「朔、どうしましょう……」
「おうどうしたー? そんな深刻そうなツラして」
「キイチちゃんが通せんぼして帰してくれません」
「でかしたキイチ」
由々しき事態だと頭を悩ませる名前の一方で、人目も憚らずガッツポーズを取った朔は本当に大人気無かった。
久し振りに仕事の件で訪れた壱號艇。
最後の最後まで彼女を朔の許にお使いに出すことを渋っていた平門や闘員の面々を四苦八苦しながら何とか言い包めて自ら赴いたものの、まさかこんな所で思いもよらぬ足止めを喰らうとは予想だにしていなかった名前はほとほと困り果てていた。
全ての原因の発端はいま先程口にした名の少女にある。
仕事を片付け、この場に留まる理由も特に無くなった名前は、あらかじめ平門に「用を終わらせたら直ぐに戻ってこい」と何度も念を押されていたこともあって、朔に挨拶を済ませたら帰ろうと執務室への長い道のりを歩いていた。
そんな時たまたまバッタリと出会した青髪の少女。
キイチは名前が来ていることを知らされていなかったのか、彼女の姿を見るなり途端に大きな瞳をさらに丸くしたが、次第にそれまでムスッとしていた仏頂面が瞬く間に柔らかく綻んでいった。
「──名前さん!」
即座に駆け寄ってきた少女の頭を撫でれば恥ずかしそうに逸らされる視線。
こういう仕種はツクモにそっくりだと思いながら、名前は依然困ったように瞳孔を彷徨わせるキイチに微笑みかけた。
「お久しぶりですね、キイチちゃん。元気にしてましたか?」
小首を傾げて問う名前に勿論ですぅ、とすかさず俯いていた顔を上げたキイチが返す。
名前さんは今回なんのご用件で?と不思議そうな少女に粗方の事情を話し、丁度いま帰ろうとしていたところなんだと告げれば再び丸められる曇りのない双眸。
すると何やら暫く考え込んだ後、キイチは「だったら少しお茶でもしていきませんかぁ?」と名前の腕を引き寄せた。
一応やんわりと尋ねてはいるが、恐らくキイチは自分が肯くまでこの手を解放する気は毛頭無い。百々のつまり拒否権は端から与えられていない。まぁ少しくらいなら大丈夫かと苦笑した名前はやがて首を縦に振って誘いを了承し、招かれた少女の部屋に足を踏み入れた。……のが、運の尽きだった。

迂闊だった、油断していた。まさかあのキイチが自分に睡眠薬を盛るなんて。目を覚ました時には既にお天道様は沈み夜の帳が降りていて、ようやく事の思惑に気付いた名前は身の毛の弥立つ悪寒に頬を引き攣らせた。
このままじゃ平門の厳しい叱責を受けることは免れない、何としてでも一刻も早く艇に戻らなければ。横になっていたソファーから身を起こし、誰もいないキイチの部屋を慌ただしく後にして転送ポートに向かった。しかし、
「……キイチちゃん、」
「駄目ですよぉ、ここから先は一歩たりとも通しません」
肝心の出入り口では例の少女が兎を引き連れ、仁王立ちして今か今かと名前を待ち構えていた。
とんだ伏兵が潜んでいたものだと思う。以前訪れたとき帰ろうとしていた自分を引き止めたのは喰だったが、彼ですらこんな強引な手段は行使してこなかったというのに。よもや平門が危惧していたことが現実に起こり得るとは。
説得はした、交渉もした。思い付く限りのあらゆる取引条件を提案した。けれど少女は頑として、決して自分の意思を譲ろうとはしなかった。

一通りの詳しい経緯を聞いた朔は「あー…」と参ったように声を洩らす。普段人に甘えるということをしないキイチだが、この名前という人物に関しては付き合いの長い朔ですら想定の範囲を逸した行動に出ることがある。
よほど彼女を信頼し、尊敬し、また心から慕っているのだろうが、いくら壱號艇に残って欲しいからと言えど睡眠薬を盛るという行為自体はとても誉められたものじゃない。
迷惑掛けて悪かったな、と手の焼ける部下の代わりに頭を下げれば、面食らった様子の名前は慌ててそれを制した。
「朔、貴方は上に立つ立場の人間なんです。この程度のことでそんな簡単に頭を下げたら下の者に示しが付きません。私は怒ってませんから、早く顔を上げて」
「…ああ、悪い。キイチには俺からよく言い聞かせておくからさ」
「お願いします。それで、平門に怒られる前に早く帰りたいので出来れば別の出入り口を教えてほしいのですが……」
「それは名前が壱組に来るってんなら教えてやる」
「さては貴方たちグルでしょう」
胡乱気に瞳を細めた名前に、いや俺は今回加担してないぞ、と朔が白々しくかぶりを振った。前科があるため最早その言葉すら疑わしいが、真偽を確かめる程の猶予は今の名前には残されていない。
もう良いです、と重々しく溜息を吐いて踵を翻せば後ろから聞こえてくるのは安閑とした笑い声。人がこれほど苦戦しているというのに気楽な男だ。
「ま、でもキイチの言い分も訊いてやってくれ」
笑い声が止んで飛んできた言葉に名前は当然ですとだけ返して執務室を出る。あの子はなんの理由も無しにこんな事をするような子じゃない、きっと今回だって。疑心ではない、確信だった。
だから懲りもせずまた再び転送ポートへ向かって、扉の前で膝を抱えて座っていたキイチの姿に声を掛けた。
ピクリ、小さく揺れる細い肩。
キイチの隣に同じような姿勢で腰を下ろして、名前は気まずそうに目線を背ける少女の頭にそっと触れた。
「…………ごめん、なさい」
間を置いて呟かれた謝罪に、名前はふと頬を弛ませる。
「……貳組の連中はズルいですぅ。仕事が終わったら名前さんの美味しいご飯を食べられて、いつも名前さんと一緒にいられて……キイチはそんな会えないのに、不公平ですよぉ」
「キイチちゃんもいつでも貳號艇に遊びに来ても良いんですよ? 気心の知れた喰君も居るんですし」
「っお断りですぅ、誰があんな喧しい所に……」
「でも嫌いじゃないでしょ?」
「……」
分かりやすく口を噤んだキイチに、名前はクスクスと喉を鳴らして笑った。すると笑わないでください!とキイチが顔を真っ赤に染めて反抗する。
しかしどれも可愛らしい照れ隠しとしか思えない。皮肉は言っても絶対に嘘は言わないこの少女は、大人のあざとさ、狡猾さというものを熟知している名前から見ればまだまだ青く若かった。
「キイチちゃんはもっと甘えたって良いんです。いつもそんな風に肩肘張ってたら疲れちゃいますよ」
「誰が…」
「甘えるのと弱みを見せるのは似ているようでその実全く異なります。甘えるのは弱いからじゃありません。自分の為の暫しの休息であり、心をさらけ出す信頼の証でもあるんですよ。そんな信じられる人達なら、キイチちゃんの側には沢山居るじゃないですか」
「……確かに居ます、けどぉ……」
「……?」
いつになく歯切れの悪いキイチに首を捻る。
「──名前さんは、そんなとき側に居てくれないじゃないですか」
拗ねたように宙に消えた言葉に名前は思わず呆気に取られた。
まさかキイチからこんな発言が出てくるとは夢にも思わなかったからだ。まるで心を擽られる感覚、これを人は母性心とでも呼ぶのだろうか。少女が娘のように感じられて可愛くて仕方ない。
堪らず華奢な痩躯を抱き寄せれば腕の中であたふたと慌てふためく気配。それを造作もなく押さえ込んで「じゃあ私、今日はここに泊まりますね」と告げれば、きょとんと見上げられた。
「今日はご馳走にしましょう。そして朔や他の皆さんとご飯食べて、キイチちゃんとお風呂にも入って一緒に寝て。その為には少し遅いですがこれから夕食の下拵えしなきゃならないので、キイチちゃん手伝ってもらえます?」
「……っはいですぅ!」
今日はたっぷり、この女の子を甘やかしてあげよう。
徐に立ち上がった名前はキイチに手を差し伸べ、やがて重なった手のひらを引いて満面の笑顔を浮かべたのだった。


キイチちゃんの通せんぼ



「あれー、平門サン? どうしたんですかこんな所に一人で」
「與儀か……名前が、今夜は壱號艇に泊まるそうだ」
「っえええ!? 大丈夫ですよね!? ちゃ、ちゃんと帰ってきてくれますよね!?」
「縁起でもねーこと言ってんな!」
「だだだって花礫くん、料理長がいる所はあの朔さんが居る場所だよ!? やっぱり心配だから俺も壱號艇に……!」
「駄目だ許可しない」
「そう言うけど平門、アンタも物凄い行きたそうな顔してるわよ」
「……行っていいか?」
「ダメに決まってんでしょ」


@とりあえず天然タラシな料理長をば。料理長には皆が甘えられるような存在というか、位置的にいてほしいな、と。というか本音は子供っぽいキイチちゃんが書きたかっただけですスミマセン(((
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