カツリ、ヒールの音が無機質な床を叩く。
 自らを包んでいた白い光も収まり晴れた視界の中、端に掠めた愛らしい姿に目を細めた。

「久しぶりウサ、朔が待ってるウサ」
「久しぶり。……案内してくれるかな?」

 『輪』第壱號艇艦。
 声紋認識を無事通過し、兎に促され奥へ足を踏み入れる。貳號艇と内装は然して変わりないものの、やはり慣れ親しんだ空気とは根本から違う。自然と引き締まる緊張感に背筋をピンと伸ばし、久々に履いた高いヒールに多少不安を覚えながら道なりを進んだ。
 そうして案内されたのはいつも朔が仕事を熟している執務室。あらかじめ名前が訪れたらここに通すよう兎に言付けを任せていたのだろう。
 立て込んでいる用事を済ませてからそちらに向かうから座って待っていろ、とのことだった。

(待ってるって言ったのに)
 苦笑しつつ主不在の蛻の殻となっている部屋をぐるりと見渡していると、「早くソファに座るウサ」と服の裾を引きながら催促の声が掛けられる。…羊もだが兎も充分あざとい。
 上目、しかも小首を傾げる仕草で見上げられれば思わず衝動に身を委ねて小さな体躯を抱き締めてしまうのは致し方ないと思う。
 ぎゅうぎゅうと絞め殺さんばかりの勢いで腕に力を籠めれば苦しげに洩れる兎の声。我を忘れてそのまま柔らかな体に引っ付いていると、突然後頭部に走った衝撃により名前の力は緩み、兎は隙を見て脱出した。

「なにうちの兎苛めてるんですぅ!?」
「苛めてないよっ、ただ私は愛でてたんだよキイっちゃん!」
「どう見ても兎が嫌がっていたようにしか見えませんでしたけどお!」
「ひどっ! 久しぶりの再会を喜んでただけなのに」
「もっと他の方法があるでしょう? 相変わらずその脳みそは空っぽなんですかぁ!?」
「辛辣! でも好き!!」

 最初の緊張感はどこへやら、兎から目標を変えて今度は青髪の少女に抱きつけば顔を真っ赤にして暴れ出した。
 『輪』壱號艇闘員、キイチ。二言で言えば名前のお気に入り兼、友人。因みに友人というカテゴリをキイチ自身から肯定されたことも公言されたこともない。

 嬉々とした名前が心底嫌そうに歪むキイチの柔らかい頬にすり寄ればすげなく足蹴にされる。被害に遭ったのは脇腹だった。
 すっかりお冠なキイチの言う通り大人しくソファに座り、めそめそと先程抱き付いた兎とは別の兎に慰めを乞う。しかしこれまた「重いウサ」と素っ気なく拒まれた。まさに踏んだり蹴ったりだ。名前のメンタルポイントは疑心暗鬼という名のマイナス傾向になりかけていた。
 ところに、救世主現る。

「お! もう来てたか。悪い悪い、遅くなったな」
「朔さああああん」

 崖っぷちで宙ぶらりんの状態から手を差し伸べられたようだった。

 扉の奥から兎を連れて姿を見せた朔の胸元に顔を埋め、僅かな時間彼の匂いを堪能する。後ろでキイチの抗議する声が聞こえるが、見ざる聞かざるでつーんと顔を背けた。
 じゃれ合いにも見える二人の攻防戦に朔はふと笑みを零し、自分の腰に回る腕を優しく離した。
 見上げてくる名前の頬に掌を這わし、とびっきり甘美な声で朔が囁く。

「暫く見ない間に綺麗になったな」
「やだ…朔さんってば」

 繰り広げられる甘い雰囲気に、キイチが深い溜息を吐いた。毎回の事とは言え、会う都度こんな茶番劇を見せられるこちら側の身にもなってほしい。
 頭を抱えていると漸く三文芝居に満足したのか、二人がいそいそとソファに腰掛ける。キイチも渋々と名前の隣に腰を下ろし、兎が淹れたラベンダーティーに口を付けた。

「本題だが、任務は三日後。場所はヴァントナーム付近にて発見された洞窟だ。能力躰の出現も多数確認されている」
「火不火が関わっている可能性も否めない、ということですね」
「だが今回は能力者の線が濃厚だな。ヴァントナームの街人から何人か行方不明者が出ているらしい」
「その者達の生存は未だ確認出来ていませんが、私達が捜索を続けても情報は拾えませんでしたぁ。恐らくは……」
「……念のため喰も同行させる。能力躰の数や能力者の存在の有無が把握出来ていない以上、リスクも伴うからな。…出来るか?」
「勿論。その為に来たんですから」

 瞳の奥に険を滲ませて慎重に言問う朔に首肯する。

 ────この任務の話を貰ったのは、ツクモから平門に呼ばれていると聞いた日だった。
 呼び出された執務室には朔も居て、貳號艇に協力願いたい案件だと申し入れられた。
 そして選ばれたのが、名前。能力者や能力躰の気配に敏い名前には打って付けの仕事だと平門が判断を下したのだろう。加えて人より視力が優れている喰もいれば、今回の件だってきっと直ぐに解決する。
 そう、──私が貳號艇に移った喰の代わりに壱號艇に移るのも、この任務を終えてからだ。

「助かる。しかし本当に良かったのか? 壱組は確かに喰が抜けて人手不足だ、だが」
「もう決めたことですし、平門さんからも許可は下りましたから。それに貳號艇には行こうと思えばいつでも行けるし、永久的な移動でもありませんし」
「……ま、それもそうか」

 肩を竦めながら笑ってみせれば、名前の言い分も尤もだと朔も納得した。
 逃げるような形でここを利用してしまう事に罪悪感はある。けれどどうか許してほしい、だなんて自分は一体どこまで傲慢になれば気が済むのだろうと、ラベンダーティーが入ったカップの影に嘲笑を落とした。

 温くなったそれを消化不良の想いごと一気に飲み干してソーサーに戻す。「ごちそうさまでした」ソファの横に佇んでいた兎の頭を撫で、扉に近付いた。
 気を紛らわせるために暫し艇の中を徘徊するのも悪くない。
 怪訝気に眉を寄せる二人に散歩してきますねと一言残し、名前は早々に扉の向こうへ姿を消した。

「……どう思う、キイチ」
「さぁ? また失恋でもしたんじゃないですかぁ? ……今回は少し様子がおかしいですけれど」
「本気だったみたいだからなー。…いや、あいつはいつでも本気だったな」

 彼らの知る名前という女はいつもそうだった。少しくらい肩の力を抜けばいいのに、何事にも一生懸命で全力投球。
 いつ何が起こっても、後悔だけはしないように。
 それが彼女の口癖だった。

 彼女は昔から惚れやすい性格だった。
 好きになれば一直線、想い人に見限られるまで諦めない。けれど嫌われることに、否、憎まれることには人一倍怯えていた。
 嫌い、が憎い、に変わる前に身を引いた。

 好きな人に、大切な人に憎まれるのは、
 嫌われるよりも哀しいことだったから。


 ───少女は両親から愛を与えられませんでした。父親は浮気性、母親は嫉妬深い独占欲の塊。父の行いに発狂した母から与えられたのは激しい暴力。向けられたのは轟々と煮え滾る憎悪。
 何故なら少女は、父親譲りの端正な顔立ちをしていたからです。
 なんて非道な、なんて理不尽な。

 だけど少女にとってその憎しみが自身に向けられることは、既に当たり前と化していたのです。

 けれど貳號艇の皆と出逢って日々を過ごしていく中で、窮屈な生活から解放され名前は良く笑うようになった。同時に悲しくもなった。
 大切な人には、いつでもありったけの想いを伝えたい。その気持ち自体は決して悪いことでは無いのだ。
 その行動の裏に隠された理由が、物悲しい。

 彼女は他人に惜しみなく好きだと告げることを止めない。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。はっきりと表す喜怒哀楽。だって、いつ伝えられなくなるか分からないじゃない?

 大切な人が消えてしまったら、
 ──自分が消えて、しまったら、

「………馬鹿だな、ほんと」

 朔がぽつり落とした言葉は、宙に融けて消えた。
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