「雉も鳴かずば撃たれなかったのにな」

「だからって唐突にジャーマンスープレックスかます女が居るかな普通!?」


 目の前に居るだろと尊大に構えて仁王立ちする女の姿に、喰は地面に横たわった格好のまま険悪な形相で舌を打つ。
 彼が青天白日の空を地面と激突したのち漠然とした心の内で仰ぎ見る事となったのは、元はと言えば彼女のひょんな発言がきっかけだった。

「つい先日に前婚約者が訪ねてきた」。
 何の思惑を以てしてか、はたまたこれといった深い意味も無くあくまで一つの近況報告みたいなものとして切り出されたのか。恬淡とした湊の考えはさっぱり窺い知れないが、二人店のカウンターで寛いでいる時ふいにそんなことを言われた。

 喰の手に表れる動揺、紅色のローズヒップティーが微細な震動により口を付けてもいないのに波紋を拡げる。カウンター越しに腰掛けている湊は固まった喰を気にする素振りも無く、ただただ悠然とした佇まいでティーを飲みながらカタログを捲っていた。

 それってまだ君に未練があるってことなんじゃないの。

 胡乱げにその婚約者とやらの不可解な行動に見解を付けて言及すれば、湊は「さあ?」と興味もそこそこに肩を竦めるだけ。
 自分から口火を切ったクセに等閑な返事、結局何が言いたかったんだよと湊の意図が読めなくて喰はますます業を煮やした。

 一応両想いであるにも関わらず彼女の態度は変わらず仕舞い。
 進むことも後退することも無く特筆すべき変化さえ無い膠着状態に神経がささくれ立っていたところ、こんな無内容なろくでもない話を聞かされたんだ。そりゃあ相応の不満も鬱積する。

 つまり俗に言う売り言葉に買い言葉、だった。

 別に湊は何気なく言っただけで、喧嘩を吹っ掛けてきた訳では無いだろう。
 しかし喰にとっては挑発とも取れる言葉に聞こえて、苛立ちを隠そうともしないまま「もしそうだったなら無視するのも可哀想だし、今度お茶くらい付き合ってあげたら? 僕も艇にいるツクモちゃんって可愛い子とデートしてくるから」と席を立った。ぱちくりと湊が目を瞬かせる。案の定深く思慮せずに放った発言だったようだ。きょとんとする仕草にさえ(ああもう可愛いな)と胸をときめかせる喰だが、生憎それくらいで絆される様なら最初から怒るなんてことはしない。

 元々彼女と一日過ごす為に仕事を前倒しにしてまで休みをもぎ取ったのだ。
 努力を棒に振るような真似だけは慎もうと心に決めていたのに、この気楽な女はそんな喰の決意さえ悉く砕いていって。無頓着も甚だしい、いい加減振り回されっぱなしなのはまっぴら御免だと店を出た。

 ──ら、追ってきた彼女が突然背中に抱き着いてきた。ぎゅう、と腹に回った細い腕。まるで行かないでと懇願するような動作に、とうとう湊もこんな風にすがってくるようになったか。
 これなら晴れて自分達が恋人同士と堂々名乗れる日も近いんじゃないか。そう喰がほくそ笑んだ時だった、一瞬で視界が反転したのは。

 視界を満遍なく埋めた青い大空。直後後頭部を襲ったとてつもない、とても筆舌には尽くしがたい猛烈な痛み。よく意識を落とさなかったと自分でも感心する。
 未だ脳全体が揺れているかのような気持ち悪さに苛まれながら、喰はあたかも此方に非は無いと言わんばかりにふんぞり返る湊をジロリと睨み付けた。


「よくもまあ、こんな往来でやらかしてくれたね……」

「良かったな、幸い今の時分は人通りが少ないから無様な姿を目撃した人間も殆ど居ない。私の優しさに感謝しろ」

「いやそういう問題じゃないでしょ? バカなの? ちゃんと起きてる? 正気?」

「安心しろ、私は至って正常だ。むしろ混乱してるのはあんたじゃないのか?」


 そりゃそうだ。浮き足立った瞬間踏み外して奈落に落ちたようなものなのだから混乱もするし落胆もする。優しさに感謝しろだ? いけしゃあしゃあと何をほざくんだと些か攻撃的に歯向かえば、それは此方のセリフだと不機嫌そうに腹の上に座られた。
 一切の遠慮なしにドカッと重みがのし掛かってきて、鳩尾が圧迫され思わず噎せる。


「…っあ、んたな、人のコト何だと思って……」

「ほう、それも私のセリフだな。彼とは縁も繋がりも絶ったと言わなかったか?」

「、先日も会ったんでしょ」

「くどい。別に私から会いに行ってるワケじゃない」

「くどくて悪かったね。だけど君がハッキリと会いに来るなって突っぱねず、期待させるような素振りをするから向こうは軽挙妄動した挙げ句、邪な下心抱いてやってくるんじゃないの?」

「……は、とんだ矛盾だな。お茶しに行けと勧めるようなこと言ってきたと思えば、会ったら会ってたで今みたいに不貞腐れたり、いったい何なんだあんたは。子供か」

「……君だから、」


 君相手だから、自分でも訳分かんないこといつの間にか口走ってるんだよ。

 唇から出かけた言葉は、されど喉の奥で突っ掛かって直接音にはならなかった。グッと口を噤んだ喰を見て湊が面倒そうにため息を落とす。

 (どうせ女々しいとか自分勝手だとか呆れてるんだろ)

 けれど湊もそれ以上言い募ることは無く、黙って喰の腹の上から立ち上がった。
 店に戻るぞと手を差し伸べられ、そういえば此処は道のど真ん中だった事を思い出す。
 せめてもの救いか、自分達を見ている者は誰も居なかった。


「……そうか、初めからそうしてれば良かったんだ。ねえ湊、その元婚約者とかいう男の居場所教えてよ」

「何故?」

「闇討ちするから」

「少なくともあの輪の乗組員が言うような事じゃないな」


 断る、と逡巡するまでもなく一蹴され、喰は禍々しい空気を纏ったままかつかつと指先で机を小突いた。

 やり場のない苛立ちを紛らわせる為にも無意識にやって居たことだが、とうとう湊から五月蝿いと注意されてそれもやむなく動作を止める。
 臍を曲げた子供同様、湊に手を引かれて店まで戻ってきたは良いものの、胸に蟠っている不快感が払拭されることは無く現在もフラストレーションが募っていく一方だった。

 じりじり、いらいら。何食わぬ顔で先程も目を通していたカタログに釘付けになっている湊の姿に、苦々しい気持ちが身を支配する。
 おまけに油断していたところを投げ飛ばされたせいで節々が痛い、どうしてくれるんだと虫の居所はもはや最悪だった。


「僕、気安く自分のモノに手を出されるのはムカつくんだよね。気に食わない」

「私はあんたのモノになったつもりは無いが?」

「うん、これからするつもりだから」

「へぇ、それは見物だな」

「さも他人事みたいに言ってるけど君のことだからね」


 そんな風に余裕ぶっこいてられるのも今のうちだよ。

 顎を引き寄せて、熱心にカタログに注がれていた関心を半ば強引にこちらに向けた。ようやくまともに交錯した視線に満足げに微笑む。
 罪作りな女を気取るのも構わないが、そろそろいい加減決着を着けておきたい喰としてはもう我慢も限界を達していた。

 程よくグロスが塗られ、瑞々しい唇の形を親指で愛撫するようになぞる。湊は何も言わずにされるがまま。
 目鼻立ちがくっきりとしていて一見凛々しくも映る顔立ちには今はなんの感情も浮かんでおらず、何を考えているのかも推し量ることは不可能だった。けれど抵抗されない、ということは嫌がってはいない筈。

 喰はさながら人形のように微動だにせず、ただ密やかに呼吸と瞬きだけを繰り返す湊の唇に顔を斜めに傾けて己のそれを重ね合わせた。
 顎を掴んでいた指に力を籠めると、舌の侵入を許すかのごとく閉ざされていた口が薄く開かれる。ペロリと相手の下唇を舐め、喰はそのまま導かれるように湊の隠された赤い舌に絡み付いた。息を合わせるかのように、窺いながら湊も応える。


「、ん……」

「ちゅ、……ふ」


 混ざる吐息、二人の唾液。病み付きになる粘膜の熱さ、湊の鼻から抜ける声。

 荒々しさは無くねっとりとした口付けに、二人揃ってじわじわと頭の芯から痺れていくような感覚を味わう。
 ──今もし客が来たら。そんなスリルも二人の興奮を高める材料にしかならず、残念ながらストッパーとしての役割を果たしてはくれなかった。

 暫しの間そうやって口付けの応酬に興じていると、おもむろに喰が角度を変えて更にキスを深めようと顔をずらす。するとカチャン、と軽い衝撃が二人の合間を遮る。
 あ、と喰がその存在を思い出すと同時に、湊が萎えたと言わんばかりに憮然とした面持ちで青年との距離を図った。


「……大胆にキスを仕掛けてくるんなら、あらかじめ眼鏡は外しておくのがマナーってもんじゃないのか?」

「すっかり失念してたよ……君だって僕とのキスに酔って忘れてたクセに」

「はいはい勝手に言っとけ」

「……で、僕のモノになる気になった?」

「今のでか? 冗談はその丸眼鏡だけにし──」


 億劫そうに紡がれた湊の言葉は、それ以上は喰の喉奥に丸飲みされた。

 文句を言われた眼鏡は横に退けられ、今度こそ二人を隔てる障害は無い。
 存分に口付けにのめり込む事が出来ると湊の口内をぐるりといっぺん舐め回し、名残惜しげに舌を唇を吸って顔を離す。
 驚いたように丸められている女の瞳。一本取ったと喰は満悦の笑みを湛える。


「これからは拒否するごとにキスするから。僕を受け入れようとしない可愛くない口は塞いであげる」

「…………ふうん。なら、私はこれからも拒否し続けようかな」

「だからって調子に乗んないでくれる?」

「良いだろ? 私はあんたにキスしてもらえる、あんたも私にキスが出来る打ってつけの口実となる。そうなれば拒否されるのも満更では無くなるだろうに」

「僕と恋人になればそんなまどろっこしい事しなくても幾らでもしてあげるけど」

「つまらんから却下」

「オイ」


 恋愛なんて駆け引きしてナンボだろう? 至極愉しそうに口角を吊り上げる湊に、喰は深々と嘆息して項垂れた。

 結局こういう結末なんだな。
 自分がどうこう致そうとこの女には敵わない。けれど駆け引きしようと言うのなら、喜んでその挑戦状を受け取ってやろうじゃないか。

 いつか絶対後悔させてやる。

 固く心に誓って、喰はもう一度同じ質問を投げ掛けた。返答はもちろん──。


拒否権はキスと引換に
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