どれほど探しても、
どれだけ泣き叫ぼうとも、
微笑んでくれた″あなた″はもういない。

「──平門……?」

「……? 平門、あの人知り合い?」

「いや、記憶に無いが……誰だ?」

時を駆けていつの間にか大きな隔たりが生まれていた私達の最果てに待ち受けていたものは、今更どうしようもない深い溝と決定的な軋轢だった。
(出来るならばもう一度、困ったように微笑ってその腕で抱きしめてほしかった)






「…………変な顔で、見られちゃった」

新手のナンパ扱いかな?
はは、と参ったように苦笑する友人の姿に、朔はお前こそ今にも泣きそうな顔してるぞと指摘することは出来なかった。口を結んで、胸が詰まるような感覚に拳を握り締めながら切なそうに瞳を伏せた名前を見つめる。

平門は、やはり今回も例外なく生まれ変わっていた。姿形が変わっていようとも勘で分かる。彼は昔から、威を張る出で立ちで独特な空気を纏っているから。
────しかし転生した彼に、これまでの記憶は無かった。真っ新な人間としてリセットされて、この世に再び生を受けた。
自分達が知っている″平門″は、消えたんだ。安心したような泣きたそうな、そんな様々複雑な感情を声色に織り交ぜて名前はポツリと呟いた。

巡っていた因果も、やっとおさらばかな。

延々と果てしなく続いていた堂々巡り。何度苦痛を強いられ阿鼻叫喚の渦に巻き込まれても、それでも二人は屈しず共に乗り越えようと足掻いてきた。でもそれももうお仕舞い。いい加減、年貢の納め時だろうかと思っていたのだ。これでようやく自分は死期が近付いてきたのを察する毎に、心残りすることなく逝ける。平門も、一人孤独に苛まれることも無く傷付かずに済む。

それに今の平門の隣には美しい女の人が連れ添って歩いていたから、きっとあの人が現世での恋人なのだろう。なら自分はお払い箱だと、名前はそう笑い話のようなノリで肩を竦めて顰めっ面をしている朔に言い切った。
嬉しい、ような。哀しい、ような。不完全燃焼に蟠る感情には、頑丈な蓋をした。

「やだな、朔ってば……朔までそんな顔しないで。場が暗くなっちゃうじゃない」

「名前……」

「……本当に、大丈夫だから」

依然曇った面持ちを見せる朔におどけていた名前も居心地悪そうに失笑し、緩くかぶりを振った。

大丈夫なんて言っておきながら、本当は全然平気なんてことは無いことくらい朔も見抜いていた。
虚勢なんて百も承知だ。今の名前は笑っているが所々綻んでいて歪にしか見えない。
作り笑いさえ下手くそで、泣きたいのならいっそ大声を張り上げて人目を憚らず、本音を吐き出してくれた方が俺も楽なのにと男は苦い心境の中に居た。

ふとコーヒーカップに添えられていた手を上から重ねるように包みこめば、丸くなった瞳がこちらを見る。
そのまま掴んで己の頬にすり寄せれば、名前は息を飲んで何か言おうとしたが直ぐに止めた。

「俺に、するか。名前」

「……、冗談。もう懲り懲り」

「幸せにするぜ?」

「気持ちだけもらっとく」

どんなに世の女性が憧れるような甘言を囁こうが口説こうが、決して揺れない靡かない。名前はそんな女だった。そんな女だったからこそ、朔は始末に負えないほど熱く魅了されたのだ。けれど自分のモノにしようなどと大それた邪な想いは抱かなかった。いつだって彼女の側にはあの平門が居て、二人は他人が介入する隙間なんて無いくらいに互いを盲目溺愛していたのだから。

誰もが認めるひねくれ者が女を見つめる眼差しは優しく愛おしみが籠っていて、同様に意地っ張りな女が男に向ける表情は慈しみと同じ分だけの愛情が帯びていた。幸せそうで、世界には二人だけのような雰囲気が常に醸し出されていて。
あんなん見せ付けられたら毒気も失せるわ、なんて朔もヤレヤレと呆れ顔を浮かべていたのに、何故平門は今になって忘れてしまったのだろうか。名前との別離を、受け入れたのだろうか。

納得がいかねぇ、と珈琲豆の香りを楽しむ名前を思案顔で見つめながら、朔も手元のカップを口に運ぶ。
舌を撫でた液体は既に温くなっていたが、それがまたいっそう豆の苦味を引き出して眉を顰める。
そしてその表情は、次に名前が発言した言葉によりますます険しくなっていった。

「私は、きっと今回も永くは無いから…」

「……名前、お前がそんな弱腰でどうすんだよ。今回こそは、大丈夫だ。そう信じるしか、」

「それは、前もその前もずっとずうっと思ってきた。信じてきた。今度こそは、って言い聞かせてきた。……でも、ダメだった。叶わなかった。結局生きられなかったんだよ、朔」

平門を置いて、一人先に。
もがいて、叫んで、天を恨んでも。
自分たちが求めたハッピーエンドは得られない。

諦めたくは、なかった。だけど、
諦めるしか、なかった。

まさか今度は自分が置いて行かれる側になるなんて、思いもしていなかったけれど。

「恐らく″次″に生まれ変わった時、私の記憶も失くなっていると思う。……ほんとはね、今でも結構肝心なところが薄れてしまっているの。思い出したくても、浮かぶのは死に際に見た平門の泣きそうになったくしゃくしゃの顔だけ」

「……!!」

「……忘れたく無いことを忘れてしまって、忘れたいことだけ憶えているのなら、いっそ私も全て忘れてしまいたかった、な……」

───色褪せて、しまうのなら。

笑顔が、ほつれた。
操り人形のように何本も垂らして無理矢理上げていた口角も力が抜け、笑おうとしても頬は意とは反して引き攣るばかり。いよいよ堪えきれなかった透明な涙がつぅっと頬骨を伝い顎から滴り落ちて、名前が持っていた珈琲の中に入った。

虚ろな表情で堰が切れたようにひたすらボロボロと涙を流す名前に、朔は途端にやるせない想いに駆られた。
(……何で、お前が泣かせてんだよ、平門)
名前を笑顔にしてくれるなら誰でも良い、但し泣かせるのだけは許さないと断言していたかつての友を思い出しては殴りたくなった。
そんなことで消えた平門が戻ってくるならば幾らでも殴ってやるのだが、名前は望んではいなかった。

もしかしたら思い出してくれるのでは、という淡い期待と、思い出したとしてもまた平門が辛い想いをするだけだからという未来への不安。
自分の願望を優先するか平門の幸せを優先するかのせめぎ合いに、名前の精神は限界だった。

──こんな時こそ、お前が傍に居てやんなきゃ意味ねえだろ……平門の馬鹿野郎。

自分じゃ、役不足だ。
行き場のない持て余した怒りに切歯扼腕する。ただ一つ、朔が言えることがあったとしたら、

「………名前、」

「……ん?」

「出来るだけ後悔しない、道を選べ。お前が言った通り絶対明日も生きられるなんて保証はどこにも無い。だがそれは名前だけに限ったことじゃない、俺も、平門も、他のヤツも。いつ何があるか分からないご時世なんだ、だから」

全身全霊で、真っ向勝負してこい。

当たって砕けたら骨は拾ってやるからよ、と重い空気を吹き飛ばすように、朔はあえてあっけらかんと軽口を交えて笑った。


この時、こんな後先考えずなことを口にしなければ名前はまだ笑っていたかもしれない。
けれど彼女にとって唯一無二である片方はやはり欠けてしまっていたのだろうか、物思いに耽っても、正しい答えを見出すことは叶わない。

朔の後押しに名前はキョトンとした後、悩んでいたことが馬鹿らしくなったとでも言わんばかりに吹き出して。

────ありがとう。
それが、彼が彼女と最後に交わした会話だった。
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