「 ちょ、もう平門……そんなにくっつかれたら身動き取れないってば……」

「たまには良いだろう? 今日は折角の休日なんだし、ベッドの上から動かないというのも」

「身体、鈍っちゃうよ?」

「これしきのことで俺が遅れを取るとでも?」

「……その余裕憎たらしいわあ……」

ジトリと睨むような目付きに平門は喉の奥でくつくつと笑みを噛み殺し、前髪を退けて露わになった額にキスを一つ。まさかキスでご機嫌を取れるとでも?
と、これまた拗ねたような口調で名前が腹を小突いてくるから、平門は柔らかい微笑は崩さないままおっかないな、と揶揄った。

すっかりヘソを曲げてしまったお姫様の顔中に満遍なく唇を落として行く。
蟀谷、鼻梁、頬、目蓋、最後に唇。ふわふわと弾力のある感触を楽しむように啄ばむと、やがて痺れを切らしたのか名前の方から下唇を甘噛みしてきた。
反抗のつもりか、それもまたいじらしいなと別段腹を立てる訳でもなく愛おしさが込み上げてくる辺り自分は重症に違いない。
誘われるがまま、平門は薄く開かれた唇に押し付けるよう顔を斜めに傾けて交わりを深くした。

───それが、一番初めに二人が生きている時交わした最後の温かいキス。

次に唇を重ねたのは、名前が冷たくなってピクリとも動かなくなった時だった。

(……名前、俺は)
何度、この手で君の亡骸を棺に収めただろうか。
何度、この唇で君の冷たい唇にキスをして誓いを立てただろうか。
何度、(置いて行くなと、咆哮しただろうか)

俺が俺で、名前が名前であったから。
そんなことが俺達が引き離される理由なら、俺は俺で在ることを放棄しよう。

何も知らない、真っ新な自分で。
また君を見つけられたら、その時は。

今度こそ、────運命に抗おう。共に。




抗えたら、良かったのにね。




「……また、お前か」

「……ふふ。その嫌そうな顔は、残念ながらもう見飽きたんだけどな」

「だったらもう俺に付き纏わなければ良いだけの話だ。着いてくるな」

「そうも、いかないんだ」

これがきっと最後のチャンスだから。

思いの外意表を突く発言に平門が後ろをついて歩く女を振り返れば、彼女はただ眉尻を下げて困ったように微笑んでいた。この笑顔には心当たりがある、だが自分は彼女と面識など無いはず。
だからきっと気の所為なんだと平門は片を付けて、最後だか何だか知らないがそんなくだらない事に時間を割いてる暇は無いと鼻にもかけなかった。

踵を返して女を振り切ろうとすれば、しかし名前は粘り強く通せんぼを試みる。
この数日間彼女はいく先々に現れて平門の後を追いかけ回していたが、ここまでしつこく食い下がろうとはしてこなかったのに。どういう風の吹き回しだと平門が道に立ち塞がるその姿を睨みつければ、名前は切なそうに笑った後、瞳を伏せてからまた平門を見据えた。
今度は、真剣な眼差しで。

「ねえ、平門。私、幸せだったよ」

「………何を言って、」

「今のあなたにとって、今の私はただ妄想癖が酷い頭の可笑しい人間にしか見えないでしょう。荒唐無稽で、雲をつかむような絵空事も大概にしろと、そう思うでしょう。それならそれで良い。私はただ、伝えたいだけ。どうか聞き流して」

今まで愛してくれてありがとう。
今まで傍にいてくれてありがとう。
今まで諦めないでいてくれてありがとう。


────ひとりぼっちにして、ごめんね。

名前、と名前を呼んでくれる声が好きだった。
頭を撫でてくれる手が好きだった。
宥めるように時折降ってくる唇が好きだった。
飛び込めば受け止めてくれる大きな胸が好きだった。温もりも、心音も、息遣いも、全部。

愛おしいところばかりが止め処なく溢れて満ちて幸せで、それは多分、自惚れでもなんでも無くて平門も同じ気持ちだった。


ありがとう。ごめんね。さようなら。


意味がわからない、といった怪訝な表情をする平門を前に、名前は今の自分が浮かべられる渾身の笑顔でそう言った。己とのことを思い出してもらおうとはこれっぽっちも思っちゃいなかった。
ただ有りっ丈の感謝を伝えたくて、それで。

話はそれだけか。
するとなんの感慨も無い、冷ややかな声が返ってきてうん、と頷く。
後ろ髪を引かれる様子も無く、初めから他人事のように脇を過ぎ去っていく平門に胸は痛んだが、自分が腹を括って決めたことだろうと名前は唇を噛んで離れていく背中をぼんやりと見つめた。

───刹那、視界の端を横切ったトラック。それは紛れも無く平門の方に向かっていて。
考えるより先に彼女は、走り出していた。

「……っ平門!!」

「は、……!」

まだ何かあるのか、そう素っ気なく言おうとした矢先に力強く押されて傾いた身体。

壁に衝突して、頭は打ったものの他に大した衝撃は無かった。それよりも直ぐ後に聞こえてきたブレーキ音と、フロントガラスが割れた音が一帯に轟いて、平門は恐る恐る瞳を開けた。

……血の海、というものをこの時彼は初めて直で目の当たりにした。
見る見るうちに華奢な身体から漏れていく生命の源。耳をつんざく程の周りの悲鳴、動揺。

脳裏を過った、″彼女″の、笑顔。

「……お前、は………?」

「………ほ、んと…ドジ、だなぁ…」

「………!!」

掠れた声、歪んだ顔。
血の海に沈んだ、……名前の、体躯。

瞬く間に記憶が逆流してきた平門は口を覆った。胃からせり上がってくる吐き気、それよりも膨大な感情が胸を圧迫して全身が震える。

鉛のように重い腕を伸ばし、血の気の失せた頬に触れるとベトリ、こびり付いた液体。

「………名前………?」

妙に馴染んだ名を口ずさめば、微かに見開かれる瞳。嬉しそうな、けれどどことなく悲しそうな微笑みを浮かべた名前は「ばか、」と硬直する男に呟いて──静かに、瞳を閉じた。

世界が、真っ白になった。



なあ、名前。

たとえばあの時、
もう一歩俺に踏み出す勇気があったなら
お前は今、俺の隣で笑っていてくれただろうか。
出会った頃と変わらない あの笑顔で───


(そうして何度も繰り返し夢を見る)
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