…おかしい。どうも近頃違和感が拭いきれない。
 調合中の薬品を慎重に机の上に置き、一段落片がついたところで名前は釈然としない憂鬱な気持ちを抱えたままため息を吐いた。
 今回の実験は成功してくれるだろうか。一抹の不安をひしひしと肌身で感じながら、内心調子が悪いのは間違いなく平門さんのせいだ、と半ばやけくそに責任を転嫁した。
 ここ最近の名前は研究開発に必須とされる集中力皆無、つまりは注意が散漫していた。原因は言うに及ばず忽然と姿を現さなくなった恋人のことを考えていたから。
 元来彼は上に立つ立場の人間であり、余計な時間を割いている暇はなく、悠々と研究に勤しんでいられる名前とは比にならないくらい多忙な人だ。逆に仕事の合間を縫ってでも頻繁に顔を出していた今までが信じられないことであり、また極めて夢のようなことだった。
 また仕事が忙しくなったのだろうか、それ自体は別にさほど珍しいことでは無い。ただ事前に何も知らされずぱったりと連絡が途絶えるのは前例が無いことで、名前は暫く顔を見ていない平門を案じていた。だからというわけでは無いが、傾注もそこそこに開発中の調合を継続した結果、量配分を誤って薬品が爆発するなど連続での失態ばかりを侵し。燭にはこれじゃ幾つ命があっても足りないから当分研究は控えろとこっぴどく叱られた。
 けれど何かしていないと悶々として落ち着かなくて、結局は誰にも相談せずに秘密で自室に籠もり実験に耽っていたのだが。
 会いたい……平門さん……。
 一体でも多くの能力者殲滅の為たゆまぬ努力を惜しまぬ彼に、ましてやたくさんの責を負う彼にそんな我が儘とても言えなくて。きゅう、と切ない心に頑丈な蓋をして閉じ込める。自分から行動したくとも平門が居るのはあの艇だ、燭から許可を下されなければ動けないし、自力で空も飛べないから付き添いが無ければ行くことは不可能。
 打つ手無し、八方塞がりかぁ……。為す術がない名前は途方に暮れて、手持ち無沙汰となった片手でおもむろに緑色の液体が入ったビーカーを傾けた。瞬間、零れた一滴が調合中で煮詰めていた別の薬品に入り──黒煙を上げて爆発した。
「……っげほ、げほ……!」
「っ名前さん!? 今の音……ご無事ですか!?」
「、あれツクモちゃん……? 大丈夫ですよ、また実験失敗しちゃっただけなので」
 何故か研案塔に来ていたらしいツクモが今の凄まじい音を聞いて駆けつけたらしい。心配げに窺ってくる少女にヘラリと頬を弛ませ、怪我もないことを証明すれば安心したように細められる目尻。
「それより、ツクモちゃんはどうして此処に?」
 気になったことを尋ねればツクモは暫し逡巡する素振りを見せたが、直ぐに真剣な面持ちになると名前さんに貳號艇に来てほしいんですと率直に用件だけを述べた。
 私が貳號艇に? はて、と理由を考える。確かに平門に会いたいが会えないというジレンマを抱えやきもきしていたが、いくら何でもタイミングが良すぎやしないか。ツクモの申し出は願ってもないことだったが、果たして何の関係もない自分がお邪魔してしまってもいいのか。
 即にでも頷きたいが平門の迷惑になるんじゃないかと考えると素直に頷けない。
 彼女が口にせずとも苦々しい表情から名前の葛藤を察したのだろう。ツクモはゆっくりかぶりを振って、「平門に会ってほしいんです」と更に言葉を投げかける。ますます意図が読み取れず小首を傾げれば、少女は気まずそうにポツポツと事のあらましを話し始めた。
 平門が研案塔に訪れなくなったこの数週間。
 やはり予想した通り仕事は多忙を窮め、平門はもちろんツクモ達もバタバタと忙しなかったらしい。通常のデスクワークに加え葬送任務、輪のショー、能力者の居場所を突き止めるための潜入捜査その他諸々。ようやく一昨日で仕事の区切りは付いたが、平門は上層部への報告や山のように積み重なった書類捌きなどに追われ現在もまともに休めていない状態だという。
 「そんな中、前振りもなくお伺いしたらやっぱり迷惑になるんじゃ……」。名前が不安げに眉を潜め恐る恐る口にすると、ツクモは再び首を振る。むしろ束の間の癒しになるだろうから、平門を少しでも安心させてあげてほしい。
 ツクモが用あって彼の自室に足を踏み入れようとした時、扉の隙間から死にそうに恋人の名を呼ぶ声が聞こえたらしい。想像して名前が苦笑した。どうやら重症なのは自分だけでなくあちらもだったと。
「そういうことなら……。ただ、発つ前に一つだけお願い聞いてもらっても良いですか?」
「、何ですか?」
「……シャワー浴びてからでもいいですか……? こんな格好じゃあ流石に平門さんをびっくりさせてしまうでしょうから…」
 いやはやお恥ずかしいと頬を掻きながら目を伏せた名前のあちこちには、先の爆発のせいで黒い煤が付いていた。ごもっとも、こんな状態で艇に行ったら平門に会うまでに他の者にも驚かれる。それは勿論とツクモは快く承諾してくれた。
 「先に着替え準備しておきますね」と言ってくれた優しい少女の心遣いに感謝しつつ、名前は洗面所へ向かった。愛しい恋人に会えるまで、高鳴り逸る鼓動を抑えつけながら。

 ────そして、ツクモと共にやってきた貳號艇。「久しぶりメェ」という羊の歓迎を受け声紋認証を何事もなく通過した名前はツクモと別れ、一度だけ訪れたことのある平門の自室の前で一人立ち往生していた。
 いきなりノックしてしまっても良いのだろうか。此処まで来ておいて今さら尻込みする自分が情けないが、もし仕事に差し障ったりなんてしたら申し訳ないとグルグルと後ろ向きな思考が脳裏を占める。ああ、度胸の欠片も無い。
 すると、扉の向こうから「そこにいるのは誰だ?」と言葉が飛んでくる。心なしか声音は名前が普段耳にしているものよりも僅かに固く、少々疲弊が滲んでいて。意を決して、失礼しますと告げながら扉のドアノブを捻れば、腰掛けていた平門が息を飲む気配がした。
「……幻、か?」
「に、見えます?」
「いや……見えない、な。夢だけで無くとうとう幻影まで見るようになったのかと……」
 未だ半信半疑な様子の平門にふと笑みを零して、唖然としている彼に近寄っていく。隈が色濃く残る目元をなぞれば重ねられる大きな手のひら。そのままぐいっと強く手繰り寄せられ、均衡を崩して蹈鞴を踏めば難なく広い胸に受け止められる。巧みに腰を支えられ、膝の上に乗せられて、息が詰まるほどの強い力で抱きしめられた。
「どうしようもなく会いたかった……会いたくて、会いたくて何度も夢でこんな風にお前を抱きしめて。だけど目覚めれば一人で、当たり前だが名前は居なくて……どれだけ俺が虚しい思いをしてあまつさえ身を焦がしたか……お前に分かるか?」
 後頭部に手を回され、耳許で直接吹き込まれる睦言に眩暈がした。一心にただ自分だけを求められる甘美な感覚に酔いしれる。けれど平門だけが求めていただなんて勘違いも甚だしい、恋い焦がれて止まなかったのは私もなんだから、と。
「私だってすごくすごく会いたかったんです……平門さんが傍に居ないと物足りなくて、研究にも集中出来なくて失敗続きで、燭先生にも怒られて……。どうしてくれるんですか。私の頭の中、こんなに平門さんに支配されちゃってるんですよ?」
 いつもこんなに饒舌に自分の胸の内を明かさない名前が、まるで枷が外れたかのように本音を口にする。甘えるみたいに、平門の肩口に頬をすり寄せて。恋人の自分ですら滅多にお目にかかれない様相に平門は愛おしげに口許を弛めた。
 「そう、か」。男がそう言ったきり自然と二人の間には沈黙が下りた。今は言葉を交わすなど無粋なことはしなくていい、互いの存在と息遣いをじっくり堪能して味わって。今まで会えず不足していた分の温もりを心ゆくまで補充する。
 そして、不意に視線が交錯すると唇を重ねた。ありったけの想いをぶつけるかのように荒らされる咥内。唾液が名前の口端から顎に伝い落ちても構うことは無く、幾度も顔の角度を変えてより深められる口づけ。歯止めは利かない、する気も起きない。
 そうして夢中になって名前が平門から施されるキスの嵐に応えていると、おもむろに左手を取られ薬指に何かが嵌められる。
 ヒヤリとした冷たい感触、これは一体…?朦朧した意識の中そっと唇を離され、目線を下ろせば。
「……!」
「俺は戸籍は無いから結婚は出来ないが、いずれ必ず渡したいと思っていたんだ。虫避けとして、名前が俺のモノだという証拠として。ずっとこの薬指を縛りたいと思ってた」
 名前の真の幸せを考えるなら、本当はこの指輪を渡すべきでは無いのかもしれない。自分とは別れ、他の人間と結婚して子を授かって、そんなありふれた女性の幸せを掴んだ方が名前にとっては良いのかもしれない。けれど自分には彼女以外考えられなくて、彼女が他の男と笑って人生を送るなんて想像しただけで身の毛がゾッとして。とても耐えられなかった、顔が分からないどころか出逢ってさえ居ないその男を殺したいとさえ考えた。
「結婚は出来ない、家族にはなれない。が、二人でなら、名前とならそんな紙切れ一枚の薄っぺらい誓約なんて結ばなくとも幸せを築くことが出来る気がする。いや、出来る。…受け取って、くれるな?」
「……拒否権なんて無いくせに」
「お前も断る気なんて無いくせに。……そうだろう?」
 不適に笑む恋人の確信をもった問いかけに、名前は否定も肯定もせず微笑んだ。
 私の一生を、奪い去る覚悟があるのなら。
 これまた返ってくる返事は疾うに分かりきっていながら問いかけた。
 ──上等だ。
 自信満々囁かれた言葉に肩を震わせ身を竦める。その後降ってきた温もりは、未だかつて体験したことのない蕩けるような交わりだった。


好きなんです貴方のことが。だから、いいですよね?

 選択肢なんて初めから与えちゃいない。この手から逃がす気など毛頭無いのだから。
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