「名前は花礫を見て誰と、確かにそう言ったんだな」
「……ああ」
「しかし俺たちや无のことは覚えていた。とすると、花礫の事に関しての記憶だけがごっそり抜け落ちているということか…?」
「何か原因は考えられるか、喰?」
「……能力者はどうやら幻覚使いだったようです。夢を見せることで相手の動揺を誘い、怯んだ隙を衝いて肉を穿つ。名前の場合にも他の事象同様、同じ手口が使われたのかと」
「その時のショックが強かったか…或いはマインドコントロールされたか。記憶障害はあくまで一過性のものに過ぎないだろうが……」

 難は続くなと頭を抱えた燭が溜息を吐いた。
 彼女がどのような夢を魅せられたのかは想像に難いが、思いがけず記憶を失うほどのダメージを与えられたというのは明瞭としていた。
 現在は乱れた脳波も正常に戻り、治療室で落ち着いて眠っているだろう名前を思う。

 目が覚めた彼女はいつもと何ら変わりなかった──花礫のことを忘れている以外は。
 しかし何故花礫だけなのか、記憶を一部操作されているのだとしてもならば何故花礫と同時期に出逢った无のことは覚えているのか。
 あまりにも不可解なことが多すぎる。話を聞いていた平門も険しい面持ちで顎を撫でた。

「何にせよ、思い出すなら早いに越したことはないだろう……花礫のことも、事件当時のこともな」
「…僕は思い出さなくても良いと思いますけどね」
「……は? 何でだよ」
「自分で理由が判らない? ああ、君は名前のことを嫌ってたもんね。なら今の状況はむしろ好都合なんじゃないの? もう名前が君に付き纏うことも無くなるし、これからは沢山一人の時間が楽しめる。こんな結末になってめでたしめでたしじゃないか」

 露骨に棘を含んだ喰の語気が癪に障り、花礫は眉を顰める。
 一触即発、一気に剣呑とした雰囲気が漂いはじめた場を諫めるために平門が「喰」と声を掛ければ、彼は不承不承と肩を竦めてバツが悪そうに目を逸らした。

 切歯扼腕としているのはなにも花礫だけではなかった。幼馴染みの躯が目の前で能力者に貫かれ、目蓋を閉ざすその瞬間まで一部始終を見ていた喰だって、忸怩たる思いに苛まれていた。
 迂闊だったのだ。名前が努めて平静を装っていたのには気付いていた。けれど自分はどうせ直ぐにまた立ち直るだろうと楽観していたのだ。
 慕っていた人物に真っ向から嫌いと言われて傷付かない人間なんて居るわけが無いのに。

 なのに今更掌を返したように名前に接しようとする花礫の態度を見て、喰の心は穏やかではなかった。
 この期に及んで何を言うのか、まだ彼女を縛るつもりか。腹の虫は収まることを知らず、彼の中で鬱勃と煮え立っている。
 腐ってもアレは僕の幼馴染みなんだ、いい加減他人に泣かされてばかりなのは気に食わない。
 依然として強い眼差しを向けてくる花礫を一瞥し、喰は早々に踵を返した。

「どこに行く?」
「世話の焼ける幼馴染みの様子を見に行ってきます。これ以上僕が此処に居ても場の空気を悪くするだけですし」
「……」

 貼り付けた笑みを湛えて扉の向こうに消えていった青年を見送り、燭はドッと溜まった疲れを吐き出すように嘆息を零した。
 平門はさぞ面白くなってきたと言わんばかりにほくそ笑んでいるし、花礫はというと不機嫌さを隠すこともなく扉を睨み続けている。誰か収拾を付ける者は此所に居ないのかと己の中の気力と体力が消耗していくのをありありと感じながら、燭は少年に話しかけた。

「花礫、お前ももう戻っていい。ご苦労だったな」
「……いや、別に……」
「おや、燭さんが私と二人っきりになることをご所望とは珍しい事もあるものだ」
「気色の悪いことを言うな鳥肌が立つ!!」

 本気で嫌そうに顔を歪める燭を見て緩やかに弧を描く平門は間違いなく確信犯だ。巻き込まれない内に退散するか。面倒事が降りかかる前に逃げを打つ花礫はいそいそと部屋から抜け出した。
 ようやっと重苦しい空気から解放されたことに胸を撫で下ろし、迷わず自室へと足を向ける。その間も脳裏の片隅では、喰が放った言葉がいつまでも耳朶にこびり付いていた。

 僕は思い出さなくても良いと思いますけどね

 フザけんな、小さく吐き捨てた声は廊下に落ちた。
 あの緩みきった笑顔も、好きだと紡いだ声も、全部過去のもの。名前が花礫のことを忘れてしまった今、彼女が彼に対して抱いていた感情も全てリセットされたということだ。
 ギリ、噛み締めた唇にうっすらと血が滲む。

(……だから俺は嫌だったんだよ、惚れた腫れただの下らねェ)
 こんなにも振り回されて、こんなにも──掻き乱される。

「……バカみてえ」
 失ってから気付くなんて。

 ふと立ち止まって、あの時名前の温もりに触れた手のひらに視線を落とす。
 何度も傷付けた、自分は見たことは無いけれど、きっと何度も泣かせた。喰の怒りも尤もだ、自分でさえ身に余るのだから。
 本当の馬鹿は一体どちらだったのか、そんなこと火を見るより明らかだった。

 物思いに耽りながら角を曲がると、胸元に軽い衝撃が走る。
 悪い。ぶつかった人間の顔も見ずそう告げれば、ふいに鼓膜を掠めた声に瞳を見開いた。

「……お前、なんで…」
「ぇ、あ……えっ、と」

 何故なら花礫の目の前に居たのは、治療室で安静にしている筈の名前だったから。彼女はマズい、と顔を青ざめながらじりじりと後退する。まさか抜け出してきたのか、そう花礫が察するのも時間は要らず、腕を掴もうとした──ら、空を切った。

「……っごめんなさい!」

 満身創痍の体を捻らせて花礫の許から走り去っていく名前の背中に、ただ呆然と立ち尽くした。
(なんで、お前が逃げるんだよ)
 いつも嫌になるほど向けられていた視線はろくに交わることなく逸らされ、温もりは呆気なく離れていき背中は遠ざかる。次会ったらまた普段のように挨拶してくるんじゃないか。
 そんな期待は彼女の手によって粉々に壊された。

 何があっても拒まれないだろうと根拠もない確信に自惚れていたんだ。だが現実は非情で、残酷で、思い通りには進まない。


 ────ブツリ。
 何かが切れる音が頭の中で響いた。

「…………上等じゃねーか……。待て、オイ止まれそこのバカ女!!」

 忘れたままなんて許さない。
 お前が俺に会いに来ないなら、しょうがねーから今度はこっちから行ってやるよ。

 覚悟しとけ、
 狙ったエモノは逃がさない

 誤ってかすみ網を落とした狩人は、虎視眈々とその時を狙っていた獲物に喰われる運命なのでしょう。
 まさに命を賭けた鬼ごっこ。
 お腹を空かせた元獲物は舌舐めずり、決して目の前のご馳走を逃すことはありません。

 おいでおいでと牙を光らせて待っているよ
 だからはやく、
 ───同じところまで堕ちてきて
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