「今日はなんだかずいぶん上の空ですね、平門。何か気がかりなことでも?」
「いや、……名前にプロポーズされた時のことを思い出していた」
「心配して損しました。寝言は寝て言えこのやろう」

ぺっ、と今にも唾を吐きそうな面持ちで毒づいた名前に、「なんで俺だけいつもそんな粗末な扱いなんだ」と平門が嘆かわしく頭を抱える。「わざわざ言わずとも理由はご自分でお分かりでしょう?」胡乱げに瞳を細めながら名前がじろりと一瞥をくれれば意味深な微笑が浮かべられた。
相変わらず食えない男だ、心中で女はそうごちた。

朝食も済ませ、次はあらかじめ昼食の下拵えをしておこうと名前がバタバタしていた時のこと。
羊から平門が呼んでいると報せを受け、何の用かと疑問を抱きながら彼の自室を訪ねれば、今日は食事の準備は他の給仕に任せて良いから書類整理の補助をしてくれとのことだった。彼が折り入ってこんな申し出をしてくるなんて滅多にないことで、そんなに切羽詰まってるのかと首を捻れば重々しく零されるため息。
良く分からなかったが醸し出される雰囲気から止ん事無き事情を察した名前はそれ以上掘り下げることはせず、苦笑しながら了解しましたと首肯した。

それから書類に必要な文献資料などを手元に集め、山と積み重なった紙の半分を頂戴しあらかたざっと目を通していく。
これは大して重要では無いから後回し、こっちは至急平門に確認してもらってサインを要するもの。
素早く、けれど一切抜く手も見せずどんどん書類を捌いて一段落つき顔を上げれば、いつになく険しい面持ちで書類を凝視する平門が目に入って。しかし心ここにあらず、といった様子で微動だにしなかったので怪訝に思って自然を装い話しかければ返ってきたのは冒頭の以下省略。
そうですよね貴方悩みなんていう言葉とは無縁そうですものね。皮肉をたっぷり込めて肩を竦めれば「失礼だな」と失笑された。日頃の行いである。

「まぁ、確かにかれこれ十年以上の付き合いになりますからふとした時に感慨に耽るのも分からなくは無いですが」
「だろう? ……本当にお前には感謝しているよ。あの時俺の手を取ってくれて」
「……らしくないですね。そんな殊勝な態度を取るなんて」

貳號艇長として就任が決まった時。
平門はまだ何処にも配属が決まっていなかった名前に「俺の艇に来ないか」と声を掛けた。
それも闘員としてではなく料理長として。ごく稀に前線に出ることもあるが、それは適材適所という言葉があるように名前にしか熟せないと判断された仕事の場合のみ回される。
今でもあの時のことは忘れられない。毅然とした姿勢で真っ直ぐに自分を見据え、心臓に拳を当てながら言われた言葉は何よりも根強く、そして鮮明に平門の脳裏に焼き付いている。

「私の心臓を貴方に捧げる、なんて口説き文句は流石に初めて言われたな。当時は就任早々なんて重いものを一緒に背負わされたと思ったが」
「おちおち油断して気を抜いても居られなくなったでしょう? 私の心の臓を預かってもらっている以上、そう簡単に死なれては困りますから」
「お前に死なれても困る」
「承知してます。だからこれはお互いに釘を差すための楔みたいなものですよ。何事なく生きて帰ってくるための、ね」

心臓を捧げた人物が消えてしまえば、同様に自分の存在も消えてしまったようなもの。息はしていても核が無ければそれは空っぽな抜け殻でしか無く、心は死んだも同然。だから平門は帰ってくる、彼女を生かす為に。名前も平門の命令以外では命をぞんざいに扱うような危ない橋は渡らない、彼に命を預けているから。
十数年の間で着々と築き上げられた信頼関係は今も崩れることなく、楔は二人にとって暗黙の了解と化している。
帰ってこなければ許さない。
口には出さずとも互いを繋ぐ絶対の誓約。
さながら呪いみたいだな、と平門が呆れ混じりに苦笑する。
名前もまた不敵に微笑んで、「じゃあ平門が先に死んだら末代まで祟って地の果てまで追いかけてやりますから」と物騒な発言をサラリと投下した。

「………今のもプロポー」
「削ぐわよ」

敬語が消えた。ヤツは本気だ。削がれるむしろ殺られる。
自分の命の灯火が潰える前にと災いの元を噤み、咳払いを一つ。
名前は悠長にコーヒーを淹れていて、幸いこちらには背を向けている。が、いつあの万能包丁が持ち出されたらと思うと迂闊に落ち着いてもいられない。これ以上逆鱗には触れないようにと細心の注意を払いながら、平門は口を開いた。

「…しかし、何故お前は俺を選んだ? あの頃から朔にもしつこく勧誘されてたじゃないか」
「…貴方は、昔私が憧れていた人にとても似ていたから」

彼ほど神経質では無いし、ましてや外見なんて似ても似つかないですけどね。特に身長とか身長とか。
思い出したようにクスリと笑みを零す名前に、平門の心境は複雑だった。彼女の心を占めるのはいつだってその憧れの男で、自分では無い。自分越しに映される大きな存在、影。
一緒には、荷を背負えなかったから。呟かれた言葉には、僅かに悔恨の色が含まれていて。腹立たしい、と思った。

「平門とあの人は全くの別人です。それは重々分かってます。…でも、あの人と同じく憎まれ役を買って出ては一人で全ての責任を負おうとする貴方を、放ってはおけなくなった」
「……」
「所詮、自己満足でしかありません。あの時果たせなかったことを、私は貴方を利用する形で成し遂げようとしている」
「……利用? それは少し違うな。そんな小さなことを利用と言うなら俺だってお前を利用している」

珍しく苛立ちを隠せないまま語気荒く告げれば、きょとんと丸められる瞳。

「お前がいれば、與儀やツクモ達も嬉々として帰ってくるからな。温かいご飯を楽しみに」
「……利害は一致していると」
「そういうことだ。だが、」

生憎ながら俺は、いつまでも一括りの枠に収まっている気は無い。
コーヒーを置いた手を捕まえて引き寄せれば彼女の体躯は呆気なく平門の胸になだれ込む。突然のことで呆然とし抵抗する隙も与えられなかった名前は暫しそのまま硬直していたが、やがてハッと我に返ってジタバタと暴れ始めた。

「何するんですかこの変態」
「上司に向かって変態とは聞き捨てならないな」
「パワハラで訴えますよ」
「誰にだ」
「時辰様あたりにでも」

そう多少ドスの利いた声で脅しにかかれば渋々と解かれる腕。
はぁ、と深々とため息を吐けば「緊張したか?」なんて確信犯の笑みを湛えて平門が問うから、名前は即座に顔を顰めて盛大に舌を鳴らした。

「寝言は寝て言えと先に言いましたが」
「したんだな」
「よぉーし、その心意気に応えてちょっと今包丁持ってきますね」
「悪かった止めてくれ」

速攻でくるりと踵を返した名前を慌てて止めた。されど否定はされていないことから図星と見て取れる。
可愛い奴だな、昔も今も。
どことなく不服そうな拗ねた面持ちを浮かべる名前を見て笑う。
穏やかな一時、懐かしい過去を想いながら、おもむろに彼女の手のひらを取って甲に口づけた。

どうか、
これからも変わらず自分の傍に。


(……気障なひと)
(嫌いじゃないだろう?)
(好きでもないです)
(素直になればいいのに)
(…………うるさい)
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