「初めまして名前さん、第貳號艇長の平門と申します。以後お見知り置きを」
 最初は、なんて律儀で素敵な方なんだろうと思った。
 恭しく一礼した物腰は柔らかく、にこりと浮かべた微笑みは酷く優しげで、これぞ大人の男という包容力が備わっていた。ひとつひとつ丁寧な所作に目を奪われて、心地好く耳朶を打つ低い声に神経が高ぶって。柄にもなく、心臓が強く脈打った。
 あいつの化けの皮に絆されるな、変に美化したところで傷付くのはお前の方だ。
 燭先生は口を酸っぱくしてそう何度も何度も私に言い聞かせて来ましたが、恋は盲目、痘痕(あばた)も靨(えくぼ)。たとえ慇懃無礼と言われようが冷酷非情と言われようが、どんな彼だろうと愛せる自信が有りました。
 それから平門さんは幾度となく研案塔に訪れました。
 その都度、燭先生は鬼の形相をしてあたかも野良猫を追い払うように門前払いを繰り返していましたが、彼は特別気にすることもなく私に声を掛けてくれました。
 嬉しかったです、途轍もなく幸せでした。
 取るに足らない端っこの存在、歯牙に掛けるほど大して何の能も持たない私が彼のような大きな人に覚えてもらえていたなんて、まさに天にも昇るような気持ちでした。
 次第に今まで研究にだけ注いでいた興味を、好奇心を外見にも向けるようになりました。ファッション雑誌を読んで、仲の良い看護士さん達にも上手なメイク方法とかを一から指南してもらって、やれることを精一杯やって自分を磨きました。
 平門さんは最初こそ変わっていく私に驚きを見せていましたが、綺麗になりましたね。そう笑って頭を撫でて頂けたとき、ああ、苦労あっての努力が報われたんだなと自然と頬が綻びました。
 そばにいると温かくて、さながら雲の上を歩くような心地で。このまま死んでも悔いは無い。そんな馬鹿げた思考にまで至るほど、私は彼に溺れていました。
 けれど大事な仕事を疎かにするほど私は愚かではありません。今まで通り滞りなく試行錯誤を重ね研究を進み、何事も変わらないまま日常を過ごしていました。ただ一つ変わったものと言えば、
「……平門さん!」
「名前さんこんにちは、今日も大変可愛らしいですね。…ああ、髪型を変えたからかな、似合ってる」
 平門さんとの仲が、よりいっそう親密になった事くらい。
 目を通していたデータを閉じて私の部屋に足を踏み入れた平門さんをソファーに促し、お茶を出して束の間の休息を二人で味わう。
 今日は燭先生に用事が合ったんですか? と小首を傾げれば彼はクスリと静かに笑って「貴女に会いに来たんですよ」と私を真っ直ぐに見据えてきた。……え、私?
 言葉の意味を理解してたちまち顔を真っ赤に染め上げた私を見て、平門さんは意地悪くも口角を吊り上げた。そんな表情にすらいちいちこの胸は熱くなるんだから、相当焼きが回ってしまったんだと改めて実感して視線を逸らす。
「逸らすな、俺の目を見ろ。──名前」
 初めて敬称も敬語も取っ払って放たれた言葉に、呼ばれた名前に大袈裟なほど肩が跳ねた。
 途端に呼吸が苦しくなって、きゅうと胸が締め付けられて。一度背けた顔を恐る恐る目の前に腰を据える平門さんに戻す。すると宝物に触れるように、大事な物を壊してしまわないように優しく優しく、労るように私の頬を滑る大きな手のひら。
 何往復もされる温かな温もり。いつも身に着けている手袋はいつの間に外されていたんだろうか、直接触れる素肌は少し乾燥していて、ざらざらとした感触が頬を摩擦する。けれど些細な刺激にすら私は恍惚として、愛しくて胸を焦がして。自らその手のひらに頬を擦り寄せた。
 愛しそうに細められる綺麗で涼やかな瞳。熱の籠もった瞳で見つめられているのはいま私一人なんだと、優越にも似た満足感に心を弾ませた。
 その後、ゆっくりと磁力のように引き寄せられ重なった唇。躊躇いなく侵入してきた舌は厚くて、熱くて。思考まで根刮ぎ奪っていくほどの激しいフレンチキスだった。
 幸せだったの。──そう、彼が本性を露わにするまでは。
「名前、」
「平門さん? あっ、この間のデータのサンプルですか?」
「ああ……、いやそれもだが。今日の服装……」
「これは仲の良い看護士の方にもう着れなくなったからって譲って貰ったんです。可愛いでしょう?」
「露出が足りないな」
「……は?」
 思いもよらぬ突飛な言葉に私は思わず呆気に取られた。開いた口が塞がらないとはこの事だろうか、ポカンと呆けた顔をする私はとんだ間抜け面を晒していたと思う。しかし平門さんはさほど意に介することもなく、固まった私そっちのけでプチプチとシャツの釦を外していく。
 胸元が徐々に緩くなっていく感覚に我を取り戻した私は慌てて服に手を掛ける平門さんの腕を掴むことで制し、「止めてください!」と真っ赤な顔で声を張り上げるが彼は何故止められたのか分からないようだった。
 ……言葉を失った。
 そう、彼は正真正銘の変態だったのだ。燭先生が言っていた化けの皮とはこの事かと理解しても時既に遅し。私の好きな笑顔でサラリとセクハラ紛いなことを口にする平門さんは、間違いなく数ヶ月前までは紳士だったあの素敵な男性だった。
 けれど今となっては、あくまでもジェントルマンを装っていたとしか思えない。一皮捲ったらこんな素顔が隠れていたなんて。
 でも、到底それしきのことで彼を嫌いになれる筈も無く。
 残念ながらベタ惚れな私は、泣く泣く施される数多のセクハラを躱し順応することで、今日までなんとか難を逃れてきたのだった。
「……窶れたな」
「燭せんせぇ……」
「だから事前にわざわざ忠告をしてやったというのに。私の親切を無碍にしたお前が悪い」
「そのことに関しては申し訳無く思ってます……結局は懐柔された私が悪いんですよぉ……」
「ええい、めそめそ泣くな鬱陶しい」
 取り付く島もなかった。
 深い溜息と共に一蹴された救いに為す術も断たれ項垂れた。誰か私の心の拠り所となってくれる心優しい人物は居ないものか。
 ツクモちゃんかキイチちゃんが来てくれたら癒されるのに、彼女達が余程酷い怪我でもしない限りまさか研案塔になど訪れる筈もなく。希望はガラガラと積み木のように呆気なく崩れ去っていった。
 一体どうすれば平門さんの日に日にエスカレートしていく行為は鎮静化するのだろうか、もういっそ以前のようなジェントルマンな平門さんに戻ってくれないだろうか。ふと恋しくなる遠い思い出。
 力無く机に突っ伏した私に、再び頭上から降り注がれる重い溜息が膠もなく突き刺さる。そんなに溜息吐いたら幸せ逃げちゃいますよ、燭先生。と言ったら誰の所為だ誰のと遠回しに皮肉を返された。ちぇ、相変わらず愛想も素っ気も無い。
 そんなこと言われたって、今更時間を巻き戻せるワケでもないしどうしようもない。確かにあの時素直に燭先生の言うことをまともに聞いていれば今こんなに頭を悩ませることも無かったのかなと思うのは紛れもない事実だけれど。
 ふぅ、と今度は私が深い嘆息を落とすと、同時に開かれる自動扉。間もなくして現れた黒い影に燭先生は即座に苦虫を噛み潰したように眉根を寄せ、にこりと人当たりの良い笑みを浮かべた男に「また貴様か」とさっそく嫌味を叩きつけた。
「またとはご挨拶ですね、俺は早く燭さんに会いたくて仕方が無かったというのに」
「おぞましいことを言うな気色悪い帰れそして二度と来るな顔を見せるな」
「相変わらず酷い言い種だな…名前さん、暫く会えていませんでしたが元気にしていましたか?」
「あ、はい」
「名前、さっさとこの男を此処からつまみ出せ。同じ空間に居るだけでも煩わしい」
「仕方ありませんね、また来ます」
「金輪際来るな」
 シッシッと手を払った燭先生は柳眉を逆立てて端正な顔立ちを歪めた。それを見て笑みを深める平門さんは確実に愉快犯だ。苦笑しながら先生の言葉に従って彼の腕を引き研究室を後にする。珍しく人っ子一人すれ違うことは無い。
 不思議に思いながら自室に平門さんを招き入れれば、平静に落ち着き払っていた今までの様子とは打って変わって荒々しく後ろから抱き寄せられる。不意打ちに弱い私を見透かしてのことだ。身動き出来ない私の顎を捉えた平門さんは顔を後ろに向かせ、まるで獣のように唇に齧り付いてきた。
 長い時間呼吸を奪われ、ガクガクと笑う膝。抜けそうになる腰を造作もなく支えて私を抱きかかえる彼は、息を乱しながらも必死に口付けに応える私を見て満足げに目尻を弛めた。
 厭らしく太腿を辿る手のひらに気付いて、理性の淵と戦いながらその手を制する。けれど私如きの力でよもや彼に適う訳もなく。
 やがて惜しげに離された唇に、私は糸が切れたように彼の胸元に脱力してしな垂れ掛かった。
「今日はミニスカートなんだな…珍しい」
「……お嫌い、ですか?」
「いや?」
 窺うように尋ねた私に、平門さんはまたクスリと笑って

ミニスカートは好きですよ、脚が見えますし。

でも、俺以外の男も見たとなると気に入らないな。
そう言って、彼は再び私の唇に噛み付いた。
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