名前と喰が任務でここ、歩む鉄城ヴァントナームに逗留してから早三日が経過した。
 直に名前が貳號艇を離れて一週間になる。
 時の流れはあっという間だと感慨に耽る暇もなく出立の日は訪れ、街に到着次第あらかじめ用意されていた宿に荷物を置き、ひとまず二人は個々に情報を収集する事から始めた。
 喰は能力躰が多数目撃されたという洞窟に赴き、名前は街を巡り人々から地道に聞き込み調査を。

 朔から下された猶予は五日間。必ず期間内に片付ける事。
 残った日数はあと二日。二人は日付が変わる前に喰の部屋に集まり、お互いがこの三日間で得た成果を神妙な面持ちで交わし合った。

 まず名前が掴んだ情報を整理する。
 人々や街の警備隊の協力を経て訊いた行方不明者。その殆どはまだ年端もいかない子供や老婦が多く、どれも昼外に出掛けたきり姿を消したという事例ばかりだった。
 実際に行方知れずとなった子供の両親にも掛け合ってみたが、泣き崩れたボロボロの精神状態で無理に話を訊くことは酷だと断念。しかし先日件の洞窟から負傷して帰ってきたばかりという若い警備隊の男から、思わぬ端緒を入手した。

「洞窟の奥の方で、なにか呻くような声が聞こえたんです。行方不明者かもしれないって奥に進もうとしたんですけど、突然、虫みたいなのがたくさん襲いかかってきて……死に物狂いで逃げて、それから意識を失っていて、気付けば俺は街にいました」

 ゆっくりその時のことを思い出しながら、噛み締めるように一言一句紡いだ男に礼を言って、概ね情報を集め終えた名前は宿に戻ってきた。
 時を同じくして振り分けられた部屋の前で出会した喰が洞窟から持ち帰ってきたのは、既に腐りきった人間の眼球だと思われるもの。
 ────黒だった。
 きっと洞窟の奥から木霊していた声というのは能力者だろう。何らかの理由でそこに住み着き、能力躰に洞窟に踏み入れる人間を襲わせては追い返している。
 そして腹が減れば自ずと顔を出し何の罪もない街人を喰らっているのだろう。いずれにせよこれ以上長引けばもっと厄介なことになる。
 判断を下した二人は早かった。

 作戦実行は明日の夜。
 能力躰がより活発化するであろう時間帯を選び、奥に潜む能力者の尻尾を引きずり出す。話を終えその場で解散とし、名前はここ数日で溜まった疲労と共に溜息を落とした。
 外は雨。──明日には止むだろうか。
 一抹の不安を宿しながら、慣れない固い寝台に泥のように沈んで夜の帳に別れを告げた。



「……ここ、ね」
「足場が悪いから気をつけてよ。くれぐれも足だけは引っ張らないように」
「分かってますって、」

 いつものように幼馴染みの皮肉をサラリと流して、湿気で泥濘が酷くなっている洞穴を広く見渡す。
 昨夜あれだけ降りしきっていた雨は止み、空はまた冴え冴えと照る月を飾っていたが、流石に洞窟内ともなると明るい月の光すら通らない。
 警備隊から前もって譲り受けた松明に火を灯し、二人は気配を悟られないよう険路を慎重にひた進んだ。
 今のところ能力躰が襲ってくる兆しは見えない。こちらの出方を窺っているのかとも懸念したが、そもそも窺っている以前に影も形もないのだ。

 …なんか、嵐の前の静けさって感じだね。
 名前が緊張感で表情を強張らせながら前を歩く喰に不安を漏らす。彼もまた同調し、面倒臭いと言わんばかりに嘆息した。

「さっさと片付けて戻るよ。あんまり長居したくないしね」
「同感」

 奥に進めば進むほど天井に反響する声は高くなり、本道も徐々に難路を窮めていく。このまま戦闘に縺れ込んでしまったら状況的にも風向きが悪くなるのは必須だった。
 少しでも急いだ方が良いと現状を危惧した二人の足は自然と早くなる。

「ところでさ、」
「うん?」
「花礫君とはどうなったの」

 何の前触れもなく唐突に振られた話題に名前の歩みが一瞬止まる。
 が、ハッと我を取り戻し再び喰の背を追った。

「急に何?」
「いや、だって一度は蹴った朔さんの誘いといい今回の任務といい、突然やっぱり請けるって言い出したんだろ? 一つ考えられるとしたら彼となにか合ったんじゃないかと思って」
「喰きらい」
「あっそう。僕は別にどっちでもないけど」
「嘘。ほんとは優しいの知ってる。だから好き」
「………そう」

 松明を揺らして隣に並びヘラリと笑った幼馴染みの頭にポン、と触れた。
 見事に玉砕、そう笑いながらも呟いた彼女の横顔は赤に照らされていて、小さく影が落ちる。
 分かりきっていたことだ。予想通りの顛末に、喰はそれ以上何も言わずただ前だけを目指した。
 有り難かった、その沈黙が。何か発したら嗚咽が洩れてしまいそうで、名前はぐっと唇を噛んで堪えた。
 今は任務遂行中だ、公私混同する訳にはいかない。気を抜いたら足元を絡め捕られるだろう、不安定な現況に警戒心を高めながら弱る心に叱咤を打つ。

 暫く歩けばいつしか最奥にまで辿り着いたのか、今まで通り抜けてきたどの道よりも広い空間に出た。
 刹那、一斉に向けられる殺意の鉾先。
 お相手は待ってましたと腹を空かせ歓迎ムード、鋭い牙に蜜を滴らせ戦闘態勢はバッチリらしい。
 喰と名前もまた口角に弧を描き、それぞれ己の武器を手に取り振るった。
 まずは軽く挨拶程度に付近を飛んでいた二体ほど。次に五体纏めて一網打尽と潰しに掛かる。

「名前、全部で大体何体くらい?」
「うーん、そうだね。今ここに居るのはざっと五十…若しくは七十くらいかな」
「そう。──なら、直ぐに終わるな」

 眼鏡を外した喰が鞭を薙ぐ。
 暗闇が彼の特別優れた視力を阻むことはなく的確に宙に浮かぶ能力躰を払っていく。負けじと名前もぬかるんだ地を蹴り、手の内にあるバトンを振り翳す。
 彼女の手から放たれた光の閃光が数多の能力躰を貫いた。相手の力は弱い、けれど肝心の能力者の影が見当たらなかった。
 斬っても斬っても湧いてくる能力躰の群れに舌打ちを一つ。すると、

「────名前!!」

 喰の焦ったような声が、鼓膜を揺さぶった。

 振り向いた先には闇に蝕まれたかつて女だったであろう能力者の姿。瞠目して、忍び寄ってくる手を退けることも儘ならないまま、額に指先があてられる。
(まずい、)
 厭に高鳴る鼓動は、しかし雪崩れ込んでくる映像を拒むことは出来なかった。



 手を伸ばした、焦がれた背中に。
 だけど背はどんどん遠退いていって、
 叫んだ聲は届かなくて、

 落ちた泪は地に弾けて、

「目障りなんだよ」

 魅せられた幻想は、
 儚く泡となって散っていった。


 名前の体躯が傾いた。
 視界を染める赤、辛うじて端に映ったのは幼馴染みの今までにないくらい焦燥に塗れた表情。それでも脳裏を占めるのは、最後に見た彼の冷たい瞳で。
 どくどくと体から何かが欠け落ちていく。

 泪? 命?
 一体どちらでしょうか。
 いいえ、どちらもでしょうか。

 見せられた錯覚と過ぎ去った現実との狭間で、名前は自分の荒くなった呼吸だけがいつまでも耳の裏に纏わりついていた。

(どうせ最後に見るのなら、あんなつめたい眼じゃなくあなたの笑ったかおがよかった、な)

 もう遅いのに、ね。
 彼女の手は、力無く垂れた。
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