「……ふふ、お寝坊さん。そろそろお目覚めの時間ですよ」
 薄い生地のカーテンの合間から射し込む眩い光。うつらうつら微睡んでいる俺の鼓膜を優しく揺らしたのは愛してやまない名前の声。
 ああ、夢の深淵から浮上して早々一番に彼女の声を聞き一日を迎えられるなんて、どれほど贅沢なことなんだろう。
 けれど貪欲な俺はいまいち物足りなくて、もっと名前の声を独占していたくて、あくまでも聞こえていないと如何にもわざとらしい狸寝入りを続ける。
 すると俺が起きていることに気付いているのか否か、深々としたため息を落とした名前が寝台に腰をかけるとスプリングが軋む音がした。
 サラリと前髪を横に退けられて、細い指先が頬を滑る。くすぐったい感触に思わず笑いそうになったがぐっと堪えて耐え忍ぶ。
 彼女の指先は仕事の一環で常に多種多様な薬品を触っているため少し皮が剥けて乾燥している。せっかく綺麗な手なのに勿体ないとは思うものの、研究をしている彼女はどんな時よりも楽しそうなので何も口出しは出来ない。
 正直俺といる時より活き活きとしているのは気に食わないし妬けるものだが。それに、名前ならどんな手をしていようがこよなく愛せる。
 まるで焦らすようにただ頬を這うだけの手を捕まえて、まったく無警戒だった名前を布団の中に引きずり込む。掴んだ手首を自らに寄せて手のひらに口付ければこそばゆいと抵抗する力。
 造作もなく押さえつけて華奢な体躯を抱きしめれば、無駄な足掻きは無意味だと悟ったのか再びため息が落とされて渋々と背中に両腕が回された。
「もう……やっぱり起きてた」
「本当はおはようのキスでもしてくれるんじゃないかと期待してたんだが?」
「残念でしたー。そんなことしたら平門さんを喜ばせちゃうだけですから。いつも意地悪ばっかりされるから、ちょっとした意趣返しです」
「意地悪なんて人聞きが悪いな、俺は可愛い恋人を愛でているだけのつもりだったのに」
「ほら、そうやって直ぐに可愛いなんて言って私のご機嫌取ろうとするんだから。平門さんの手口は把握しました。巧妙な罠にはもう引っ掛かりませんからね!」
「……それは残念」
 冗談なんか口にした覚えはなく、俺はいつも本当のことしか名前に言わないのに。始まりが始まりなだけあって、俺の恋人は随分と疑り深くなってしまったようだ。他の人間に対してもこうだともう少し安心出来るのだが。特に燭さんとか燭さんとか。
 ふと仕事中の二人の距離の近さを思い出して、向かっ腹が立った俺は突然黙り込んだ自分を不思議そうに窺う名前の唇に齧りついた。
 途端に驚きで丸められる愛くるしい瞳。状況を理解して逃げ出そうと捩る身を組み敷いて押さえつけ、殊更交わる口付けを深くした。
「は、ぁっ……平門さ、」
「……名前」
 唾液を送り込み嚥下させて、熱い息を零し涙目で見上げてくる名前を前に我慢なんてものは抑制が利かなくて。やがて受け入れるように背中から首に回った腕に気を良くした俺は、白い鎖骨が覗くシャツのボタンに手を掛けた──その時。
 ……とさん、平門さん!
 体を揺さぶられる感覚がして、さながら我に返るように心地の好い眠りから覚めた。
 未だ冴えない頭で心配げに俺の顔を見つめる名前を一瞥する。節々が痛む体に、ああ、あれこそが夢だったのかと内心落胆する。通りで都合の良い展開だと思った。
「立ったまま寝るなんて……なんて器用なんだと思いましたけど、やっぱりそれほどお疲れでしたか? 無理に今日誘ってしまいすみません」
 やるせない思いに憂鬱とした嘆息を吐いた俺に名前が落ち込んだように瞳を伏せた。そんな顔しないでくれ、ただでさえあの白昼夢の所為で行き場の失った熱が生殺し状態なんだ。いつ抑えが利かなくなるか自分でも予測不可能で。
 下手なことを言えばうっかりと墓穴を掘りそうで、俺は敢えて何も言わず苦い笑みを堪えて俯く名前の頭を撫でた。しかし何も言わなかったことが却って彼女の不安を煽ったのか、一度曇った面持ちが簡単に晴れることはなく。恐る恐ると触れることを躊躇うように俺の目元に指先があてがわれた。
「濃い隈がくっきり……せめて食事が出来るまでは休んでいてください。完成して食卓に並べたら必ず起こしますから」
「嫌だ。やっとの思いでもぎ取った二人で過ごす休日なのに眠って時間を潰してしまったら惜しいだろう? それに料理してる名前の後ろ姿をこうやって眺めるのも、新婚気分を味わえて良いものだしな」
「……ばか」
「懲りずに減らず口を叩くのはこの口か?」
 照れ隠しゆえの悪態だとは分かっているが、どうせならからかってやろうと僅かに膨れた頬を抓れば「痛い痛い!」と訴えられる。けれどその表情はたちまち柔らかく綻んでいて、先程まで孕んでいた憂慮などは一切形を失くしていた。
 わざわざ言葉にせずとも熟知していたことだが、名前は笑っていた方が可愛い。もちろん泣き顔や怒った顔もこうふ……そそるものがあるが。屈託無く振る舞う満面の笑顔が好きなのだと改めて実感する。それも俺だけに向けられているものならばこの上なく幸福だと胸を張って豪語しよう。
 べた惚れ? 心酔? 盲目溺愛? ごもっともだが何か文句でも?
 因みにこんな俺を一目見て腹を抱え、笑い転げた朔には空魚の途を浴びせたが軽々避けられたのは黙秘するとして。子供のようにあどけない笑みで今や俺の手にじゃれる名前の額に口付けを落とせば、さもくすぐったそうに肩を竦めてクスクスと笑う。額なのは今にも呆気なく崩壊しそうな脆い理性を懸念して妥協したから。
 ああもう、本当にこれからどうしてやろうか。
 料理している名前の姿を堪能しておきたいし目に焼き付けておきたいし、何より名前自身が楽しみながら俺の為に(ここ重要)手料理をもてなしてくれるというのだ、今は大人しく温かい眼差しで見守ろう。だが全部片付いて一段落したら……不埒な想像を脳裏で掻き立てる俺をそっちのけに、名前が再び白いエプロンを身に着けてグツグツと煮立つ鍋の方へ向かった。
 …裸エプロンもたまには良いかもしれない。
 新婚気分だというのならとことん演じてみるべきか。ならば良くある「ご飯にします? お風呂にします? それとも……」なんて常套句もやらせておけば良かったと後悔してももう遅い。
 いや、でもこういうのは気持ちの問題だろうか? どうせ頂くのは名前なんだしな。
 ふむ、と顎を撫でながら思考に耽る。キッチンからはまな板を打つ音が一定のリズムで響いてきて、醸し出される家庭的な雰囲気にだったらこうすれば良いかとおもむろに彼女の背後へ忍び寄った。
「っひえ!?」
「ほら、ちゃんと集中しなきゃ指切るぞ?」
「だ、だったら唐突に後ろから抱きつかないでください!」
 びっくりした! と顔を真っ赤にしながら上がる抗議の声をサラリと受け流して、腰に回した腕になおいっそう力を込める。
 次第に離す気は無いと悟ったのか引き剥がすことを諦めたらしい名前はまた包丁をしっかりと握り直し、玉ねぎに刃を入れ始めた。
 しかし、玉ねぎといえば……。
「〜〜っ」
 ……ああ、案の定。
 玉ねぎにはアリルプロピオンという成分が含まれていて、その物質が玉ねぎを刻む際に目に入ると刺激を起こして目が染みてしまうのだそうだ。細胞を壊さないように巧く包丁を入れれば殆ど染みることは無いというが、なんせ俺が抱きついているこの状況、照れ屋な名前が集中出来る筈もあるまい。
 名前、大丈夫か?
 そう仕組んだのは自分であるくせに白々しい問いだとは思うが聞かずには居られない。後ろから抱き込む腕は決して緩めずに顔を覗き込めば透明な雫を瞳いっぱいに堪えた名前が俺を見上げてきて──。
 理性よ、さらば。
 本能よ、よくぞ耐えた。
「…え、ちょっ、平門さんどこ行くんですか!?」
「寝室だ」
「ご飯が…!!」
「後でいい」
 不可抗力とはいえボロボロ涙を流す名前にまさか俺が我慢出来る筈もなく。このあとまた異なった意味で更に泣かせたのは、別の話で。


そんなに泣かないでください、理性が保てなくなる。


(結局保ってないじゃないですかばかああああああ!!)
(さてなんのことやら)
ALICE+