最初に目を付けたのは俺の方からだった。
 何事にも全力投球、一生懸命。骨身を惜しまず働いて、日頃から努力することを怠らず真剣な姿勢で研究に取り組む彼女を見て、純粋に興味が湧いた。
 あの燭さんに真っ向から意見をぶつける人間なんてそうそう居たもんじゃない、それも関心を寄せた一因のひとつだった。
 けれど何より、ある日見掛けた彼女の嬉しそうに綻んだ横顔を見て、心を惹かれたのだ。
 子供のようにあどけなく笑って、はしゃぐ姿を見て、俺だけが独占したいと思った。俺だけに向けてほしいと思った。

 迅速果断、そうと思い立ったら即行動。行動を起こすのは早かった。
 仕事を片手間に休憩の合間を縫って何かと理由をこじつけては彼女の姿を見に行き、煙たがる燭さんをさして意にも介さず研案塔に赴いた。
 万が一にもこの仄暗い思惑が感づかれて失敗したら元も子も無い。地盤固めは念入りに、まずは彼女の周りから着々と基盤を築いていった。
 そうしてようやく、やっとの思いで名前と対面を果たし挨拶を交わすまでに至り、どれほどの時間と手間を費やしたか。しかしそれも彼女を手中に入れる為ならば他愛もないこと、大した面倒では無い。
 ゆっくり、あくまでもゆっくりとお堅い鎧を陥落させ、優男を気取って、厚い皮を被って。いつか耳にしたことのある彼女の理想の男を装った。
 狡猾? 邪知深い? そんなもの所詮誉め言葉にしか聞こえない。なんと言われようが貶されようが痛くも痒くもない。
 そう、喉から手が伸びるほど欲しがった掌中の珠を見事射止めた、この男には。
「……また来たのか」
「ええ、彼女に会いに」
「帰れ。速やかに右に回れ」
 けんもほろろに扱われようが屈することは無い。余裕の笑顔で今日も華麗に燭の突っ慳貪な嫌みを躱し、平門はよりいっそう笑みを深めた。
 今となってはどんな笑顔もこの男が浮かべるものなら胡散臭さしか感じられない。燭はふつふつと込み上げる憤りを堪えながら、また何時ものように冷たくあしらい門前払いを叩きつけた。と言っても太々しい男がこれしきの牽制で怯む筈もなく。今日もまたきっと自分の知らない間に潜り抜け、研究に没頭する女に接触を図るのだろう。
 私そのうち死ぬかもしれません。死因は羞恥死なるもので。
 そんな洒落にもならん死因があるか馬鹿者、と深刻な面持ちで相談してきた名前を一蹴したのはいつだったか。さては一週間ほど前だったろうか、いま思えばちゃんと耳を傾けてやれば良かったかもしれないと、目の下に濃い隈を刻んだ女の有り様を思い出して思案する。
 否。それよりも、もっときちんとした警告をしていてやれば平門の毒牙にかかることも無かっただろうに。過ぎたことを今更とやかく言うつもりは無いが、自分の不注意により巧妙な罠に引っ掛かった哀れな部下を案じる思いは僅かながら存在した。
 ……よもや無茶を強いている訳じゃあるまいな。
 げっそりと今にも死にそうだった名前の身の安全の為にも、今日は何が何でも男を此処から一歩足りとも通す訳にはいかない。
 名前を気に入っているのは平門だけじゃない、自分だってあの威勢の良さや稀にない発想力を買っているのだ。貴重な人材を潰されるような真似を黙って見過ごす訳にはいかないと、燭は頑として平門の前から退かなかった。
「……成る程、恋に障害は付き物か。それもなかなか燃えるな」
「気味悪いその笑みを止めろ」
「いくら燭さんといえど名前は渡しませんよ」
「会話のキャッチボールをしろ」
 しかし話にならなかった。
 いったいこんな男のどこに惹かれたのか甚だ理解出来ない。別に押しに弱いという訳でも無ければ惚れやすい性格をしていた訳でもあるまいに、何が拗れてくっついたのか。
 ……いや、予め張り巡らされていた蜘蛛の巣もとい陥穽に運悪くも引っ掛かってしまったのか。飛んで火に入る夏の虫とはまさにこの事。
 手練手管、悪知恵ばかり働くこの男に勝てる者などそうお目に掛かれるものじゃない、名前も例に漏れず可哀想な事に被害者の一人だった。
「……そもそも、なぜ名前なんだ。貴様なら女なんて選び放題、選り取り見取りだろう」
「とんでもない」
 ──良いですか、燭さん。
「彼女ほど素晴らしい女性は居ませんよ。聡明かつ健気であり、謙虚であり、その上素直だ。どんな人間より好感が持てるし、女性が束になって集まったところで彼女には到底敵わない。この前なんかちょっと口付けをしただけで恥ずかしがって目も合わせてくれなくて、もう可愛くて可愛くてどうしてやろうかと思ったほどですよ。目に入れても痛くないとはこういう事を言うのだと初めて思い知りました。いっそ壊れてしまうくらい抱き倒してやろうかとも思うんですが、大事にしてやりたいという気持ちもあるし。ああ、だけどやっぱり俺を求めてほしいという気持ちが一番強いかな。燭さんはどうしたら名前がちゃんと言葉にしてくれると思います?」
「知るか!!」
 紛れもない本心だった。
 つらつらと並べられた惚気にウンザリして睥睨するも佇む男には全くもって効果が無い。どうしたら言葉にしてくれるか? そんなもん知ったこっちゃないからとっとと帰れと怒鳴り散らしたかった。
 しかし仮にも此処は往来だ、いくら何でも人目を憚らず大声を上げるというのは燭でも流石に躊躇われる。何より騒ぎを起こしたら名前が気付いて降りてきてしまうかもしれない。もしそんなことになれば自分が今こうして一肌脱いで本来ならば顔も見たくない男の相手をしている苦労も虚しく水の泡となる。それだけは勘弁したかった。
 避けなければならない事態を如何に上手く回避するか。
 頭痛の種である憂い事はこれだけで充分だ、これ以上新たな厄介事を運んでくるなといっそ全てを放り投げだしたくなった。
 可愛い可愛いと平門は諄く何度も口にするが、あの女は彼が言うほどそんなに出来た女じゃない。むしろ平門と出会い恋に落ちるまでは研究に明け暮れ寝食を疎かにする程ずぼらな生活を送っていたし、身嗜みにだってさほど気を使うこともなく燭に注意されるくらいだった。
 だから徐々に綺麗になっていく名前を見て、人とはこうも打って変わるものなんだな…と感慨に耽ったのも束の間。彼女を取り巻く環境は良い意味でも悪い意味でも変わり果ててしまった。
 原因は言わずもがな、である。
「……もしも、万一名前が言葉にしたところで、お前は今度は一体何を仕出かすつもりだ」
「ハハッ。決まってるじゃないですか、骨まで残さずいただきま」
「もう良い黙れ、そして黙れ」
 聞くに耐えず遮った。
 頭の痛みが増したのは気のせいではないだろう、恐らく、きっと。
「まあ、俺はどんな彼女でも良いんですけどね。意固地になってあんまり愛情表現を示してくれなくても。ほら、鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギスって言うじゃありませんか。言いたくても悶々と自分の羞恥心と葛藤している名前の姿を見るのもこうふ……愉しいですし」
 今うっかり興奮って言おうとしたぞこの男。
 頬を引き攣らせドン引きしている燭など露と知れず、平門は依然として胡散臭さが滲み出ている笑顔を堪えながら名前のことを雄弁に語る。
 最近はやれ露出が少なくなっただの、やれ素直に甘えてくれなくなっただの聞いていて思わず鳥肌が立つような事ばかり。
 惚気? いやいやそんな可愛らしい言葉では済まされない。
 名前……お前はとんでもない男に捕まったな。
 堪えきれず流暢に語る平門を尻目に踵を返した。もう、どうなろうが自分は知らない、知りたくもない。女を贄に差し出せば自分の平穏は約束されるのだ、最初からこうしていれば良かったなどとかなぐり捨てた。
 けれど前方に掠めた影を見つけて瞳を見開く。
男が気付くまで残り数秒。その前に咄嗟に声を張り上げた。

 興奮しますね、もちろんそういう意味で。

「あれ、燭先生? こんな所でどうしたんで…」
「名前早く逃げろ! 即刻、今すぐにだ!!」
「ああ名前、ちょうど良い所に」
「え。ちょっ、平門さ……っ! わー待って!!」
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