだけなのだから。


「だったら会いに行ってあげなよ。きっとその女の人、喰が来るの待ってるよ?」

「何でそんなこと名前に分かるんだよ」

「ばっかねえ! 女の子は幾つになっても好きな人には会いたいと思うの、少しでも一緒に居たいと思うの! 好きな人と時間を共有出来るっていうのは、凄く嬉しいし幸せなことなんだから!」

「それは名前の持論でしょ。あっちはそんな乙女思考持ち合わせてないだろうし、今ごろ僕の顔見なくて清々してるんじゃないの?」

「え、なんで?」

「結婚するんだって、彼女」


 滔々と感情を一切感じさせない声色で告げれば、名前が驚いたように瞳を見開いた。相変わらずの間抜け面、心の中で呆れながら失笑する。

 湊が結婚する、という驚愕の事実を耳にしたのはもう二週間も前のことだった。
 お節介な二人組に根掘り葉掘り問い質され想いを指摘され、あまつさえあの花礫に「失ってからじゃ遅ェぞ」なんて釘まで差されて。

 勝手に湊のことが好きなんだと断定までされて、二人の横柄な振る舞いに喰はますます苛立ちを募らせた。




 それもこれも、全てあの女のせいだ。

 幾ほど時間が経過しても釈然とせず晴れないままの気持ちも、今こんなに「会いたい」とさしたる理由もなく焦っている気持ちも。全部、全部あの女が居るから。

 だから喰は後日、仕事の合間を縫って街へ降りた。
 顔を見たら目一杯皮肉を口にしてやろうと意気込んで、意趣返しに少し困らせてやろうと足取り軽く道のりを進んで。
 けれど開かれた扉から顔を覗かせた瞬間、耳朶を打ったのは女性アルバイトの弾んだ声と結婚という言葉二文字。

 さながら雷に打たれたような衝撃だった。
 息が止まって、彼女に伸ばそうとした指先からみるみるうちに力が抜けていって、指はやがて力なく地面へ向かって垂れた。

 バイトの人間や常連客に囲まれた湊はただ困ったように苦笑していて、されどろくに否定もせず当たり障りのない程度に返事を返していた。
 その光景を見て、先日花礫に言われたことが不意に頭を過ぎって──それ以上は聞きたくないとばかりに、即座に身を翻した。


 そんな出来事があって、かれこれ二週間。時の流れはあっという間だと感慨に耽る。
 会わなければ次第に情も薄れていくだろうと気楽に考えていたが、やはり予想はあながち外れていなかった。
 仕事に没頭すれば何も要らぬことを考えなくて済む。二人の間を隔てる溝も、壁も、存在さえ思考の淵から追い出して。
 どんな風に笑ってたっけ。記憶さえ朧気に霞んで、この調子でいけば直に忘れられるだろうと安堵していた。

 でも、


「本当にそれでいいの?」


 名前が埋まった穴を掘り返すようなこと言うから。
 鮮明に、朗然と、湊の顔が存在が蘇ってきて。

 ああ、そういえばあんな穏やかに笑うんだっけ。声も高すぎず低すぎず心地のいい声域で、匂いも、甘くて。一つ一つはっきりと、明確に姿が浮かび上がってくる。

 でも今さらどうすれば良い?
 動いたって間に合わない、湊が今もなお自分を想ってくれているかも確証は無い。
 むしろいい加減に愛想を尽かしたから、結婚に踏み切ったのかもしれない。

 ……こんな臆病風に吹かれるなんてらしくもない。
 見えない心に怯えて二の足を踏むなどと、喰は嘲笑を落とした。


「いいも何も、僕が割り入って首を突っ込むことでも無いでしょ。あの人自身が決めたことなんだから」

「そうかもしれない。けれど、喰はそれで満足? 納得出来るの? 自分の気持ちを伝えずに押し殺して、おめでとうって笑って彼女の新たな門出をお祝いしてあげられるの?」

「……今日はやけにしぶといね、名前」

「喰に後悔してほしくないからだよ」


 自分の想いを殺すことがどんなに苦しいか、無理して一人笑うことがどんなにしんどいか、名前は身を以て痛感してるからこそ喰にも同じ思いを味わって欲しくなかった。


「ねえ喰、初めはその人から好きだって言われてどう思った? びっくりした、嬉しかった? でもどんどん慣れてきてどうだった? やっぱり鬱陶しかった、煩わしかった?」

「…そうだよ」

「じゃあ今は?」


 とんだ愚問だった。


 ──嬉しいよ、
(ガラじゃないけど)
 ──愛しいよ。
(すごいムカつくけど)


 時折悪戯が成功した子供みたいに笑うあどけない姿も、冷たく素っ気ない態度を取ったとき軽口で揶揄してくる反応も、花に水をやっている時の柔らかい表情も、書類を捲っている時の真剣な眼差しも、全部、堪らなく。

 悪足掻きしたところで悔しいことに、もう既に心は奪われていた。
 それに、


 安心しろよ冗談だから。そこまで自惚れちゃいないさ。
 まぁ、これ飲めば落ち着くかと思って。
 ストーカーでは無いが気になる奴のことはよく見てるからな。
 例の大事なコ、なんだろう?


 そんなところも好きだよ。


 いつだって彼女は、真っ直ぐにひねくれた自分を見つめてくれたから。


「……名前、」

「喰。私、喰には幸せになってほしいな」


 だから意地っ張りもここにかなぐり捨てて、たまには自分の心に正直になってみるのも良いんじゃない?

 ガタッと椅子の足が床と擦れて音を鳴らした。慌ただしく去っていった幼馴染みの後ろ姿を見送って、名前はやれやれと呆れ混じりにため息を吐く。
 これから状況がどう転んだとしても、喰が後悔しないなら、前に進めるなら。

 願わくば、──上手くいってほしいとは思うけれど。


「……やっと行ったか」

「! 花礫くん……そこで聞いてたんだ」

「まぁな。つーかアイツも行動すんのが遅ェんだよ。人がわざわざ親切心で忠告してやったってのに」

「恋は人を変えるんだねー。あの喰が悶々として率先して行動するのを控えるなんて。肉食に見えて実は草食だったとか?」

「うわ気色悪ィ」


 本人の居ないところで好きに言われていた。

 クスクスと笑いつつ名前が喰の仕事のデータを自分の端末に移動し、後で纏めて片付けてやろうと保存する。


「上手くいくかな?」

「……むしろ丸く収まってもらわねーと困る」

「へ? なんで?」

「その方が邪魔な虫も減って俺も余計な気とか回さなくて済むし」

「……花礫くん……大好きっ!」

「ばっ、くっつくな!」


 顔を赤くして腰に纏わりつく腕を離そうとする花礫に却ってより一層くっつきながら、名前は愛しい人の胸の中で微笑んだ。
 懸念材料は無いわけじゃない。でも喰なら、あの幼馴染みならきっと大丈夫だろう。


 艇の窓から覗いた空は、晴れ晴れしく冴え亘っていた。
ALICE+