今まで時間の流れがこんなに長いと感じることはあっただろうか。項垂れる无の背中を宥めながら、ツクモは憂い気に瞳を伏せた。
 彼女たちが喰の声を聞き、艇の転送ポートに向かった先で見たものは、凄惨な光景だった。
 ポトリ、力無く垂れた指先から零れ落ちる命の源。変わり果てた姿の彼女を抱く喰の服は赤を帯びて更に黒みを増していて、然れど彼は頬に付いた血を拭うこともせず血相を変えてたった一人の幼馴染みの傷口を押さえていた。
 彼の表情は長い付き合いのあるツクモや與儀も見た事がないくらい焦り、怒り、悲しみ、多種多様な感情がない交ぜになったような険しい顔つきで。そんな彼に抱かれた名前は、糸が切れた人形のようにぐったりとしていて、真っ白な顔で……。
 想起するだけでも胸が張り裂けそうになる。

 その後急いで研案塔に運び込まれた華奢な痩躯は、すぐさま療師と燭の治療を受けた。
 様々な針や機械が名前に繋がれ、元々白い方だった肌が血液を失って蒼白さにより拍車が掛かった有り様を見て皆一様に顔を歪める。
 ツクモも、无も與儀も、そして、花礫も。
 時計の針が空しく刻む音に焦らされながら、集中治療室から療師達が出てくるのをひたすら待ち続けた。

 じっとはしていられない與儀が落ち着きなく扉の前を右往左往している傍らで、先程から壁に寄りかかったまま微動だにしない花礫を見遣る。
 彼はなにやら深く考え込んでいる様子で、その表情は重く険しかった。

「あの子のことが好きなんじゃないの?」

 ツクモが数日前、やけに苛々していた花礫に放った言葉。
 名前が壱號艇に出発して姿を見せなくなってから暫く、花礫はずっと隔靴掻痒としていたようだった。
 名前が任務の為あらかじめ一週間ほど艇を離れると知っていたのは與儀と喰、そしてツクモやイヴァといった輪メンバーだけ。つまり花礫や无には知らされておらず、彼は自分だけ故意に避けられているのだと思い込んでいたらしい。
 突き放したのは花礫自身、囂しいのが居なくなって清々したと束の間の解放感を味わったのは最初だけだった。時間が経つにつれ徐々にどこか引っ掛かるような後味の悪い情に苛まれ、奥歯にものが挟まっているような違和感が胸に燻り続ける。

 ──この違和感は何なんだ。
 釈然としない気持ちに乱暴に髪を掻き乱してムシャクシャする思いを振り払った。
 そこで突き付けられたツクモの発言。
 彼は鼻で笑ったものの、心臓はまるで正鵠を射られたとでもいうかの様に脈打っていた。

 花礫にとって、もうあの彼女が側にいるのは日常と化していたのだ。距離が近すぎて、分からなくなってしまっていただけ。
 ヘラヘラと笑って、だけど自分を見付けるといつも嬉しそうに駆け寄ってきて。
 鬱陶しい、はずだった。
 目障りだった、はずなんだ。

 いざ日常が欠落すると、心もぽっかりと穴が空いたようで物足りなさを感じていた。
 嫌いなのに、否、そもそも何故あんなに嫌った? 生理的に無理と感じたから?
 それだけじゃない、
 それは、そう。
 彼女が、かつて幼かった自分が世話になった女性に似ていたからでした。

 外見ではなく、本質というものだろうか。
 好きな男の為に我が身を砕き、最終的には命を落としてしまったツバキと花礫は名前を重ねて見ていた。
 いつかアイツも、好きな男を身を挺してでも守り、やがて朽ち果てるんじゃないだろうか。もしその守られる誰かが、「俺」だったら。
 ────冗談じゃない、
 ギリッと下唇を噛み締めた。

 此処に来て幾度と無く実感した己の不甲斐なさ。顕著として示される力量差。能力者と対峙した際にも輪の彼らに守られてきた花礫は、そんな名前の危うさを良く理解した上で危惧していた。
 だから、何度も小さな細い肩を突き放した。
 結局意味はなかったけれど。

 鼻腔を覆う鉄の匂い。
 白いシャツは赤黒く染まり、花礫が最後に見た笑顔も霞むほどの生気を失くした顔。
 治療室に入る前の彼女の頬には、紛れもなく涙の痕が血に混じって残っていた。
 ポケットの中に突っ込んでいた掌に爪が食い込む。
 その時、待ち兼ねた扉が漸く開き、中からは疲弊の色を濃く滲ませた燭が出てきた。

「………終わったぞ」
「燭先生!! 名前は…っ!!」
「騒ぐな馬鹿者。輸血も済ませたし、容態は落ち着いた。だが絶対安静だということを忘れるな。目が醒めたらまた私か療師を呼べ。一度部屋に戻る」
「ありがとうございました、療師もお疲れ様です」
「ほっほっ、何のこれしきよ。それよりも起きて誰も居なかったら寂しがるじゃろうからな、お前たちは名前に付いててやってくれ」
「うん……」

 心配そうに見上げる无の頭を撫で、療師は燭と共に自室へ戻っていく。
 時刻はもう明け方に近い。貴重な睡眠時間を削る形になってしまって申し訳なかったが、彼ら研案塔の人間にとってそんなもの関係なかった。
 一刻を争う事態に睡眠も何もあるか、そう怒鳴ったのは燭だったか。
 名前の状態を見て大きく瞳を見開いては、けれど早急に部下に指示を下し彼女を抱く喰ごと集中治療室へ促した。結果、療師と二人迅速に行われた救命処置により、名前は命を失わずに済んだのだ。

 ホッと胸を撫で下ろし、四人は断続的に心電図の音が響く治療室に足を踏み入れる。
 與儀は慣れた消毒薬の匂いに僅かに眉を顰めたが、寝台に横たわる包帯に包まれた彼女の躯に更に表情を悲愴に歪ませた。
 血液で固まった髪を梳き、はらはらと涙を零す。

「俺も付いていけたら、良かったのにな…そしたら、もしかしたら名前のこと守れたかもしれないのに」
「與儀……」
「…なーんて、こんな風に落ち込んでるとこ見られたら名前に怒られちゃうね!」
「……じゃあ俺も、名前に怒られる?」
「うん、多分无ちゃんでも怒られちゃうよ。いつまで泣いてんの男でしょ! って、」

 想像出来る、と與儀と无は顔を見合わせ笑みを洩らした。名前の容態が落ち着いたということで張り詰めていた緊張感も弛み、やっと和やかな雰囲気が漂い始める。
 しかしそれはあくまでも二人の間だけで、花礫とツクモは依然と浮かない表情を堪えていた。未だ一言も発さない少年をツクモが一瞥する。

(……少しだけでも、二人きりにしてあげなきゃ)
 この意固地な少年が、素直に自分の気持ちを吐露出来る時間を。
 そう意を決したツクモが與儀と无を誘い、名前が目を醒ました時に与える為の重湯を取りに行くという建前を置いて部屋を出る。
 シュン、と素早く閉まる自動扉の音を背中に聞きながら、一人残った花礫は寝台の横に備えられていた椅子に腰を下ろした。
 布団から出され点滴が繋がっている手を遠慮がちに握る。初めて自分から触れた小さな手のひらは以前彼女から触れられた時と違い、熱を持っていなかった。
 ぞわり、剰りの冷たさに背筋が凍る。
 意思を持たず、脱力しきっている腕が花礫に伸びることは──無い。
 その事実がただ、ただ。

「…早く、目ぇ開けろよ」

 花礫の中の焦燥を煽った。

 自分勝手だなんて判ってる。
 散々罵って突き放して、やっぱり自分の目が届く範囲に居ろだなんて虫が良いことも分かってる。
 だけど、──この違和感を取り除けるのならば、もう何だって良かった。


 煩いのも鬱陶しいのも、全部我慢してやるよ
 もう目を逸らすなんてこともしねーから、だから、

 ────早く、いつもみたいに笑え

 俺を好きだって、
 その声で、


 一方的に繋いだ手を、骨が軋むほど両手で強く握った。どこにも行かないように、己の側に結びつけておくように。
 瞳を綴じて幾許の時間が経ったのだろうか。
 掌の中に閉じ込めた指先が些細に反応を示して俯いていた顔を上げた。
 ゆっくり伏せられていた睫毛が開いていく。
 この時花礫が心底感じた安堵など、誰も知る由は無いのだろう。
「オイ、」
 大丈夫か? そう紡ごうとした唇は、名前の虚ろな双眸を目にして咄嗟に閉ざされた。

「──だれ、?」
「……は?」

 なに、寝ぼけてんだよ。
 失笑しながらも言葉を放とうとした口唇は引き攣って、けれど嘘を吐いている様子でもない名前を前に花礫は茫然とした。
 本気で言ってるのか。
 途方に暮れる少年を横に名前は暫し焦点を宙に彷徨わせる。すると。

「……が、アッ、ぅ、あああああ!!!」
「っ、名前!!」

 突然胸を押さえ叫びだした。
 繋がれてる機械がけたたましくアラームを鳴らしている一方で、暴れる細い腕を寝台に捻じ伏せる。騒ぎを聞きつけてやってきたツクモ達は二人のただ事ならぬ空気に瞠目し、與儀が部屋にいるであろう燭を呼びに慌てて踵を翻す。
 その間にも燭の助手や療師が訪れ、花礫たちは再び名前から引き離されながら、悲痛な面持ちで声を張り上げる彼女を扉が閉まる直前まで見ていた。

 少年が初めて呼んだ名は、彼女に届くことなく。
 繋いだ掌は、呆気なく引き剥がされた。
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