「名前が風邪を引いた、と?」
「だからそう言っているだろう馬鹿め。どこぞの馬の骨が彼女に無理を強いていたようでな、今になりその疲れがドッと出たんだろう。節操の無いどこぞの、誰か、の所為でな」
「どこの不逞の輩ですか木っ端微塵に捻り潰してきます」
「貴様だ阿呆」
 非は自分にあると分かりきっておきながら白々しい、と燭が額に青筋を立て毒づいた。
 街で込み入った野暮用を済ませ研案塔に足を運んだ平門に知らされたのは、愛しの名前が熱に浮かされ寝込んでいるという寝耳に水な出来事だった。
 確かに仕事柄不規則な生活を送ってますけど私、身体が丈夫なのが取り柄なので!
 そう朗らかに笑って、されど胸を張って自慢げに「大丈夫です!」と明言した恋人を思い浮かべて全然大丈夫じゃないだろう、と内心ごちた。いくら若いからと言えど圧倒的に身の程を上回る膨大な仕事量、日々過酷なハードスケジュールを粉骨砕身、余力を残すことなく常に全力で熟していき、そんな四六時中肩肘張った状態じゃいずれ身体を壊すだろう。平門が前々から懸念していたことはついに現実となってしまった。
 確かに燭の言う通り自分も無理をさせてしまっていた自覚はある。今日こそは何も致さずただ甘やかそう癒してやろうと意気込んでいても、最終的には理性の糸が我慢しきれずに呆気なく千切れて別れを告げる。もはやそれが定番、お約束と化していてぐうの音も出ない。
 ……だって仕方ないだろう、名前がいちいち俺を煽るような仕草を取るのが悪い。
 事が済んだあと毎度真っ赤な顔で馬鹿馬鹿となじってくる女に悪びれもなく言っていたものの、流石に名前が床に伏してしまった今となっては罪悪感も湧いて出るもので。せめてもの償いとして直々に手厚く看病してやろうと踵を返すと、背後からどこへ行く気だと厳しい声音が飛んできた。
「おや、名前の部屋ですが、何か問題でも?」
「問題大アリだ馬鹿者! もし貴様がここに来たら熱が移るから絶対部屋に通すなと名前から事前に言付けを預かってる。せめて今日くらいはゆっくり一人で……っておい!」
「こうしてる今もなお苦しんでる恋人を一人にしてられるほど甲斐性無しな男では無いので。どんなに名前が突っぱねようが嫌がろうが、今日は一日問答無用で彼女の傍に居させて戴きます。宜しいですよね?」
「…っ勝手にしろ、どやされようが私は知らんぞ」
 あくまでも自分の主張を譲る気はないという平門の頑なな姿勢に根負けしたのか、ぐっと言葉を詰まらせた燭はやがて面倒だとばかりに重いため息を吐いてシッシッと手を払った。相変わらず野良猫を扱うような投げ遣りな対応に苦笑いする。
 だがこれはこれで都合が好い、ありがとうございますと感謝の意を述べれば早く行けとにべもなく追い払われた。
 言われなくとも。足早にその場を後にして、もう大分慣れ親しんだ道なりを進み目的の扉をノックする。しかし時間が経っても返事が返ってくることは無く、もしや部屋の中で倒れているのか。嫌な予感が的中してしまわないことを祈りながら逸る心を抑え扉を開けば、真っ暗な視界に包まれる。
 照明のスイッチを壁伝いに手探りで探し当ててオンにすれば、暖色の色が部屋を照らした。そして、瞳を見開く。
「──名前!」
 らしくもなく冷静を欠いて、ドクドクと早鐘を奏でる心臓になりふり構わず床に座り込む小さな影に駆け寄った。
 「ひ、らとさん…?」俯いていた顔を気だるげに上げた名前に、朦朧とはしつつもしっかりと意識があったことに胸を撫で下ろす。
 色々早とちりしてしまっただろう馬鹿、と額を小突けば痛いと訴える弱々しい声。しんどそうではあるが想像していたよりも酷くは無く、この調子ならあと数日もすれば完治するだろうと予測を立てて名前の体躯を抱き上げる。
 ちょ、重いから良いですよ!下ろしてください!
 じたばたと抵抗する力を造作もなく押さえ込み、良いから病人は黙って従うんだと有無を言わさぬ口調で諭せば女は咄嗟に口を噤んだ。
 物分かりが良くて助かる、静かにされるがままとなった名前を寝台に寝かせ休むよう言い渡せば渋々と布団を手繰り寄せる腕。不満だと言わんばかりにジト目で睨んでくる眼差しにこれだけ威勢が良いなら大丈夫だなと笑みを零し、詫びの代わりに先ほど小突いた額に口付けを落とした。
「食欲はあるのか?」
「さっき同僚に卵粥を持ってきていただいて……それを少々食べました」
「ということはちゃんと薬も飲んだんだな…なら、床に座り込んでいた理由は?」
「ミネラルウォーターが無くなっちゃったから取りに行こうと思って……でも途中で物に躓いちゃったんです。立つのも億劫だし、地べたの方が冷たくて気持ちいいし……もういっそ床に転がって寝ようか迷ってた時に平門さんが来て」
「……もういい、あらかた事の経緯は分かった。とりあえず床で寝ようとはするな、悪化するだろ」
 後先考えない名前の行動にヤレヤレと呆れ混じりにかぶりを振って、平門は部屋の中をぐるりと一辺見渡した。
 とてもお世辞には綺麗と言えない室内。机の上には図形や様々な数字が連ねられた書類が散乱し、更に奥には怪しい色をした液体が入ったビーカー、もくもくと蒸気を発している何か珠のようなもの。訊けばあれは名前が独自に造り上げた加湿器だという。さながらマッドサイエンティストの部屋だとは口が裂けても言えず、こんな整理整頓もろくにされていない無法地帯と化していれば躓くのは当たり前だろうと頭を抱えた。ここ最近忙しくて掃除する暇が無かったのは分かる、が、こんな劣悪な環境に居れば風邪を引くのも至極当然のことだった。
 近いうちに名前専用の羊を一体用意するか…?深刻な問題に思わず真剣に悩み込んでしまう程。そうすれば名前が根を詰めても寝食を疎かにする、なんてことは無くなるだろうし、毎朝行われる健康チェックも万全で抜かりない。そうしようと平門の中で決定が下されたのは僅か数秒後のことだった。
 はぁ、熱の籠もった息を吐いた名前に眉を顰める。薬を飲んでおおよそ容態が落ち着いてきてはいるのだろう、しかし風邪というのは厄介なもので、体温が平熱に下がっても当分はだるさや頭の重みなど長引くことがある。依然と辛そうな様相の恋人の姿に出来るなら自分が変わってやりたいと思いながら、平門は額に滲む汗を拭って紅潮した頬に手を当てた。直ぐさま名前が自分よりも体温の低いそれを求めて手のひらにすり寄ってくる。
「…あまり無防備な姿を晒されると危ないんだが」
「やだ、今日はだめです」
「分かってるさ、俺だって弱りきってる恋人に追い討ちを掛けるような真似はしない…それ以上男をそそ、んん゛っ。煽るような行為をしなければな」
「聞かなかった事にしますね」
「そうしてくれ」
 本当は熱など人肌で吸い取ってしまえば手っ取り早いんだがとは口にせず。
 本音は咳払いで誤魔化した。といっても誤魔化しきれてはいないが、そこは名前が耳を塞いでカバーした。訓練された恋人である。
「早く元気になれ……俺のせいで花のかんばせが曇るのは見ていて心苦しいからな」
「平門さんのせいじゃありません……私が体調管理を怠ったのが原因なんですから」
「この前散々なかせて喉を痛めただろう? その隙に風邪菌が付け入って……イタッ」
「平門さんのばか!」
 デリカシーを感じられない露骨な言葉に名前が元々真っ赤だった顔をよりいっそう赤らめて枕を投げた。枕は見事平門の顔面にヒット。さほど加減はされていたのか眼鏡は奇跡的に割れなかった。
 もしもこれをやったのが他の連中だったらそいつは今頃息をしていないだろう。けれど名前が行ったいじらしい反抗だと思えば痛みさえ甘んじて受ける。が決してマゾな訳ではない。
 あくまで平門がそれほど彼女に入れ込んでいる、ぞっこんだという比喩的表現だ。
「本当のことだろう? 冗談は言っていないが」
 いけしゃあしゃあと抜かす男にまだ軽口を叩くかと名前が睨む。しかし羞恥と熱がない交ぜになって潤んだ瞳で見つめられても平門の中の理性を掻き乱すしか効果は為さない。
 ああ言えばこう言う。口から先に産まれたような男に何を言っても無駄骨でしかないと諦めた名前は、不敵な笑みを湛える平門に背を向けるようにして寝返りを打った。顔が見れないと寂しいな、呟かれた言葉に心は揺れたが屈しない。
 絶対に負けるもんかと変に対抗心を燃やしながら、おもむろに今まで窮屈だったシャツの第一第二ボタンを外した。次第に後ろから物理的な痛みを感じそうなほどひしひしと注がれる熱視線に居たたまれなくなって、目線で「何です?」と問い質す。
「……色っぽいアングルだな」
「貴方の頭の中はそれしか無いんですかこの節操なし!」
「燭さん然り名前然り手厳しくないか? 俺だって男の端くれなんだ、やましいこと考えて何が悪い」
「不貞不貞しく開き直らないでください。思っていても口にはしないのが大人ってものでしょう」
「それじゃただのムッツリスケベだろう」
「ぐっ、それもそうか……」
 巧みに言いくるめられた。納得してしまった。
 熱に浮かされもう何を言えばいいのか思考回路も定かではない、平門の相手をして余計体温が上昇したんじゃないかと瞳を綴じて布団を横に退ける。
 「寒くないのか?」という問いには誰かさんの所為で暑くなりましたと皮肉をたっぷり込めて突っ返した。喉奥で押し殺すような笑いが聞こえてくる。構うことなく汗で肌に張り付くシャツをパタパタと扇げば、不意に手首を掴まれ制された。
 そして──。


誘っているように見えたので、つい。


 汗が伝う首筋をべろりと舐め上げられ、生温い感触にひっと頬が引き攣った。
 すかさず引っ剥がして「何するんですか!」と抗議の声を挙げれば、誘っていたんじゃないのか?と明らかにそんな意図は含まれていないと分かっていながらわざと名前の羞恥を煽るように尋ねてくる。身に余る危機感を募らせ即座に名前が戦闘態勢、威嚇モードに移行すれば零された苦笑。
「そんな頑として身構えなくても大丈夫だ、今日は本当にこれ以上何もしない」
「……本当に?」
「お前に嘘は言わないよ」
 但し治ったら覚えておけ。
 今回お預けを喰らった分、激しく愛してやるからな。耳許で囁かれた言葉に下腹部へ甘い痺れが走って、もう!と目前に迫った胸元を叩いて退けた布団を今度は頭から被った。ああ、彼のこんなところも愛おしいだなんて、自分も大概末期なんだ。
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